二十八話
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「例えば、ミーシャちゃんの上司のラウルという男。彼は、自分の昇進のために恩人である上司を見捨てた」
「……え……?」
金槌で頭を殴られた様な衝撃がミーシャを襲う。こめかみ辺りが熱を持ち、どくどくと血が流れるような感覚があった。血と共にラウルとの思い出も流れていくようで、これ以上流れて欲しくないと、手で流れてもいない血を止血しようとするミーシャに、キャスウェルは容赦ない追撃を加える。
「例えば、ミーシャちゃんの先輩君のトーラス。彼は恵まれない家庭環境から誰からも必要とされないことに極度の不安を感じ、他人からの信頼に飢えていた。そして、この森で働くようになって親のように接してくれる人の信頼を得ようと、裏切りを犯した」
「なに、言ってるの」
「例えば、モデール監督署の面々。彼らは、押しつけられる善意が疎ましかった」
「……わけわかんないこと言わないで!」
「僕はまだまだ監督者としての歴は浅い。だけど、この森で起こった出来事は、特に幸せに関するものはたくさん見てきたよ」
幸せ。幸せは。
「どれも実に人間的で、美しかった。自分の幸せのみを追求する姿は、傲慢で、利己的で、独善的。人間とはかくあるべし。実に醜く美しい様だった」
誰かの幸せを奪って手に入れるもの。
「彼らは天秤に乗せたのさ。幸せという名の角砂糖を。そして、掴みとった。自分の幸せを。でも、その代わり誰かが幸せになれなかった。その誰かは誰だと思う?」
誰かって……誰?
「ごめんね。僕はミーシャちゃんに嘘をついていた。あまりにも残酷な事実だから、正直に話すのを躊躇していた。でもミーシャちゃんには知る権利がある。だから、今から僕だけが知る真実を話そう。工房でグリフィスとの出会いを話しただろう? 実はあれは嘘なんだ。僕が始めてグリフィスと出会ったのは、今日みたいな静かな夜に散歩をしていたときだった。突然この子が唸りだしたんだ。目を怒らせて、しきりに鼻を動かしてなにかを探すような素振りし始めたと思ったら、迷うことなく歩き始めたんだ。僕は予感めいたものを感じて後を追った」
キャスウェルの言葉に狼が気だるそうに首をあげた。
『よく覚えているよ』
狼がそう喋ったような気がした。
「しばらくして立ち止まったこの子の視線の先に広がる光景を見て戦慄した。雲間から覗く月明りに照らされて暗闇のなかから浮かび上がった一本のシラカバの根元に血まみれになった男の人が倒れていたんだ。近づくとうつ伏せになった彼の体はおびただしい血の海沈んでいて、見えている背中は刃物で切りつけられたような大きな傷があった。とても息があるようには見えなかった」
血の臭いが漂ってきたような気がして思わず鼻と口を押える。
「どうすればいいのか迷っているうちに、可哀想だという気持ちが沸きあがってきた。どんな経緯があったのかはわからないけど、誰にも看取られることなく、このまま土に還ってしまうなんて寂しいじゃないか。彼にも人生があったはずだ。様々な感情を抱いて生きてきたはずだ。それが最後には誰にも知られずにただひっそりと生を終えるなんて、あまりにも寂しい。だからせめて、僕だけでも弔ってやろうと思った。でも」
キャスウェルはミーシャを見つめて興奮したように続けた。
「彼はまだ生きていたんだ。本当に風が吹けばかき消えてしまいそうなほどの命の灯だったけど、それでも確かに息があった。まだ助かるかもしれない。そう思ったら気づいたら男の人を抱えて工房へ向かってた。治療は大変だったよ。彼の体はまるで拷問を受けたような跡があって、生きているのが不思議なくらいだったからね。それでも彼の生命力は尽きることはなく、時間こそかかりはしたものの少しずつ快方に向かってくれた」
「なんでそんなことになっていたんですか。父は他人に恨みを買うような人じゃなかったし、屈強だった父がそんな簡単に襲われて死にかけるなんて想像できないです」
「僕もそれが不思議だった。だから、聞いてみることにしたんだ」
「聞く?」
「襲われた瞬間を目撃したアシュマンがいるんじゃないかって思って聞いて回ったんだ。僕の予想は的中したよ。あるアシュマンはこう言った。『見たことのある複数の人間が一人の男を襲っていた』と。見たことのある人間とは誰かと僕は聞いた。そしたらこう答えた。『顔は分からないけど、襲われた人間と同じ格好をした人間だった』とね」
語られる物語はどうしようもなく黒かった。聞くに堪えない。仲間だと、家族に近い存在だと感じていた人たちが行った非道な行いは、あまりにも普段の様子からかけ離れていた。
記憶のなかの、一人ひとりの顔を思い浮かべる。
皆笑顔でいつも気にかけてくれて、優しくしてくれた。一人ぼっちだったミーシャを受け入れ、陽だまりのような暖かさで緊張と孤独の蔓で覆われた心を解いてくれた。
そんな人たちが父を、命を、奪おうとしたなどどうして信じられるのか。
キャスウェルは続ける。
「怪我から回復したグリフィスは記憶を失っていた。それが仲間に裏切られたショックが原因なのかはわからない。もしかしたら心が事実を受け入れられなくて自ら記憶に封をしてしまったのかもしれない。正直なことを言うとほっとしたよ。助けられたのはいいけど、グリフィスはもう仲間だった人たちの元には戻れないだろう。もし生きていることが知られたら今度こそ殺されてしまう。だからといって、誰もグリフィスを知らない場所に逃がすこともできない。記憶のない状態の人間がまともに生きていけるとは到底思えないからね。だから僕は決断した。記憶がないなら、どこにも帰る場所がないのなら、ここで僕と、グリフィスには姿は見えないけどアシュマンたちと暮らせばいいと。それが自分への言いわけだったことも気がついていた。慣れない管理者という立場で疲弊していた僕の心は、共感してくれる友や家族が欲しいと願っていたんだ。だから、丁度いいと考えてしまった。なにも覚えていないのなら、僕とアシュマンたちと共に暮らせばいいのだと」
首を垂れるキャスウェルの表情は伺い知れない。だが、ここまで淀みのなく言葉を紡いできた声が最後に震えていた。
「何故モデールの連中がミーシャちゃんを受け入れたのか。僕にはわかるよ。手元に置いておきたかったんじゃないかな。ミーシャちゃんはグリフィスの痕跡を探していた。十年という歳月で、その悍ましい行いの証拠になるものはほとんど失われてしまっただろうが、それでも安心はできない。なにかの拍子に埋もれていた都合の悪いものが表に出てくる可能性は否定できないからね。だから、目の届く範囲で管理しようとしたんだ。そして、信頼を勝ち得ようとした。」
モデール監督署の人間を連中と呼称するようになったキャスウェルは強い怒りを感じていたようだ。そして、それはミーシャも同じだった。
人間の醜悪な業に感情が膿み、悪臭に思考を犯されていく。
「連中はさぞ安堵しただろう。なにせ殺した人間の娘が自分たちに心を開いて、全幅の信頼を寄せているんだからね」
今思えば、ラウルがミーシャを秘書の立場に置いたのもそれが理由だったのかもしれない。下手に動き回られればなにを探りあてるかわからない。せっかく覆い隠せた罪をほじくり返されでもすれば軍に逮捕され、後に送られるのは人の尊厳を奪い去られた塀のなかか、それとも強制労働の果てに惨めな冷たい死の待つ地獄しか行き先はない。
現場に出られるようになっても、必ず教育係のトーラスや他の職員が同行していた。規則なのだからあたり前のことだと考えていたが、それも監視のつもりだったのかもしれない。
考えれば考えるほど怪しく思えてくる。あの日あのときくれた言葉も、視線も、優しさも、全てが偽り。
全ては自らの罪を暴かれないように。
そうだと知らずに懐いていく馬鹿な小娘を彼らはどんな気持ちで見ていたのだろうか。
忌々しい。忌々しい。忌々しい。
心のよりどころだと思ってしまっていた自分自身が忌々しい。
「僕は、ミーシャちゃんは幸せになるべきだと言った。出会ってからまだ間もないミーシャちゃんにどうしてそんなことを言ったんだと思う? 僕がアシュマンだから? 僕が管理者で人の願いを叶える存在だから? 違うよ。僕は見てきた。誰かが幸せになる傍らで、苦しみの劫火に焼かれる人の涙を。なんで神様は皆を平等に幸せにしてあげないんだろうね。そうすれば人同士が争うことも、憎しみ合うことも、大切なものを失って涙することもないのに。僕は無力だ。皆を幸せにしてあげることはできない。馬鹿みたいだ。こんな中途半端なことしかできないなんて。でも、それでも僕は皆を幸せにしてあげることはできないけど、誰かを幸せにしてあげることならできる」
そっとキャスウェルの手が添えられる。
震えていた。
キャスウェルの手は恐ろしいものを見た子供のように震えていた。
「次に幸せになるべきは君だ。これまで苦しんできたミーシャちゃんだ。馬鹿な世界で苦しんで、涙を流し続けて、それでも挫けずに前を向き続けたミーシャちゃんを僕に救わせて欲しい。誰かの幸せなんて気にすることない。だって、皆は自分の幸せのために切り捨ててきたんだから。今度はミーシャちゃんの番なんだよ」
キャスウェルの震える手に自分の手を重ねる。夜風に当たり冷えきっているはずの手は汗を掻いていた。
キャスウェルは嫌がる素振りも見せずに震えるもう片方の手でミーシャの手を包み込み、自身の胸に当てた。
「わかるだろう? 心臓がこんなに早く脈打っている。僕も緊張しているんだ。不安を感じているのはミーシャちゃんだけじゃないよ。僕も同じさ」
「キャスさんも同じ…?」
「選択にはいつも不安がついて回る。上手くいくだろうかとか、自分は幸せになれるのだろうかとか、まだ確定していない未来という枠に様々な想像をあてがい、なんとかはめ込めようと右往左往する。そんなことにはなん意味もないというのに」
キャスウェルの怯えつつも、不安を感じとらせないよう努める気遣いが嬉しかった。
「不安は優しさと同じくらい毒を持っている。一度その毒に侵されてしまうと、治療は困難を極める。でも、僕だけは君の毒を中和させてあげられる。一人で全てを背負うことはない。辛かったら残りは僕が背負うよ」
「あたしは……選んでもいいんでしょうか」
「もちろん。むしろ選ぶべきだ。ミーシャちゃんは僕の、アシュマンとしての力できっと幸せにしてみせる。だから、もういいんだよ」
その言葉が全てを決定づけた。耳の奥で音が聞こえた。それは鎖が振動するような音の後に、硬質なものが大きな音を立てて瓦解していく音。きっと天秤から零れ落ちたナニカなのだろう。
落下するナニカの音が聞こえなくなるまで瞳を閉じ、その後の静寂が体に馴染むまでミーシャは呼吸音すら嫌悪するように無に徹した。
月明りが眩しい。
たっぷり時間を使ってから瞳を開いたとき、映ったのは満月だった。
仕事帰りや宿舎で窓から眺める月となにも変わらないはず。
しかし。
ミーシャはこのときようやく気がついた。これまで見てきた月は黒い霧に包まれていたのだと。怒り、憎しみ、焦り、不安、悲観、哀愁、絶念。それらミーシャの内面の奥に深く刻まれた黒い霧たちが、視界を覆い尽くしていた。
だが、それもキャスウェルによってとり払らわれた。キャスウェルはアシュマンの禁技を用いて、霧を吹き飛ばそうとしてくれた。
心が晴れるとはこのことだ。
もう強がる必要も、向けられる視線に神経を尖らせる必要もない。
母一人、子一人となってしまった可哀想な親子というレッテルはある種の負い目のようになって常にミーシャの意識の大半を支配していた。だから、ミーシャは持っていかれた意識をとり戻すように、あえて明るく、そして夢を抱いているように振舞った。
そうすることで本当になると思ったから。降りかかってきた試練に立ち向かう虚像を演じることで、嘘を誠にしようとした。
実際上手くいっていたと思う。周りはミーシャを見て、境遇に負けない強い子という認識を持ったようだし、監督署の人間もミーシャをそのような子供と認識していた。
虚構の自分を真実の自分だと本当に信じて疑わなかった。だから、仕事の合間に父親の痕跡を探すことも、アーリィと出会い、アシュマンを知り、魔法のような力で自分の願いが叶えられると聞かされたときも、父の姿が変わり果て記憶を失ったと知ったときも、投げ出してしまうことはなかった。
虚構の自分がいたからこそ、ミーシャは本物の自分を失うことはなかった。絶望に殺される寸前で踏みとどまっていた。
しかし、根本的な解決にはならなかったのだ。
ずっと心やら体やら魂やらに積もり積もっていた。それが黒い霧という形で現れ、いつしか当たり前になってしまっていた。
「こんなに綺麗だったんだ」
「そうだよ」
黒い霧のかからない月がこんなに綺麗なのだとは知らなかった。雲の合間から覗く春月は一切の淀みもない。
「僕はミーシャちゃんに嘘はつかない。僕は絶対ミーシャちゃんの味方だよ」
月の輪郭がぼやけた。また黒い霧がかかってしまったのかと目を拭うと光る雫が指に薄く伸びていた。
「……いいですね。それも」
月が陰る。雲が流れて森を暗闇に戻してしまった。しかし、見えなくなってしまっても瞼の裏に焼きついた姿はいつまでも残り続けている。それに。
「キャスさん。あたし、キャスさんを信じてます」
隣には、ミーシャにとって月そのものと言ってもいい存在がいる。
「大丈夫。僕がきっとミーシャちゃんを幸せにしてみせるよ」
ふと思った。人気のない静かな場所で、二人きり。狼は人間ではないからカウントしなくてもいいだろう。これで愛の言葉さえあれば、それはれっきとしたプロポーズだと。それが可笑しくて吹き出してしまう。こんなことを思うようになったのも、きっとキャスウェルのおかげだ。
「誰を選べばいいですか」
「そうだね……。できるだけ背格好は近い方がいい。性別が違ったり、あまりにも体格が違うとそもそも魂が定着しないからね。候補はいるかい?」
「……います。一人だけ」
「それならその辺のことはミーシャちゃんに任せるよ。決行はミーシャちゃんのタイミングに任せる。なるべく近くにいるから準備ができたら教えて欲しい」
「分かりました」
「ああ。そうだ。一つだけ、これはミーシャちゃんに言っておかなければならないことがある」
「はい? なんですか」
「アーリィ・リアトリス殿のことだ。彼女のことは信用してはいけないよ」
「へ?」
「彼女は嘘をついている。それも人の弱いところに煙のように入り込み、内側から心を燻してしまうような質の悪いものだ」
「でも、あの人は……」
「人が弱っているところに親切を装って寄り添うのは詐欺師の常套手段だよ。ミーシャちゃんはアーリィ・リアトリス殿の本当の姿を知らない」
「キャスさんはあの人のことをどこまで知っているんですか」
「アーリィ・リアトリスという人間はルグリの名を語り、古今東西のアシュマンの技術を独占しようとするスィーダだ」
「ス……なんですかそれ?」
「スィーダ。アシュマンの言葉で盗人という意味だ。人間の世界でルグリが残した技術や、アヌウンに伝わる技術や道具を片っ端から盗み去ってしまう。被害は計り知れない。どこから情報を仕入れてくるのかわからないけど、ハイエナのように匂いを嗅ぎつけてやってくるんだ。僕らは彼女をルグリまがいのスィーダと呼んでいる」
憎々しく吐き捨てる様がキャスウェルの本心を表している。
「変換のタトゥーを見たときの表情を見ただろう? あの獰猛な獣のような血走った瞳。噂通りだと思った。やはり、この女は最初からこれが目的だったんだって」
「そういえば、この森にきたのは仕事だって言ってた。もしかしてその仕事って……」
「恐らく変換のタトゥーに関する噂話の真偽を確かめにきたんじゃないかな」
「それじゃあ変換のタトゥーをあの人に見せたのはまずいんじゃないですか」
「うん。でも、もしある程度の確信を持ってこの森にきていた場合、下手に隠せば相手に余計な警戒心を与えることになってしまう。そうなれば強硬手段に出る可能性だってあった。それは僕だけでなく、グリフィスの命を危険にさらすことになりかねない。だから、あのときは包み隠さずに白状するしかなかったんだよ」
終始笑みを浮かべていたキャスウェルが、心のなかでそんなことを考えていたとは想像もしていなかった。
きっとキャスウェルからすれば、生きた心地のしない時間だったに違いない。
「恐らくだけど、あの女はまだ諦めてはいないはずだ。それにミーシャちゃんには素性を明かしているんだ。このままなにもせずに解放するとも思えない」
「あたしがいたらキャスさんの負担になっちゃうんじゃ……」
「そうかもしれない。けど、だからといってミーシャちゃんを見捨てるなんてことは僕にはできないよ。だって僕には管理者としての役目があるし……」
そこでキャスウェルは言い淀み、視線を彷徨わせた。そして、自嘲気味な笑みを浮かべると小さく首を振った。
「言っただろう。僕はミーシャちゃんの味方だよ。幸せにしてみせると言った。この言葉に嘘偽りはない」
未だキャスウェルの胸に当てられたままの手から流れてくる熱い想いが、ミーシャの体と心を焼いていく。
「ただアーリィ・リアトリスは僕たちの弊害になる。どんな手を使ってくるか想像もできない。気を許しちゃダメだよ。何度も言うが、あれはスィーダだから」
「……分かった。言うとおりにします」
ここまでお読みなってくださりありがとうございます。
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