十八話
18
「そろそろだ」
耳元でささやく低い声に意識が引っ張られる。声に惹かれるがまま、目を開くとアーリィの灰の瞳が見おろしていた。何度か瞬きをして、そこで初めていつの間にか眠ってしまっていたのだと気がついた。
「雨は止んだ。時間も丁度いい。条件は揃った」
天幕の入り口から外を覗いたアーリィが呟く。すでに日は傾きつつあるようで、薄暗さに目が慣れるまで少し時間がかかった。
「こんな天気で虹なんて出るんでしょうか? 日が落ちてしまったらもう虹なんて現れないでしょう」
「自然現象ならね。虹の橋は自然現象じゃない」
虹と聞いて漠然と太陽光が必要なもの考えていたがどうやら違うようだ。そういえば、虹の橋出現の条件はどれも自然現象の虹とは全く関係のないものだった。アシュマンの関わるものの現象だということだから、人の常識を当てはめるのは間違っているのかもしれない。
天幕から出ると、冷えた空気が鼻の粘膜を敏感にしているのか、いつもより森の香りが濃く感じられる。
「雨あがりの森はいつも幻想的だね。これで太陽が出ていれば雨粒に反射した光が星屑のように輝いて、より一層神秘さが増すんだけど」
「ああ、わかります。背の高い木の合間から差し込む光とか、雨粒をたっぷり抱えた苔が宝石の絨毯みたいに輝いているのとかすごく好きです。なんて言うか独特の雰囲気があるんですよね。森全体が荘厳というか、でもどこか儚げな気配もあって……そこだけ時間が止まったような感覚になるんですよ。音とか風とか匂いとかがなくなって、時間の流れる早さが変わるというか。変かもしれませんけど、でも思うんです。まるで異世界のようだって」
言ってから恥ずかしくなって俯いてしまった。子供じみた感想だっただろうか。
なにも言わないアーリィに不安になって視線を少しあげると、この数日間で一度も見たことのない慈愛に満ちた表情がそこにあった。軟らかく伸びた目じり。軽くあがった口角。まるで幼子の空想話を一緒に楽しんで聞いてくれる母親のようだった。
「君は……」
そう言いかけて、アーリィは口を噤んだ。そして、すぐに「いや」と話を切りあげて泉の方へ歩き出した。
「今はそんなことより、虹の橋だ。あまり悠長にしているとタイミングを逃してしまう。うっかり話し込んで夜になってしまって、ここまでの努力が泡となるのは御免だ」
急いでブーツを履いてぬかるんだ地面に気をつけながらアーリィの後を追う。
太陽は刻一刻と傾いていき、周囲を木々に囲まれているということもあって先ほどよりも一層闇が濃くなり始めていた。
ランタンの準備をした方がよいのではと思ったが、そんな時間すらなさそうだった。
泉まで行くと、アーリィは外套のポケットから手のひら大の金属ケースをとり出した。開くとなかには葉巻が三本入っている。
「こんなときに煙草吸うんですか」
「違うよ。用があるのはこっちだ」
ミーシャの疑問にアーリィはケースに視線を落としたまま答えると、ケースの端にある突起を押し込んだ。カチッという音が鳴ると底部わがわずかに持ちあがり、持ちあげると更にもう一つのスペースが現れた。
「それって!」
現れたものを見てミーシャは驚愕の声をあげた。そこには六枚の金貨が収められていた。既視感のあるその金貨にミーシャは無意識に自分の懐を強く握りしめた。
「妖精の金貨……」
「そうだ。これらは私が旅を続けてきたなかで集めてきたものだ」
アーリィは六枚ある金貨の内一つを摘まみあげた。そして、親指で軽く弾いて泉へ放り込んだ。
「ちょっと!」
慌てて泉のなかを覗き込む。だが、すでに金貨は深いところまで落ちて行ってしまったのか、見えなくなっていた。
「あれは貴重なものなんじゃないんですか!? 捨てるなんて……」
「別に捨てたわけじゃない。虹の橋は条件を満たした場所にある泉に妖精の金貨を投げ込むことで初めて出現する。金貨はアシュマンと人間の契約の証でもあり、二つの世界を繋ぐものでもある。向こうがこちらを招いてくれるなら必要ないが、こちらから尋ねる場合には互いの世界にゆかりのある強力な触媒が必要なんだ。待っていればいい。そう時間はかからない」
言葉通りにその瞬間はすぐに訪れた。一筋の光りが泉からゆっくりと立ち昇り始めたのだ。細く息を吹きかければかき消えてしまいそうな光は、蜘蛛の糸のようにときに風に煽られ、漂いながらも迷うことなく空に向かってそろそろと伸びていく。そして、雲の合間に差し込むと光の線がピンと張り、徐々に泉と同じほどの大きさへと変わり、虹の柱が現れた。
「繋がったな」
光の行方を見守っていたアーリィが一安心といった様子でに呟いた。
「うんうん。お日柄もよくて今日ほど繋ぎやすい日もないかもね。でも、タイミング的にはギリギリだったよ?」
「そうなんですか? ならもっと──」
ミーシャはそこまで言いかけて、ふと違和感を覚えた。隣を見るとアーリィも少し驚いた様子でこちらを見ている。
今の声は誰だ。明らかに二人のものとは違う男性と思しき声が後方から聞こえてきた。
この場にあたしたち以外に誰かがいる!?
狼の群れに囲まれたときのような緊張感がミーシャの喉を圧迫する。瞬時に身を翻し、夜の気配が色濃くなった森に視線を素早く巡らせる。
視界の端でなにかが動く気配があった。天幕の脇から一人の人物が現れたのだ。
警戒するミーシャをよそに、その人物はまるで旧友を見つけたときのような笑みを浮かべ近づいてくる。
夜目でもはっきりとわかる白いガウンに似た上着を羽織い、黒いひざ丈前合わせの衣服。ゆったりとした灰色のズボンから覗く足元は、底の厚いヒールの靴を履いている。
ひな鳥の産毛のようなふわふわとした黒髪に面長な顔。特徴的な翠色猫目の瞳が弧を描いている。
歳のころはわからないが、かなり若そうに見える。ミーシャと十は離れてはいないだろう。男の猫目がこちらを値踏みするように薄く開かれた。
「あなた、誰?」
そして、ミーシャの問いかけに目を見開いて驚きの色を見せた。が、すぐに笑みを浮かべると一度大きく手を叩いてこう続けた。
「イヤ、失礼。驚かせてしまったね。でも、ご容赦願いたい。僕もこうして人と話すのは久しぶりなんだ。最後に話したのはいつだったかな。十年……いや五十年? うーん、思い出せないな。まあとにかく大昔であることは確かだね。いやいやよくきたね。ここまでくるのは大変だっただろう? 今日は天気も悪いし、足元はグチャグチャだし、寒いし、うっとうしい。こんな日にわざわざこなくてもいいような気がするけど、まあきてしまったのだから仕方がない。歓迎するよ。なにせ久しぶりの客人だ。最後に人と話したのは……いや、違うな。これはもう話した。どうしようか? とりあえず時間も時間だし食事でもしていくかい? 口に合うかわからないけど、丁度クルミのパイを作ろうと思っていたんだ。クルミパイは好きかな? 見た目は地味だけど味は保証するよ? それともクルミは嫌いかな。もし嫌いなら──」
堰を切ったように話し出すとはこういうことを言うのだろう。話すのは久しぶりという言葉の通り、途切れることなく矢継ぎ早に話す男性にミーシャは圧倒されてしまった。
瞬きすら忘れて湧き出る言葉を全身で浴びていると、アーリィが「ふうん……」と思わせぶりな溜息をついてから、手を前に出してぴしゃりと話を断ち切った。
「……結構だ。我々は友を訪ねてきたわけでも、観光をしにきたわけでもない」
「そうかい? 残念だね。でも、お茶なら」
「お茶も結構だ。そんなことをしている暇はない」
一刀両断。とりつく島もない。
「でも、せっかくきたんだから歓迎したいんだよ。言っただろう? 久しぶりなんだよお。お茶もダメなら世間話でもどうかな。さっき仕入れたばかりのとっておきの話があるんだ。あれはここから——」
「ちょっと待って下さい! 勝手に話を進めないで!」
「おや、少女さん。なにかな? 僕の話に興味があるの? いいよ! なにから話そうか?」
アーリィに全く相手にされないからかターゲットをミーシャに変更したようだ。反応してくれたのがよほど嬉しいのか、人懐っこい笑みを浮かべながらミーシャの手をそっと包み込む。女性のように細く白い指が手のひらの感触を確かめるようにふにふにと揉んでいる。その様は尻尾を千切れんばかりに振り回している犬を連想させた。
「ちょ、触らないでください! こっちの質問に答えてくださいと言っているんです」
手を払って一層警戒を強める。握られていた手が熱い。
「ああ、ごめんごめん。そうだったね。僕ったらあんまり嬉しくて自己紹介もせずに一方的に話してしまったね。でも、そんなに怒らないでくれよ。人と話せるというこの至高の喜びをどうしても共有したかったんだよ。そこの麗人には断られてしまったけど、よかったらお茶でもしながら他愛ない話に花を咲かせないかい?」
「そんな話どうでもいいです! それよりあなたは誰ですか。どうやってこの森に入り込んだんですか!」
「どうって、入り込むもなにも僕はずっと昔からここに住んでいるからねえ……」
「そんなはずないでしょう。ここは王都ルデリアが管理する森林公園です。許可のない人間は立ち入り禁止ですし、人がここに住んでいるなんてありえません」
「じゃあ、僕は例外ってことだね」
「どうしてそうなるの!?」
のらりくらりと追及を逃れる男性に苛立ちつつ、新たな事実に頭痛がしてきた。
アーリィの件だけでも大問題なのに、この森に住んでいたなどと言う人間の存在が都に知られれば、モデール監督署の管督能力を疑われることになる。ただでさえ金にならないと一部の政治家には疎まれているというのに、これ以上立場を悪くさせるようなことがあってはなにを言われるかわかったものではない。
他人のことをどうこう言えた立場ではないのは承知しているが、監督署の皆が受けるであろう処罰や待遇の変化を考えるとなると、口を挟まずにはいられなかった。
「あのねぇ、あたしは──」
「そこまでにしておけ」
話しが通じる相手ではなさそうだ。こうなれば実力行使しかないと握られたままの手を捻りあげようとした瞬間、それまで静観していたアーリィに制止された。
「なんです? 止めないでもらえますか」
「人じゃない」
「はい?」
「彼は人ではない。アシュマンだ」
アーリィがミーシャの前に割り込んで男性と向き合った。男性の方が背が高いのでアーリィが若干見あげる形になるが、堂々たる姿勢は一切気圧される隙はない。対する男性は相変わらず能天気そうな笑みを浮かべている。
「アーリィ・リアトリスだ」
手を差し出すこともせず、感情の読めない声でアーリィは言う。元が低く擦れたような声をしているせいか、傍から聞くと無愛想で壁を感じてしまう。始めてアーリィの声を聞いたときも地獄の底から響くような声だと感じたものだが、それは目の前の男性も同じようだった。笑顔を崩すことはなかったが、頬が引きつるように小刻みに痙攣していた。
「……これはこれは。かのアーリィ・リアトリス殿にこうしてお目にかかれる日がくるとは。僕はキャスウェルと申します。以後お見知りおきを」
アーリィが名を告げると、キャスウェルは引きつかせた口元を隠すようにうやうやしくお辞儀をした。口ぶりからしてどうやらキャスウェルの方はアーリィのことを知っているようだ。
アーリィの名前を聞いたときに顔を引きつらせていたのも、もしかしたら噂を聞いていて知っていたのかもしれない。
たっぷりと時間をかけてさげていた頭をあげたキャスウェルの顔には笑みが張りついていた。
「アーリィ・リアトリス殿は女性だという話は聞いておりましたが、まさかこれほどの美しい方だとは。傾国とは貴方のような人に送る言葉なのでしょう」
「腐るほど言われた台詞をどうも。媚びてもなにも出ないぞ」
「媚びるだなんて。見た通りの感想を述べたまでです」
世辞にも全く感情を見せないアーリィに、キャスウェルもより一層笑みを深くする。
二人が纏う空気に飲まれ、ミーシャは案山子のように棒立ちで間抜け面のままなにも言えないでいる。
いけない。二人の空気に飲まれて置いてきぼりにされてしまう。
「えっと、これはどう──」
説明を求めようとアーリィに声をかけると、灰色の瞳が、ぐり、と動いた。
後にしろ。そう灰の瞳が告げている。
「ここの管理者はお前か?」
「はい。若輩者ですが」
「ふん。まあいいだろう。早速で悪いが、本題に移りたい。私が虹を作った理由はわかるな」
「ええ。でもすみません。なにぶんいきなりだったもので、段取りができてないんです」
「構わない。道中案内を頼めるか」
「もちろん。丁重におもてなしさせていただきます」
「もてなしは結構だ」
アーリィのにべもない態度に、キャスウェルはそれでも笑みを絶やさない。
「それではご案内いたします。そちらのお嬢さんは虹を奔るのは初めてで?」
「そうだ。だから、最初は少し面倒をかけることになるが」
「問題ありません。きっと気絶ぐらいですみますよ」
「え!?」
「大丈夫ですよお嬢さん。誰でも初めは同じですから」
「ちょっと待って! せめてこれからなにが起こるのかぐらい説明してくださいよ!」
「説明しても理解できないだろう」
「そんなのわからないでしょう!? なんか怖い……心の準備させてください」
「その若さでなにを怖気づいてるんだ。ものは試す。試してダメだったら……まあ、それは後で考えればいいだろう。もっと大ざっぱに生きた方が面白いぞ。人生に自分で制限を駆ける必要はないんだからな」
格言のようなよくわからない言葉にそれはまあ確かに、と納得しかけた瞬間、アーリィにがっしりと手を握られた。
まずい。逃げられなくなった……!
「準備が整ったみたいですね。それでは行きましょうか」
キャスウェルは二人を嬉しそうに見つめて頷くと、自身の手をそっと虹の柱のなかへ差し込んだ。
「うんうん。ちょっと造りが弱いけど行けるでしょう。さあどうぞ。あがってください」
自宅へ招くかのような気軽さで言うキャスウェル。うむ、と虹の柱へ歩き始めるアーリィは躊躇なく空いている方の手を差し込んだ。
「っ、ちょっと……」
「君も早くこい。大丈夫だ、ガッと行けばグッと持ってかれるから」
「アーリィ・リアトリス殿もいるし、僕もいるから大船に乗ったつもりで、こう、ぽーんと飛びこんで大丈夫だよ」
「なにか二人ともいい加減すぎませんか!?」
ろくに説明もしてくれない二人に言い知れない不安に襲われるが、アーリィにがっしりと手を繋がれているので、逃げることはできない。
虹は天を衝くように空に伸びている。どこまでも続く虹の先に一体なにが待っているのだろうか。
「……っ」
一歩踏みだしてしまえば、後は流れに任せるままだ。
「痛みはない。少し凍える程度だ」
誘われるまま虹のなかに手を差し込む。なるほど、確かに冷たい。虹というと漠然と暖かそうなイメージを抱いていたが、伝わる冷気は手の肉を貫き、骨に直接刺しこんでくる。
「それじゃあ、お出かけしましょう。レッツゴー」
キャスウェルが腕を突きあげ能天気なかけ声をあげると、虹の柱が強く発光し、拡大し始めた。視界が光で埋め尽くされていく。目を開けていられなくて光から目を晒しながら目を瞑った。
炎天下で作業をしているときのようなじりじりと肌を焼くような感覚と、水に耳が溜まるような感覚が同時に襲ってくる。だが、どれも一瞬のことで、ぽこぽこと泡が抜けていく音がすると、体を焼く感覚も耳の詰まりも消えてしまった。
──バチバチ
(──え?)
不意に耳元で聞き覚えのある音が聞こえた気がした。なんだろうと考えて、すぐに思い当たった。あの人型のアシュマンの声だ。間違いない。
──なんて言いたいの? あたしに話したいことがあるの?
しかし、問いかけに答える声はなかった。
不意に誰かに腕を強く引かれる。足がもつれてそのまま転倒しかけるが、地面の冷たい感触はいつまでも訪れなかった。代わりにあったのは誰かの軟らかい感触。抱きしめられていると気がついたのは、体温を感じたから。
意識が霧散する間際になにか言われた様な気がしたが、それが男のものなのか、女のものなのかはわからなかった。
第三章 了
ここまでお読みなってくださりありがとうございます。
気に入っていただけましたら、高評価、ブックマークをどうかお願いします。して頂くと作者がによによ喜びます。
カクヨム,アルファポリスにも同作を投稿しております。




