戦犯貴族の娘と蔑まれる私の静かなる逆襲~辺境伯夫人の座は白い結婚ではなく、勝ち取った勝利の証です~
父が失脚したからだろう。今の私があるのは。
勝てる戦だったはずなのに。勝たなければいけない戦だったのに。負けてしまった。斃れる兵から流れ落ちた花弁は湿地を埋め尽くし、その上を敵の軍靴が踏み超えていったらしい。あくまで、らしい、だ。私が直接見たわけではない。
窓辺に腰掛けた私は、広がる城下を見下ろしながら、なぜ、と問を重ねていく。その後、敵は援軍によって倒された。父は敗走し一命をとりとめた。つまり、我が領には平和が戻ったらしい。おや?私が直接見て、聞いたはずなのに。らしい、とつけてしまった。知らない土地の慣れない屋敷の一室で、私は現実から目を逸らす。
家族はいない。気心の知れた使用人も一人もいない。左手の薬指には、形だけの質素な指輪が輝く。そこで、ああ、と合点がいく。私は咎人なのだと。貴族としての責任を取らされているのだと。あの軍靴は私の家ごと踏み潰していったのだと、この指輪を見る度に思い知らされるのだ。
窓の外で兵隊が行進している。先頭に立つ夫の顔は影になって見えないが、誇らしげな軍靴の音は聞こえてくる。
私、アンリエット・アルロウの戦は、まだ続いている。これは、らしい、ではない。
◇
扉が三度鳴らされた。扉の向こうから「アンリエット奥様、フェルディナンド様がお戻りです」と侍女の声が聞こえた。夫を出迎えに行かなくてはならない。
「ええ。今行くわ」
重いドレスを持ち上げて、私は部屋を出た。外では妙齢の侍女頭が慇懃に頭を下げて待っていた。客人用の深い礼だ。いつまでたっても私は客人らしい。
私は心を無にして横切った。掃除の行き届いた廊下の先、埃一つ落ちていない手すりを持って一階へ。玄関の前にはすでに使用人たちが花道を作って並んでいた。皆が夫の戦果を喜び、噂話に花が咲いている。私は花道の先に立つが、誰も興味はないようだ。
しかし「ご主人様のお帰りです」と老執事の低い声が聞こえた途端、水を打ったように静まり返った。重い扉がゆっくりと開かれ、光が漏れる。その中から現れたのは射殺すような視線を持つ偉丈夫。日焼けした茶色の髪に古い城塞のような威風堂々とした佇まいの猛将。この領地の主。私の夫。フェルディナンド様だ。
使用人たちは一斉に頭を下げた。そして、フェルディナンド様は花道の間を無表情で歩いていた。花道の先、私の方へと。
「お帰りなさいませ。フェルディナンド様」
夫の帰りを待つ従順な妻の顔を張り付けて微笑みかけた。背が高く、見上げなければ顔は見えないが、夫の鋭い目と私の鳶色の瞳が交差した。ほんの一刹那。夫は視線を泳がせると。
「ん」
とだけ言って通り過ぎてしまった。おそらく、これが本日最後の夫婦の会話だ。いつもこんな感じ。夫が見えなくなると、使用人たちはすぐさま持ち場に戻っていく。先ほどまではおしゃべりに興じていたのに、別人のようにテキパキと仕事をこなす。私はぽつんと一人置き去りにされたような気持ちになった。
「はぁ」
ため息が出てしまった。私も与えられた持ち場に戻ろう。二階の一番奥にある豪華な私室。手すりにつかまって、ゆっくり階段を上っていく。背後から「クスクス」と笑い声が追いかけてきたような気がするので、私は速足で部屋へと引っ込んでいった。
部屋に入るなり、定位置の窓際の椅子に座って外を眺める。夫、フェルディナンド様のことが頭に浮かんだ。彼は寡黙な人だが、私に対しては特にその傾向が強くなる。私が話しかけたとして、返事は決まって「ん」「ああ」「そうか」この三つのうちのどれかだ。今回は「ん」だった。こんな調子なので、私はフェルディナンド様のことをほとんど何も知らない。結婚して半年になるというのに。
屋敷は丘の上に建てられているので見通しがよい。荒野の先、地平線の奥には国境を見張る塔が見える。フェルディナンド様は度々そこで敵を迎え撃っている。その間、私はただここでじっと待っている。何を待っているのかは自分でもわからない。
こういうのを白い結婚というらしい。名目上は私の保護。戦犯貴族の娘として虐げられないように、と父の直属にあたる大貴族が取り決めた結婚だ。辺境伯フェルディナンド・エドマンの妻なんて誰もが羨む立場である。だが、実態は違う。私はフェルディナンド様に「お前とは子を成すなと命じられている」とはっきり告げられている。意味は明白。戦犯貴族の血筋は受け継がせず、私で絶やすということだ。
「守られるために城に入ったのに、中から見れば檻でしたってことね」
誰も笑ってはくれなかった。ならこの薬指についているのは枷ね、と一人でツッコミ、自分で笑った。指輪をひっかいてみても、とても外れそうにない。両親は健在、領地も無事、貴族としても認められている。厳しい監視の元、お飾りの貴族として君臨させられている。私の家名、アルロウは今となっては冷笑のいい肴。死ぬことすら許さない生き恥だ。両親も囚われている。そして、つまるところ、私はこうして生き長らえさせられているが、この薬指は父と母の首でもあるのだ。
窓を開けると爽やかな空気が入ってくる。身を乗り出し、鉄と太陽の香りを全身で受けると気持ちがいい。この瞬間、いつも私は願ってしまう。もしこの指輪を外すことが出来たのなら。家も血も、名も背負っていない。何物でもない私に成れたのなら。きっと、この胸の内に巣くう靄は、晴れてくれるのかもしれない。あるいは、自分ひとりで生きていく不安に押しつぶされてしまうかもしれない。それでも、考えられずにはいられない。こんな私でも時間だけは持て余すほどあるのだから。
そうして、一日が終わる。朝が来る。私の人生は、いったいどこに?
◇
「アンリエット奥様、本日の予定をお伝えします」朝の準備が終わり、侍女頭が部屋の中ほどで足を揃えて言った。
どうせまた実質一日待機だろう。考えるだけでズシリと腹が重くなる。誰にも出さない書簡を書いて、読書か刺繍か楽器の稽古。もちろんなんの成果も求められない。夕方にはフェルディナンド様の帰還を形式的に出迎える。そして、一日を終える。いつものルーティンだ。
「ええ、お願い」
「本日は王都にて皇子殿下の婚約祝いがございますので、旦那様とともに出席をお願いします」侍女頭は軽く咳ばらいをした。「出発は正午です。それまでは、読書をお願いします」
「え」
「直前に決まったことですのでご迷惑をおかけします。ですが、くれぐれもエドマン家に恥じぬようお願いします」
では、と言って侍女頭は退室。残された私は事態を呑み込めずに、ポカンと口を開けていた。どういうことだ。何が目的だ。どうしてこうなった。私が機能停止している間も時間は待ってくれず、あれよあれよと侍女たちに上質なドレスに着替えさせられ、髪も化粧も施され――
「ハッ!」
我に返ると馬車だった。目の前には日焼けした茶色の髪を後ろに撫でつけ、礼服に身を包んだフェルディナンド様が腕を組んで、ドンと座っていた。目をつむり、眉間には深い皺が寄っている。さながら陣中で密書を待つ総大将だ。
「……」
「……」
き、気まずい。馬車は舗装された道を行く。パカポコと馬の歩みがやけに大きく聞こえる。なにか話さなくては。
「あ、あの。フェルディナンド様?ごきげんよう、良いお天気ですね」
「ああ」
出た。「ああ」会話終了。低く唸るようなお声は耳の奥まで響いてくる。きっと戦場でもひときわ存在感のある勝鬨を上げに違いない。実に苦しい状況だ。このまま私が何もしなければ総大将は山の如く動かなくなるだろう。私が伝令にならなくては。私が、密書を届けるのだと、ぐっと両手を握り気合を入れる。
「あの……」
しかし、声を出した瞬間、自分でもわかるほど緊張していた。フェルディナンド様は、少しだけ眉を動かした。目は閉じたままだ。
「……なんだ」
驚いた。初めて彼から聞き返してきた。返事が返ってきただけで、胸の奥が少し緩む。
「ええと……その……」情けないことに、私は思いがけず帰ってきた言葉に固まってしまい、しどろもどろとするばかり。ひどく、みっともない沈黙だ。背中に汗が伝うのを感じた。
「……すみません。話したかっただけです」
「……そうか」
やってしまった。せっかく会話を広げる好機だったのに、みすみす逃してしまった。けれど、フェルディナンド様の「そうか」は先ほどより低くない。責められている、という空気ではない。
「急に、こうして二人きりになることって、あまりないので」私は逃げ場を探すように視線を落とした。
「……どうすればいいのか、わからなくなってしまって」
馬車が揺れる。また蹄のパカポコ音が聞こえて来た。伝令は討ち死したようだ。
「……俺もだ」
ぽつり、と落ちた言葉。思わず顔を上げてしまう。フェルディナンド様は相変わらずこちらを見ていない。だが、腕を組んでいた手が、いつの間にか解かれていた。
「……会話の作法が、わからん」
「……え?」
「政の場ならわかる。命令も、報告も、判断もある」一息置いて、「だが……妻と、どう話せばいいかは、教わっていない」と言った。
胸が、きゅっと縮む。同時に、少しだけ温かくなった。
「……では」勇気を振り絞る。「今日は“正解”を探さなくていい、ということで……どうでしょう」
「……それは」フェルディナンド様は、目を開けて、私を見た。
「助かる」
抜き身の刃のような鋭い目元。だけど、今はほんの少しだけ、優しく感じた。たったそれだけのやり取りなのに、馬車の中の空気が、ほんの少し変わった気がした。
沈黙は消えなかった。けれどそれは、独りで耐えるものではなくなっていた。
◇
会場前にはすでに馬車が列をなし、家名を告げる声が途切れることなく響いていた。
私たちの馬車は、列の中ほどで止められた。ここが一番の正念場だ。私の出自は隠すまでもなく知られている。会場入りしてしまえば空気になれるが、待ち時間はそうではない。貴族の立場が残酷なまでに可視化される。
「フェルディナンド様、私は、例の件で何を言われても、反論しません」
これは決意表明でもある。もとより反論出来る立場ではない。アルロウの姓はただでさえ冷笑されても無理からぬ家名であるのに、私が言い返せばエドマン家にも泥をつけることになる。
「そうか」
フェルディナンド様は変わらない。ただ一言、そういった。だけど、決して突き放すような言い方ではない、と思う。馬車がゆっくりと進み、また止まり。その繰り返し。ドクドクと胸が痛くなる。外から聞こえてくる会場係の声が次第に大きく聞こえてくる。扉を開けた先は断頭台。そんなイメージが脳裏によぎる。きゅっと両手を結んでいると扉が開かれた。
「辺境伯フェルディナンド・エドマン様、並びにご夫人アンリエット様」
名を呼ばれた。名簿係は一瞬、視線を落とし、次いで形式的に頭を下げた。
「ようこそお越しくださいました。どうぞこちらへ」
フェルディナンド様が無言で扉に手をかけて、馬車から降りていく。ギシッと鐙を踏むように揺れる。手が冷たい。だけど、行かなくては。私も身をかがめるようにして、扉に手をかけた。
フェルディナンド様に手を取っていただきながら、馬車を降りる。目の前には赤い絨毯、細やかな彫刻が立ち並ぶ見事な迎賓館。入場前ホールにはすでに開場待ちの貴族達がグループを作ってご歓談中だ。
「行くぞ」
フェルディナンド様はそういうとゆっくりと歩み出した。私はその半歩後ろを歩いていく。隣に立つことは許されない。だって、私たちは対等な夫婦ではないのだから。だからこそ、目を引く。私の存在が、異様な立場が、周知されてしまう。
「……おや、あれは――」
「ええ、戦犯貴族の……」
――アルロウの娘だ。
冷笑が聞こえてくる。屋敷の使用人たちがするものとは程度が違う。本物の同情、警戒。そして、侮蔑。視線が針のように肌を刺す。私はフェルディナンド様の踵を見て、視線から逃れようと試みるも効果は薄い。とにかく心を無にして耐えるしかない。
「おーい、フェルディナンド!」
入場前ホールに入ると快活な男性の声が聞こえて来た。顔を上げると燃え盛るような赤毛を後ろで結んだ男性が片手を上げながら近づいて来ていた。思わず背筋が伸びる。王都四大貴族、大物中の大物だ。
「アストラ―ド卿。ご無沙汰しております」
「よせよせ。私と貴殿の仲ではないか。しかし、聞いたぞ。先般の防衛線では会心の――」
アストラ―ド卿はフェルディナンド様と親し気に戦の話をしている。まるで私のことなど見えていないようだ。今は隠れるように石像になっているしかない。
「あら、辺境伯夫人はお静かでいらっしゃるのね」
「っ!」
来た。私は蛇に睨まれた蛙のように凍り付く。振り返ると、小麦色の豊かな髪を巻いた令嬢がいた。橙色のドレスに身を包み、扇で口元を隠しているが目は値踏みするように細められている。
「マーリカ・カルナスです。どうぞお見知りおきを」そう言いながら、スカートの裾を持ち上げながら礼をする。最上級の礼だ。
カルナス。王都評議会に名を連ねる家。辺境伯とはちょうど同格だ。
「アンリエット・エドマンです。こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします」
「アルロウでは無くて?」
「はい。エドマンの家に入りましたので」
「あらあら……」マーリカ・カルナスは含みを持たせて言葉を切る。眉はぐにゃりと歪んでいた。そんな様子を注意深く見ていた令嬢たちが一人、また一人と集まってくる。獲物を取り囲むように。
「奥様も辺境の暮らしには、もうお慣れになったのでしょう?」
「はい。おかげさまで」
「……さぞ、”静か”でしょうね。奥様は……お退屈では?」
「いいえ。夫を支えています」
「“荒野の狐”と謳われる猛将の奥方ですものねぇ。アンリエット様に”ピッタリ”ですわ」
「ありがとうございます」
「戦の女神というより、祈りの聖女かしら。“いつも”祈っていらっしゃるのでしょう?」
「はい。いつも夫の無事を祈っています」
「まぁ!殊勝ですのね」
丁寧に包装した刃だ。突き立てられるたびに、いつも変わらない日常が思い浮かぶ。家、血、命。多くを背負いながら、耐えるしかない日々。血の気が引いて、視界がグルグルと回る。
「それで――旦那様とは”別室”と伺いましたが?」
「……はい」
令嬢たちはこれ見よがしに息を飲み、口元を覆い、目を見合わせた。手の隙間からはニタニタと歪められた唇が見えた。
視界が白む。音が遠のく。頭が鉛入りのように重くなる。会場中が私を笑いものにしているような錯覚に、足元が抜けて落ちていきそうだ。マーリカ・カルナスはパチンと扇を閉じた。勝ちを確信したのか、もはやその口元は取り繕う様子もなく、嘲笑の形をしていた。
「ああ!なんてお可哀そ――」
「エドマン領は国境線を守る辺境。いつ何時、寝込みを襲われるかわからないのだ。故に妻は別室」
低く良く響く声だ。だけど、この時は涙が出るほど心強く感じられた。振り返るとフェルディナンド様が胸に手を当てて私たちを見下ろしていた。
「――それが、我が家の方針だ」
息を飲んだ。凛々しい顔だ。怒りでもない、恨みでもない。ただご婦人方の誤解を解く紳士の顔だった。
それだけで令嬢たちは散っていく。「そうでしたか。オホホ」と気まずそうに去っていった。
「ご無理なさらないでくださいね。ご実家のことも……」そう捨て台詞を残しながらマーリカ・カルナスは踵を返した。
「ええ。お気遣いいただきありがとうございます。マーリカ“さん”」
私はフェルディナンド様の半歩後ろで、橙色のドレスの背中目掛けて、大きな声で言ってやった。返事はなかった。
その後は、滞りなく進んだ。
形式的な挨拶、形式的な祝辞、形式的な微笑。私はフェルディナンド様の半歩後ろで、求められる役割を演じ続けた。誰も深くは踏み込んでこない。先ほどの一件が、十分な牽制になったのだろう。華やかな音楽と笑い声の中で、私はただ、嵐が過ぎるのを待っていた。見上げると、城壁のように大きな背中。ここにいる限り、私は切り刻まれることはない――そう確信できた。
◇
無事に夜会を終えて、エドマン領に戻ってきた。帰りの馬車でもフェルディナンド様は相変わらずむっつりしていたが、少しだけ彼のことが分かった気がする。彼は、ただ不器用なだけなのだと思う。そう考えると、彼の「ん」「ああ」「そうか」も無関心というわけではない、と思いたい。
侍女が来るよりも少し前に目覚めた私は、毛布を羽織りながら起き上がる。いつもの定位置、窓辺の椅子へと腰掛けた。外は明け方の、目もくらむような青い空の下で、どこまでも続く荒野が広がっているのだろう。いつも変わらない風景。また、変わらない日常が戻ってきた。
そう思っていた。
「っ!?」
空を覆い尽くすような白煙を見るまでは。一つ、二つ、三つ。さらに多い。まるで雲に混ざり合おうとするように立ち上る白い柱。狼煙だ。さらに遠くには黒煙も見えた。窓を開けて身を乗り出すと、遥か彼方の監視塔から警鐘が絶えず打ち鳴らされていた。何かあったんだ。
ノック音。若い侍女たちが朝の準備に来たようだ。
「おはようございます。アンリエット奥様。昨晩はよく眠れましたか」
「外で狼煙が上がっています。何があったのですか」
「奥様が気にすることではございませんよ。さ、着替えをお手伝いします」
侍女は表情一つ変えない。つかつかと歩みよって、私に手を伸ばした。私はその手に捕らえられるまえに、手首をつかむ。
「フェルディナンド・エドマンの妻として命じます。話しなさい」
「っ!」
「いったい、何が起きているのですか」
私は立ち上がった。肩にかけた毛布が落ちる。侍女たちは目を見開いた。
「聞こえませんでしたか。知っていることを、すべて話しなさい」
「わ、わたしたちもわからないんです!」侍女は堰を切ったようにしてまくしたてる「昨晩、血相を変えた兵士が館に訪れて、旦那様にお会いになって、そのあとすぐに旦那様は出ていかれてしまって!執事長も変わらず仕事をせよとしか!」
震えながら侍女は言った。他の者たちもさっきとは打って変わって青い顔をしている。必死に取り繕っていたのだろう。
父上の顔が思い浮かんだ。父は決して愚かな人ではなかった。それでも、たった一つの油断が大敗に繋がった。その因果で私はここにいる。私は何も知らされなかった。何もさせてくれなかった。もう、あんな思いは絶対に嫌だ。
「わかった。話してくれてありがとう。まずは落ち着いて、着替えを手伝ってくれる?出来るだけ動きやすい服がいいわ」
「は、はい」
「それと、使用人を全員、一階ホールへ呼んで頂戴。話があります」
フェルディナンド様が何も言わずに飛び出していくなんて、事態は一刻を争うのだろう。なら、私に出来ることは家中の統制だ。簡素なドレスに袖を通し、深呼吸して心を落ち着ける。戦が始まるのだ。それも大規模な戦が。
「奥様、準備が整いました」
開け放られた扉の前で侍女頭と執事長が一礼して入ってくる。二人とも口を一文字に引き締めている。大体の察しはついているのだろう。
「ええ、今向かいます」
私は、立ち上がり廊下を真っすぐに歩いて行った。階段の上から一階の広間を見下ろす。集められた使用人たちは、落ち着きを失っていた。小声の囁き。視線の泳ぎ。荷をまとめかけている者すらいる。
――噂は、すでに回り始めている。
私は中央に立ち、全員を見渡した。ざわめきが完全に消えるのを待つ。
「皆、聞いてください」
声は強くない。だが、はっきりと響かせる。
「本日より、屋敷は外出禁止です」
どよめきが起こった。即座に、誰かが声を上げた。
「……は?」
「何を勝手なことを」
「奥様、ここは軍営じゃありませんぞ」
老いた執事が一歩前に出る。露骨な不満を隠しもしない。
「旦那様ならともかく、奥様が命令なさる筋合いはありませんぞ」
私は、遮らない。ただ、静かに返した。
「ですが、ここは今、戦場です」
ざわ、と空気が変わる。巻き上がる狼煙、黒煙。この地に住むものならこれが何を意味するのか。わからないわけがない。
「敵は、塀の外だけではありません」
私は指を折る。
「噂話。逃亡。盗難。密告」
一つ一つ、噛み砕くように言った。
「これが起これば、軍が勝とうと、この家は死にます」
「脅しですかな」老執事が顔をしかめた。違う、そうではない。そうではないのだ。私は、首を横に振った。
「いいえ。“役割”を与えます」
「門番。持ち場を固定。交代は私の許可制」
「警備。夜間巡回を倍に。二人一組」
「倉庫番。食料庫はすべて施錠。鍵は三本、分散管理」
指示は淀みなく続く。
「女官長。動揺している者は下げなさい。代わりに、冷静な者を前に」
動揺し半泣き状態だった女官たちが、はっと息を呑んだ。
「それと、今後一切の噂を禁じます。口ではなく手を動かす。下女たち、普段通りの掃除と配膳を」
老執事が、低く言った。
「……処罰は?」
私は、初めて彼を見る。
「処罰は最後です」
言い忘れはないかと、頭の中で考え直す。大丈夫だ。問題ないはずだ。
「仕事を与えられている者は、逃げません」
その言葉には、誰も反論しなかった。
「金銀、契約書、家系図、王家との書簡は、すべて私の管理下に置きます」
誰かが息を呑む。
「家宝も同様です。剣、印章、聖遺物――」
私は、静かに告げた。
「敵に渡るくらいなら、焼きます」
それは脅しではない。決意だった。私は、声を落とす。
「皆さん、ここが崩れれば、フェルディナンド様の帰る場所は無くなります。――それでも、勝手に動きたい者は、今、名乗りなさい」
誰一人、名乗らない。私は、深く頭を下げた。
「家を守ってください。私も、ここを守ります」
老執事が、ゆっくりと膝を折った。
「……承知しました、奥様」
その瞬間、この屋敷の空気が、ひとつに固まった。
◇
その後、張り詰めた空気の中で屋敷は滞りなく稼働していた。夜になると宵闇の向こうが燃えていた。穀倉や畑が敵の手に落ちないように焼いたのだろう。他にも見えぬ所を潰すようにかがり火が煌々と焚かれていた。
手が氷のように冷たい。光の届かないところがなお暗く見える。闇に紛れて敵がすぐそこまで来ているのではないか。皆の前では気丈に振舞ったが、独りになると心細くて仕方がない。
そんな矢先、侍女の一人がノックもせずに飛び込んできた。
「お、奥様!旦那様がご帰還されました!」
「! わかりました。すぐ向かいます」
安心して力が抜けかけた。歩く足がフルフルと震えていた。きっと顔も真っ青だろう。それでも、急いで歩を進める。廊下を抜けて階段まで行きつくと、ホールにはすでに使用人たちが集まっていた。その中心には甲冑に身を包んだフェルディナンド様。
「フェルディナンド様!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。滑り降りるように階段を下りていくと、使用人たちが道を開けてくれた。もう息も絶え絶えだ。
「お、おかえり、なさいませ。フェルディナンド様……!」
「ああ」
いつもの「ああ」だ。だけど、この時ばかりは続きがあった。
「お前が家のことを取り仕切ってくれたそうだな。本当に助かった」
胸の内から湧き上がるような喜びを感じた。だが、外の状況を見るに予断を許さない。敵がすぐそこまで迫っているのだろう。私は息を整えて、背筋を伸ばした。
「いえ。当然のことをしたまでです」
フェルディナンド様は驚いたように眉を上げた。そして、ゆっくりと私の肩に手を置いて「そうか」と言った。
「よくやった。今日はもうゆっくり休んでくれ」
「で、ですが」
「よい。食事を取って休め。今夜は俺もいる」
そういって、フェルディナンド様は私の横を通り過ぎていった。ふらりと眩暈がして、たたらを踏む。ダメ、倒れる。そう思った瞬間、後ろから侍女たちが支えてくれた。
「お、奥様。そ、その……」
皆が何か言いたげうつむいている。言いたいことはなんとなくわかる。でも、まだ早い。
「どうもありがとう。私も少し休むわ」私は支えてくれた侍女に微笑んだ。「食事は私室に運んで頂戴」
「は、はい!」
使用人たちに見守られながら階段を上がっていく。足元がおぼつかないが、何とか登りきることが出来た。
部屋で簡単な食事を取ると、急に疲れがやってきた。頭はクラクラするし脚が棒のように痛い。ネグリジェに着替えて、横になるも、目だけは冴えていた。今日は本当にいろいろあったから無理もない。眠れそうにないので、私は窓辺の椅子に腰かけることにした。外では相変わらずかがり火が燃え盛り、昼間のように明るかった。
その時、扉が鳴らされた。こんな時間に誰だろう。
「はい。何かありましたか」
「俺だ」とよく響く低音。「その……すこし、話をしないか」
いや、まさか。そんなことが起こりえるはずがない。だが、扉の向こうには間違いなく、あの方がいる。
「ふぇ、フェルディナンド様!?」
「そうだ」
棒のような足がピンと伸びて立ち上がる。ど、どうしよう。こんなはしたない格好で。でも、待たせてしまっても申し訳ない。まさか本陣が奇襲されるとは思っておらず、私は大混乱に陥りながら上着を引っ掴んで羽織った。
「しょ、少々お待ちください」と言いながら、ドレッサーに飛び掛かり、高速で髪をとかしていく。扉の向こうから「ああ」と短い了承。心臓の音がドクドクと高鳴っていった。
「お、お待たせいたしました」扉を開けた先には甲冑。見上げると、フェルディナンド様がこちらを見下ろしていた。
「すまない。夜分遅くに」
「いいえ。問題ありません」
「外で話そう」
「わかりました」
とんでもないことが起きている。あの「ん」「ああ」「そうか」の三語でしか話してくれなかったフェルディナンド様と会話が成立している。これが“荒野の狐”モードのフェルディナンド様なのか。
私は、ランプを片手に廊下を歩いていく。使用人たちが寝静まっているからか、廊下は異様に静かに感じた。そろりそろりと三階に上がり外のバルコニーへ。もう半年近く住んでいるのに初めて来た。
「あ、あの、お話というのは?」
フェルディナンド様は答えない。ただ、塀に手を置いたまま、遠くの炎を見つめている。
「……勝てん」
ぽつり、と落ちた言葉。
「え?」
「籠城する。援軍が来るまで、耐える」
「そう、ですか」
私は彼の後ろ姿を見ていた。こんなに疲れた声を、初めて聞いた。
「……いや」フェルディナンド様は、かすかに首を振った。「違う。援軍は、来る。来るはずだ。早馬は出した」
「では――」
「だが、間に合わん可能性がある」
風が吹いた。遠くで何かが燃える音がする。
「……俺は」
彼は言葉を探すように、口を開いては閉じた。
「……戦うのが、好きではない」
「……え?」
耳を疑った。目の前にいるのは"荒野の狐"と呼ばれる猛将だ。
「剣など、握りたくなかった」
彼は拳を握った。「だが、俺が立たねば、誰かが死ぬ。そう言われ続けて……父上が戦死して、母上も後を追って……」
声が途切れる。
「……それで、俺は」
私は、待った。彼が言葉を継ぐのを。
「お前とも、命じられるまま、結婚した」
胸が、きゅっと痛んだ。
「子を成すなとも、言われた。お前のせいではない。ただ……間が、悪かっただけだ」
フェルディナンド様は、ようやく私を見た。
「もう、いい」
「……え?」
「お前は、もう十分耐えた。今なら、逃がせる」
「逃がす……?」
「今すぐ馬を用意させる。南門から出ろ」
「待ってください」
私は、一歩前に出た。
「あなたは、死ぬつもりなんですか」
「……わからん」彼は目を逸らした。「だが、可能性は高い」
私は息を飲んだ。左手を見る。薬指には指輪。つまんでみると、すっと外れた。どうやっても外れなかったのに。今、掌に小さく光っている。そうか。これで、私は――
“自由だ”
「……いいえ」
私は、一歩前に踏み出す。指輪を右手に握りしめて。
「あなたが守る“家”に、私は残ります」
フェルディナンド様はこちらを振り返った。相変わらず鋭い目だ。だけど、もう怖くはない。
「なぜだ」フェルディナンド様が目を見開く。「お前も死ぬかもしれんのだぞ」
「知っています」
私は彼の隣に歩いていく。肩を並べるのは、これが初めてだ。
「でも、私……もう」
言葉が、うまく出てこない。胸の中で渦巻いているものを、どう言えばいいのか。
「……窓から、外ばかり見ていました」
フェルディナンド様は、黙って聞いている。
「自由になりたい、って。ここから、逃げたいって。ずっと、思っていました」
指輪を、ぎゅっと握る。
「でも……今は」
声が震える。
「私は、あなたに守られる存在でいたくない」
私は前を向きながら、フェルディナンド・エドマンの隣で、燃える地平線を見ながら言った。
「私は、私の選択で生きます。戦犯貴族の娘でも、お情けで娶られた哀れな女でもなく、フェルディナンド・エドマンの妻として、この家を守ります」
フェルディナンド様の顔を見上げる。「それが、私の戦です」
私は、右手に握りしめた指輪はフェルディナンド様に差し出した。
「つけてくださいますか?」
彼は、私の顔と指輪を、交互に見る。
「……後悔、するぞ」
「後悔するかもしれません」
私は微笑んだ。
「でも、それでもいいんです」
フェルディナンド様は、ゆっくりと膝を折った。
大きな手が、私の左手を包む。
「……そうか」
指輪が、薬指に戻される。
今度は、温かかった。
「わかった。家を、頼む」
彼は立ち上がり、私の目を見た。
「……アンリエット」
「はい」
私は、少し笑った。
「あと……"お前"は、やめてください」
「……ん?」
「私のこと、アンって呼んでくださいな」
フェルディナンド様は、一瞬、固まった。
それから、ぷい、と顔を背ける。
「……善処する」
そう言って、踵を返した。
「明日から戻れん。長い戦いになる。休める時に休め」
扉の前で、彼は振り返った。
「……アン、リエット」
言い直した、その声に、私は笑ってしまった。
「おやすみなさいませ。フェルディナンド様」
そうして、私たちは別々の部屋へと戻っていった。私は倒れ込むようにベッドに身を投げ、目をつむった。とても穏やかな気持ちで眠ることが出来た。
◇
王国勅書
神の御名において――
我らソラリス王国国王、ここに忠節なる臣、エドマン辺境伯フェルディナンドに対し、深甚なる感謝と称賛の意を表する。
去る王国歴五七八年六月、東部国境において敵国の大軍侵入という未曾有の危機に際し、汝は寡兵をもって要衝を死守し、領民を守り、王国の安寧と威信を保全した。
その判断は迅速にして冷静、その指揮は剛毅にして周到、その忠誠は疑うべくもなく、国家にとって比類なき功績である。
よって我らは、汝の武勲と献身を永く記録に留め、王国全土にこれを知らしめるものとする。
なお、この戦功に鑑み、下記の恩賞をもって汝に報いる。
一、エドマン領における関税徴収権の恒久的確認
一、戦後十年間の軍役負担の軽減
一、王都における席次の一段階昇格
これらはすべて、汝とその家門が王国にもたらした功に相応しいものである。
今後も変わらぬ忠誠と叡智をもって、王国の楯として在ることを期待する。
五七八年八月
ソラリス王国国王 イノケンティウス
◇
扉が三度鳴らされた。広げた手紙から顔を上げると、「アンリエット奥様、フェルディナンド様がお戻りです」と声が聞こえた。夫を出迎えに行かなくてはならない。
「ええ。今行くわ」
書斎机から立ち上がると、背筋が悲鳴を上げる。辺りを見回すと壁以外は分類分けされた本棚が敷き詰められている。帳簿の根拠資料、商人や修道院関係者との書簡等。私は王都関係の棚に手紙を収めると、執務室を後にした。
廊下を進んでいくと、一階のホールだ。すでに使用人たちが花道を作っており、私を一瞥すると足を鳴らして背筋を伸ばした。皆、主の帰還を待ち構えている。私が花道の先頭に立つと「ご主人様のお帰りです」と老執事の低い声が聞こえた。使用人たちは一斉に頭を下げる。
扉が開かれる。そして、光の中から現れた人に、私は微笑みかけた。
「お帰りなさいませ。フェルディナンド様」
日焼けした茶色の髪、射抜くような眼差しをした軍人貴族が、ゆっくりと歩み寄る。相変わらず無表情だ。でも。
「ああ。今帰った。アン」
私には、それが夫の顔に見えた。
アルロウの家は未だ囚われ続けている。私も、フェルディナンド様との世継ぎを生む立場ではない。問題は山積みだ。それでも、私はもう、空っぽの部屋から、窓の外に自由を探さない。薬指につけた指輪を枷だとは思わない。ここが私の立つ場所だと胸を張って言える。私は夫の隣を歩きながら、今日の国境状況について聞いた。
つまり、戦犯貴族の娘、アンリエット・アルロウの戦は、ようやく終わったのだ。
(完)
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佐倉美羽
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