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6-8.あの日もたしか、こんな日差しの強い日だった/呉島 勇吾

 俺の巡礼の旅は、終わったそうだ。


 当初、通っていた幼稚園や、3歳まで俺が住んでいた家などを回ることになっていたが、これまでの経過を伝えると、社長は、「もう、必要ないね」と言った。


 元々社長が考えていたよりも、色々な出来事が起こったからだそうだ。

「後は、それらの事実や出来事が、君のピアノや感性に、どういう変化をもたらすか……」


 産みの親は俺を捨て、その兄は拾った俺を助教授に売って、夫婦もろともくたばった。その助教授も結局半年ともたず俺を海外へ遠ざけ、挙句、自分は臆面もなくガキを(こしら)えると、言うに事欠いてそのガキを「愛している」のだと言う。だから自分はいくら積まれてもガキを売れないと。


 そしてその夜、頭からワインを浴びせられると、俺の巡礼の旅は役目を終えた。

 社長が言うには、そういうことらしい。


 俺は埃っぽいボロ家の居間で、アップライト・ピアノを弾いた。


『巡礼の年』第一年「スイス」より、第8番『郷愁』

 ここに来てすぐ、この曲に違和感を覚えて手を止めた時に比べれば、多少、イメージに近くなったようにも思える。だが、まだ、何か足りなかった。


 わきに置いていたスマホの画面が光った。


 篠崎から、着信が何度もあった。特に、今日の午後は多い。


 ああ、会いたいな、と俺が率直にそう思った時、スマホは新着メッセージを通知した。


 篠崎 寧々

 「会いたい」


 俺はほとんど衝動的に、スマホを取って、篠崎に電話をかけた。


「呉島くん!」


 鼓膜が破れるかと思った。


「よう。悪いな。電話やメッセージをもらってたのに、返せなくて」と取り繕うように言った。


「会いたい」

 震えるような声だった。


「俺もだ。でも、合宿中だろ?」


「自由時間をもらったよ。戦って、勝ち取った」

 勇ましいことを、内気な声で言うところが、俺は好きだった。篠崎は続ける。

「しかも同じ街にいるんだよ。信じられる? 奇跡だよ」


 彼女が市の中心部、駅前周辺にいるのだと聞くと、俺はそのまま家を飛び出した。


 最寄りの駅まで走ったが、次の電車まで30分あると知ると、近くのタクシーを拾った。

 行先を告げて篠崎の待つ市の中心部まで、車が赤信号で止まるたび、焦れてもどかしい気持ちになった。


 自分がどういう気持ちなのか、感情が混濁して上手く整理できない。


 しかし、強烈な引力に導かれていた。


 駅に着くと、俺は料金より多めの札を運転手に押しつけて車を飛び出した。


 が、困ったことに、篠崎は迷子になっていた。


 俺を探して電車に乗り、駅の周辺をさまよっていたが、高いビルに挟まれて駅を見失ってしまったという。


 電話をかける。

「今、駅に着いた。周りに何が見える?」


「えっと……運河? があって……レンガの建物が、あります」

 申し訳なさそうに言う。


「お前……結構離れてんじゃねえか! 運河沿いで、目印になるようなモンを探してくれ! いいか、運河からは、離れるなよ!」


 俺だって、方向感覚に自信のある方ではないが、必死だった。


「あの、私が頑張って、駅を探しますので……」


「いいや、お前の人間性を、俺は全面的に信頼するが、方向感覚は信頼出来ねえ」


「そんな……あ、えと、ソフトクリーム屋さんがある……」


「10軒はあんだよ、そこら辺には。何か他の、もうちょっと特定できるモンは?」

 息がきれる。


「えーと、探します!」


 中央通りを600メートルほど東へ走ると、運河沿いの道路に出た。あとはこれを、北か、南か。

「運河に出たぞ。どうだ、何か見えるか?」


 俺がそう聞いたところで、橋を渡った運河の向こうに、飛び抜けて背の高い女が見えた。すれ違う人たちの視線を集めながら、スマホを耳にあてて、ウロウロとさまよっている。


 不意に女がこちらを向いた。

「あ! 駅が見えた!」


「俺は、お前を見つけたわ!」


 スマホをポケットにしまって、また駆け出した。


 向こうも往来する観光客の群れの中に、俺を見つけたらしい。気の弱そうな、大きな目を、一層大きく見開いて、駆け出した。横断歩道の信号は、丁度青になった。


 運河に渡された橋の上で、俺と篠崎は互いに手を広げた。篠崎の手が、すれ違う外国人観光客にぶつかる。

「あっ! すみませ……そ、そーりー……」


 手を引っ込めて頭を下げる篠崎を見ると、俺は吹き出した。


 外国人観光客は笑顔で篠崎に親指を立てる。

 行き交う人たちがそれを見て微笑む。


 俺は、篠崎を抱きしめた。大きい。頭一つとまでは言わないが、俺より10センチはデカい。


「お前といると、世界が優しく見えるんだ。俺の生きてきたクソったれの世界が、今この場所と地続きだとは思えねえくらい」


 篠崎も、俺の背中に腕を回す。


「私は、呉島くんと出会ってから、その強さにずっと支えられてきたよ。私が戦えるようになったのは、呉島くんが、私に何度も勇気を分けてくれたからだよ。だから、呉島くんが傷ついた時には、私が支える。他の誰でもなくて、私が。私は、呉島くんと、そういう関係になりたい」


 どちらからともなく、俺たちは身体を離して、それから手をつないだ。陽はまだ高く、運河の水面に強い日差しを落としていた。


「あ……」と、俺は思わず声をあげた。

 運河沿いにはソフトクリーム屋が10軒はある。


 俺がそれを知っていたのは、昔ここに来たからだ。こうやって、手をつないで。


 その女は、俺の母親ではなかった。俺を産み捨てた女の、兄の、妻。要するに、全くの他人で、まるでそのことを再確認するように、「まぁ、私には関係ないけど」と言うのが口癖だった。


 その日がどういう日だったのかまでは、さすがに思い出せない。だが、女は俺の手を引いて、ここへ連れて来た。


 ソフトクリームを買ってやると女は言い、けれど、どの店で買えばいいのか2人で悩んだ。3歳の俺には大きすぎて、女と一緒に1つのソフトクリームを分け合って食べた。


 女はこの橋を渡る時、「アンタ、私や、私のダンナみたいになるんじゃないよ」と言った。そして、「まぁ、私には関係ないけど」と付け加えた。


 それは、俺の記憶の中で、彼女が俺のために言った唯一の言葉だった。


──「どうしたの?」


 不安げな篠崎の声に、俺は我に返って「いいや、何でもねえ」と答えてから、ふと、気が変わった。「いや、少し、思い出したことがあって、それで、『寂しい気持ち』になったんだ。そうだ。『寂しい』って、こんな感じだな」


 そう言ってから、俺は、思えばここのところ、ずっと寂しい気持ちだったな、と思い返した。


「私は呉島くんに会えない間、寂しかったよ。だって、連絡もくれないし」と篠崎は口をとがらせる。


「そうか。お前に電話でもしてりゃ、俺の寂しい気持ちも、いくらかマシになったのかもな」


 俺がそう言うと、篠崎は、握った手を振った。


「そういうことですよ」


 俺と篠崎は、それから、あてもなく運河沿いを歩いた。


「それにしても、どうして、俺がこの街にいると?

 俺がそう尋ねると、篠崎は少し迷うように視線を泳がしてから答えた。


「えと、SNSで、呉島くんがピアノ弾いてる動画が流れてて、それで、お店がここにあるって分かったの。剣道部の仲間が見つけてくれて、それで、大規模な捜索隊を編成し……」


「大規模な捜索隊……」

 俺はその大規模な響きに一瞬戸惑った。


 丁度そのころ、運河沿いにケーキ屋を見つけると、俺はこの街に来てから初めて、まともな空腹を感じた。

「剣道部のみんなにも、礼をしねえとな」


 篠崎は慌てたように、首を横に振る。

「いいよ、そんな、みんな面白半分っていうか……」


「じゃあ、半分は本気だ」


「それは……そう。みんな、本気で私のことを思ってくれる仲間だから……」


「そこのケーキ屋でどうだろう。俺は贈り物をするのに慣れてねえから、センスに不安がある」


「いやだって、30人くらいいるんだよ?」


「お前、俺を駆け出しの食いつめピアニストだと思ってねえか? 売れないミュージシャンみたいな」


「だって、週末しかお仕事できてないんでしょ? それも最近は減らしてるって……」


 篠崎が遠慮がちに言うので、俺は笑った。


「なるほど、知らねえよな。俺が一晩でいくら稼ぐかなんて」

 篠崎に、耳打ちする。


「え……?」


「『月に一度の贅沢』みたいなノリで、そういう金を払うヤツが、この世にはいるんだよ。それも、意外に少なくねえ。余裕だろ? ケーキの30人前なんてよ」


「でも、無駄遣いしちゃダメ」


「お前、いい奥さんになりそうだな」


「奥さん……」

 篠崎は、考え込むようにしてから、俺の腕を掴んだ。

「本当に、そう思う?」


「ああ。だが、人に恩を返すことが無駄遣いだとは思わねえ。それに、俺はピアノ以外にはほとんど興味がねえからな。金は溜まってく一方だ。お前と時々、甘いもんでも食えりゃ、俺はそれで満足さ」

 俺はそう言うと、自分が、未来について話していることに気がついた。

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[良い点] 通話しながらお互いに探しあって、橋の上で抱きしめるなんて……ロマンチック! 映画みたいな素敵なシーン、うっとり幸せ気分で読みました(*´ω`*) 30人分のケーキもなんてことない、勇吾の甲…
[一言] 生みの親は捨てたっていうより兄夫婦に強奪された(それこそ最悪兄夫婦に殺された?)ようなもんじゃないかという気も。
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