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Bonus track-9.バタフライ・エフェクト、あるいは李梦蝶の知らなかった出来事について

 () 梦蝶(モンディエ)には知る由もないことだが──


 ある国(ここでは便宜的にC国とする)で仕事を終えた彼女が、ついでの観光で訪れたテーマパークに備えてあったストリートピアノでショパンのエチュードOp.25-9『蝶々』を弾いたとき、ちょうどそばを通った少女が耳を奪われ、うっかり持っていた風船を手放した。


 風船のひもには、子どもが手を放しても飛んで行かないようにと、袋に入った菓子が(ゆわ)えつけてあったのだが、なにぶん人のやることだから、いくぶん多めにガスの入った風船に、いくぶん軽めの菓子が結えてあったとみえ、目に入る限り一番背の高い大人が本気で垂直跳びをしたときに、ギリギリ手が届かないくらいのいやらしい高さを、風に吹かれてよたよたと漂いながら、少しずつ少しずつ、天に昇っていくのだった。


 我を忘れて梦蝶(モンディエ)の演奏に聴き入っていた少女は、その演奏が終わった瞬間、ふと我にかえったように自分の手を見つめたあとで、しくしく泣き始めた。


 梦蝶(モンディエ)は少し悲しい気持ちになった。

『蝶々』はショパンのエチュードの中でもっとも短いものだが、軽やかでコミカルで愛らしいこの曲は彼女の名刺がわりで、それが──彼女やその音楽の責任とは言えないにせよ──まさか人を悲しませることになるとは夢にも思っていなかったのである。


 にわかにできた人だかりの最前列で、悲しそうにうつむく少女に歩み寄ると、彼女は自分の首の後ろに手を回し、そこにかけたネックレスをおもむろに外して彼女の首にかけた。

「おわびになるか、わからないけれど」


 少女は首にかけられたネックレスのペンダントトップをつまみ、ワイヤーの型にレジンを張って作られた小さな蝶のモチーフと、梦蝶(モンディエ)の瞳とをかわるがわる不思議そうに見比べながら、小さな声で礼を言った。


 隣の母親が慌てたていで、「何もお返しするものがございませんで……」というようなことを言うので、どうぞお気遣いなく、という手振りでそれを遮ると、梦蝶(モンディエ)は少女に向かってこう言った。

「あなたが元気を取り戻したら、それを泣いている誰かに分けてあげてくださいね」


 そして少女の返事を待たず、身を翻してその場を去った。

 我ながら、今のはなかなか良かったな、などと内心うぬぼれつつ。


 少女の手放した風船は、風の中をふらふらと漂いながらテーマパークの高い塀を越えた。


 風船が見下ろすのは、この国でも有数の港湾都市だった。

 たくさんの人が行き交い、たくさんのモノが売り買いされ、たくさんのゴミがひしめき合いながら吐き出されていく。


 そうして代謝されたものの1つに、その歌は含まれていた。

 それは黒人霊歌ブラック・スピリチュアルのコンピレーションCDで、アメリカかぶれの年寄りが所蔵していたものだ。海外の正規品が手に入りにくかった昔ならともかく、それ自体は希少なものでもなかったので、年寄りが介護施設に入ったかしたとき、娘だの孫だのがここぞとばかりに色めきたって、彼のため込んだ古いものをまとめて処分したのである。


 もちろん、風船にはなんの関係もない話だが。


 さて、ヘリウムガスで膨らませたゴム風船は、高度3,000メートルから、高ければ8,000メートルまで浮遊するという。

 高度が上がるにつれ気圧が下がり、内部のガスが膨張してゴムの強度を越えたとき、風船は破裂してその短い生涯を遂げる。が、この風船についていえば、紐に菓子が結えつけてあったせいで浮上する速度はゆるやかだったので、水平方向にずいぶん遠くまで運ばれた。


 魂の存在を仮定して、それがもしこの風船にもあったとすれば、彼は、少女の手に握られ彼女の家へ招き入れられるという、今とは別の可能性について夢見たかもしれない。


 温かい寝室の枕元にふわふわと浮かびながら、その日が彼女にとってどんなによい一日だったかを、そしてその声がやがて寝息に変わっていくのを聴きながら、一晩かけてゆっくりとしぼみ、翌朝惜しまれながら息を引き取る。


 それは風船にとって一つの理想的な最期だったかもしれない。だが、こうして縛るものもなく風の吹くまま空へ高く昇っていくのと、果たしてどちらが幸せだろう? それは誰にも分からない。他ならぬ風船自身にも。


 とにかく風船は、とある半島の南端に位置する港湾都市から、潮風に急かされながら海を渡り、隣国へ辿り着いたところで割れた。


 梦蝶(モンディエ)のいたC国の港湾都市から、真っ直ぐ西へ湾を跨いだ先はD国の領土で、その北側に流れる大きな河でC国と国境を接していた。


 その河の上を、一機の偵察ドローンが横切った。


 そのドローンの任務というのは、国境から少し離れたところにD国が建設したとされるミサイルサイロを偵察することだった。


 そこには大陸間弾道ミサイルが配備されていると見られ、その先っちょに核弾頭でも積んであっては一大事というので、C国が国際社会に対するちょっとしたサービス精神と自国の偵察技術のデモンストレーションを兼ねて、偵察に乗り出したという次第である。


 とはいえ、すぐお隣のC国にとってみれば、うんと遠くへ飛ばすための弾道ミサイルをわざわざ偵察する動機はあまりないわけで、ドローンのオペレーターがそれほど乗り気ではなかったというのも理由の1つかもしれないが、結果をいえばドローンは墜落した。


 このドローンが墜落したことについて、もっと直接的な原因を挙げるとすれば、どういうわけか割れた風船の破片がプロペラに絡まってしまったためである。


 それはよりにもよって、D国のミサイル基地に落ちた。


 このミサイル基地の司令官というのが一度腹を立てると手のつけようがない癇癪(かんしゃく)持ちで、D国が発射実験の名目で飛ばしたミサイルのうちいくつかは、この准将だか少将だかが勝手に発射したのを中央がそのたびになんとか辻褄を合わせてきたというのだから、そこに偵察ドローンが落ちて何が起きたかということは、それほど想像にかたくない。


 ミサイル将軍がミサイル発射を命令したのは一瞬のことだったが、そこで働くミサイル兵の立場から言わせてもらえば、そんなに突然命令されても準備にはそれなりの時間がかかる。


 というわけで、その間、風船の先にくくり付けられていた菓子の話をしよう。


 それはビニール袋に入ったひと摑みのクッキーだった。上空でパンパンに膨張した末に割れた風船は、いくつかの破片に分かれて、そのうちの1つがドローンのプロペラに絡まり墜落させたわけであるが、ひもにくくり付けられた菓子の方はというと、国境河川のC国側に落下し、くくっていたひもが背の低い木の枝に引っかかって、人知れずぶら下がっていた。


 明け方そこへ、河の方から薮を漕いで、一人の少年が這い寄った。

 10歳を過ぎたかどうかという、痩せぎすで、ボロきれみたいな服を着た、その上ずぶ濡れの少年だった。


 今しがた、激流にあらがい冷たい河を渡って、D国を脱出してきたのである。そのために、彼はあらゆるものを失った。


 D国というのは、餓死者が出るほど穀物が不足したので他国に防空システムの支援を要請する、といった国家である。立派なミサイルを何十基も抱えているのに、そこの住民ときたらぺこぺこに腹を空かしていた。この少年も例外ではない。


 であるから、目の前の枝からクッキーがぶら下がっているのに気づいたとき──彼はクッキーというものを知らなかったが、どうやら食べられそうだったので──、少年は神の存在を意識せずにはいられなかった。


 クッキーは長い空の旅の間、突風に吹かれ、上空の水滴を吸い、木々の枝にぶつかって、夜露に濡れたりしたために、割れたり湿気ったり潰れたりしていたが、骨にこたえるほど甘かった。


 痩せこけて、目ばかりギラギラとして、下草にこぼれたかけらまで拾ってむさぼる少年の姿は、都会人の審美的価値観に照らせば決して美しいものではなかっただろう。


 だが、ともあれ彼は生きていた。


「命を賭けて、生きなさい」

 そう言った母は、国境警備隊の銃弾に倒れた。


 警備兵は、少年にも気付いていたのに違いなかった。だがおそらく、その引金にかかる指を、なけなしの良心が引き留めたのだ。


 いくつもの山を越えた先であえなく倒れた母を置いて、越境を手引きするブローカーに引きずられながら河に入り、激しい濁流に流されて、彼は独りここに辿り着いた。


 少年はC国にとって不法入国者であり、公安に見つかれば強制送還は免れない。彼を案内するはずだったブローカーとは、河を渡る途中で逸れてしまった。


 喉が渇いた。しかし渡ってきた河に引き返そうという気は起きなかった。母を撃った銃声が、まだ耳の奥に残響を焼き付けて離れない。


 明けそめた空は、しかしまだ夜の余韻にひたっている。先は見えない。一度だけ振り返った河の水面は、色づきはじめた世界の中で、青々とした悲しさだけを横たえていた。


 話は変わるが、地球の近傍には幅30から100メートルの小惑星が100万個あると想定されているそうである。しかもその98.9パーセントが未発見だ。


 そんな中、一つの名もなき小惑星が、ひょんなことから軌道を変えて、地球に狙いを定めた。

 直径は30メートル。ニューヨークにあるジョージ・ワシントン・ホテルとだいたい同じくらいの大きさだというが、これは天文学的なスケールからいうと発見が困難なほど小さい。


 しかしそれが地表まで到達した場合、その衝突エネルギーは、およそ東京23区と同じ広さを更地に変えるだけの威力を持っていた。


 その小惑星が、数多の天体による複雑な引力のしがらみからはなれ、地球の重力に回収される軌道に入ったとき、すでにそれはどこに落ち、どれほどのエネルギーを放ち、どれほどの都市を塵と化すのか、物理的な法則によってすでに定められていた。


 ところでその頃、ミサイル基地にドローンを落としたオペレーターは、河川のC国側、国境沿いの村で、亡命の準備を終えたところだった。


 本来、彼の任務はミサイルサイロを外側からチラリと覗いて帰ってくるだけの気楽なもので、週末には姪っ子が出るピアノの発表会を観に行く予定も入っていた。

 だが、残念ながらこの予定はキャンセルだ。


 彼の操縦したドローンが、D国のミサイル基地に墜落した。それをきっかけに、弾道ミサイルが放たれる。D国というのはそういう国だ。


「私なりに一生懸命やったんですが……」という釈明は聞き入れてもらえそうになかった。このまま軍に出頭すれば、おそらく粛清されるだろう。自分でもわりと納得できる。C国というのもたいがいそういう国なので。問題は、死にたくないということだ。


 ドローンの墜落を察知した司令部から、さっそく一通のメールが届いていた。

 言葉を尽くしたお叱りの文句を並べたて、最後には「出頭せよ」とくるのを想像したが、開封したメールの内容は彼の予想に反するものだった。


 要約すれば、以下のようなことだ。

「D国より脱国者が出た。彼にスパイの濡れ衣を着せろ」


 奇跡だと思った。国を捨てて逃げおおせるか、あるいは死か、それ以外に道はないと思っていたところに、降ってわいた第3の道である。


 メールにはファイルが添付されていた。それを開くと、脱国者の逃走ルート、予想潜伏地点、そして衛星写真が添えられていた。画質が粗く、個人の識別は無理そうだった。しかし、はっきりと分かったことがある。

 子どもだ。


「クソったれが」

 オペレーターは胸ポケットから煙草を取り出して、火をつけた。そして、口から吐いた煙と、煙草の先から立ち上っていく煙が、裸電球の朧げな光の中で絡み合うのを眺めた。


 それを何度か繰り返した。

 煙草の火がフィルターを焦がしはじめたころ、彼は誰にともなく「よし……」と呟いて、潜伏していた小屋を出た。


 この村にはC国とD国の商人が出入りして公然と密貿易を行っているが、特にヤバい商品は陽も明けきらぬ早朝に取引される。彼はそれをいいことに、スマートフォンと軍の車(それは一般車両に偽装されていた)を売り払い、ガラクタ同然の値段で乗り捨て前提のボロ車に買い替えた。


 車はレトロなエンジン音を響かせ、生まれたての子鹿のように振動しながら、2キロほど走ったところで息を引きとった。


「クソっ!」

 バンパーのあたりを蹴ったとき、不意に、南東の空が輝いた。


 ところで黒人霊歌ブラック・スピリチュアルのコンピレーションCDはというと、廃品回収業者の仕分けカゴの中に、他のレコードやCDと一緒に詰め込まれていた。これはCDにとって希望の持てる処遇である。音楽再生メディアとして、まだその存在を認められているのだから。

 彼の中に眠る音楽は、虐げられた人たちを慰め、また勇気づけるための歌だ。

 そのようにして生を受けた歌が、あと一人、あと一人だけ、誰かを慰められるとしたら、それはどんなに幸せなことだろう。


 さて話を戻すと、D国の大陸間弾道ミサイルは、ミサイル部隊のミサイル兵たちによるミサイル将軍のための涙ぐましい働きによって、明け方めでたく発射された。


 それは三段式固体燃料ミサイルで、発射からわずか19秒後に高度は2,530メートル、速度はマッハ1を超え、さらに20秒後にはマッハ3を突破、高度は11,582メートルに達する。そこから23秒後、発射地点から水平距離33キロメートル、高度30,240メートルに至り、第1段エンジンを切り離した。


 ミサイルサイロからここまで、渾身の力で彼らを運び続けた第1段エンジンは、第2段エンジンが放つ超音速の噴射ガスに身をよじらせながら、悲しい速度で地球の重力に引き寄せられていく。残されたミサイルは、振り向きもせずさらに高みへと突き進む。


 発射から121秒が経過した時、ミサイルの頭部、ゆったりとした流線型の保護シュラウドが投棄された。その下からは妥協のない円錐形の再突入体が、鋭い先端をあらわにする。高度は96,012メートル。


 ミサイルは大気圏を超えた──。


 一方小惑星の方はというと、こともあろうに、ある大都市に落下するという物理的な宿命を負っていた。秒速16キロの速度で地表にぶつかり、TNT換算10メガトンのパワーで、その街の直径1.4キロを深さ300メートルのクレーターと化し、5,000人を蒸発させ、半径9キロ以内のビル群を全てなぎ倒し、13キロ以内の家屋を全て吹き飛ばし、熱と爆風と衝撃波で100万人以上の命を奪う。


 そのように運命づけられていた。


 ──横合いから、突然ミサイルがぶつかってくるようなことさえなければ。


 少年は、思わず立ち上がった。


 薄明の空に夜が残した濃紺のヴェールを引き裂いて、それは激しく輝いた。

 直視できないほど眩しかった。少年は目の前に手をかざし、指の隙間から覗いた。


 円盤状の小惑星は、大気圏を(はす)に斬り込むような角度で地球に向かっていた。しかし横合いからミサイルが衝突し、もうしばらく先までそれを運ぶはずだった燃料もろとも木っ端微塵に爆発すると、その衝撃によって軌道を変え、広く平らな面で大気の抵抗を受ける形になった。すると中央付近にあった融点の低い部分が蒸発して溝を生じ、そこから真っ二つに割れ、さらにそのとき生じた亀裂が伝播して、次々に砕け、そのたびに強く光った。

 おびただしい破片が、重力に引き寄せられ、輝きながら燃え尽きた。


 もちろん少年は、その様子をつぶさに知っていたわけではない。ただ明け方の空に、光の蝶が羽を広げたように見えたばかりである。


 しかしそれは、彼を取り巻くあらゆるものを、ほんのひとときの間、忘却させた。母を奪った銃声の響きや、濡れた服の冷たさ、河に流されたなけなしの金のことを。


 そして同じものを、同じ場所で、同じように、眩い光を手で遮りながら、(元)ドローンオペレーターも見上げていた。


 不意にそばの茂みから現れた少年は、がりがりに痩せこけ、うす汚れた服を着て、その上ずいぶん濡れていた。だがそんなことは大して気にならなかった。


 2人は同じものを見ていた。同じ世界を見ていた。同じ光に照らされ、同じ世界を生きていた。


 太陽が昇るにつれ、夜の残した紺色のヴェールは空の向こうへと押しやられていく。


 2人は、まだ光の蝶の美しい残像が消えない視界の中心に、互いの姿をとらえて見つめ合った。


「生きるぞ」


 それから数日後、ロシア人ピアニスト、ナターリヤ・ラブロフスカヤのSNSアカウントに1件のダイレクトメールが届いた。


 それは彼女の活動に対する賛辞につづき、送り主になにか事情があるらしいことを、とても婉曲(えんきょく)な言い回しで示唆していた。


 彼女が文面を分析してそう読み取ったというよりは、経験と感覚で嗅ぎ取ったというのに近い。


 ナターリヤ・ラブロフスカヤは、同じようにとても婉曲な言い回しで、次のような意味の返信をした。

「私は顔が知られすぎている。あなたがもし亡命のようなことを考えているなら、私に会うこと自体がかえって成功を妨げることになりかねない。仲間を紹介するので相談するといい。全ての人が、自由と平和を当然に享受する世界を、私は夢見ている」


 彼女がその返信ボタンを押したとき、リビングのテレビに映るニュース番組が、先日大気圏外で発生した空中爆発について、大気圏に突入しようとしていた小惑星をD国の弾道ミサイルが破壊したものであり、その様子は各国にある複数の天文台や人工衛星が観測していたと報じた。


 D国外務省広報部は、ここぞとばかりに、「我が国最新鋭の天体観測システムは、小惑星の接近、並びに、それが大気圏に突入する軌道に入ったことを先んじて察知、正確無比のミサイル射撃によってこれを破壊し、もって国際社会の平和と安定に寄与したものである」と大ボラを吹いた。


 しかしその大ボラは、癇癪を起こした将官が腹立ちまぎれに発射したミサイルが、たまたま接近していた小惑星にたまたま衝突したという事実にくらべれば、確率的にははるかに信憑性が高かった。


 これに困惑したのはミサイル発射を命令した当のミサイル将軍で、彼はあっという間にD国の勇気と平和の象徴みたいなものに祭り上げられてしまったのである。


 ところが、人間というのは不思議なもので、そう言われてみると実際そうだったような気がしないでもない。いや、思い返せば実は前からそうだったような気がする。いや、幼少から平和については関心があった。いや、母胎にいたころから絶えざる祈りを平和のために捧げてきたし、それを実現するために私はこの世に生を受けたのである!


 そんなわけで、この准将だか少将だかは、半月も経たぬうちに特別昇任で少将だか中将だかになり、特別編成されたD国人民軍特別平和部隊の特別平和隊長に任命され、精力的な活動によって、D国の外交関係のみならず、共産圏と資本主義圏との関係改善に多大な功績を残すこととなる。


 が、それはまたずいぶん先の話なので、『光の蝶』が輝いた数日後に時間を戻そう。


 C国有数の港湾都市を、ウクライナ人ジャーナリストが訪ねていた。


 このジャーナリストは職業柄、どのルートで誰に賄賂を渡せば安全に国境を越えられるかということについて、豊富な知識と経験を持っていた。

 ナターリヤ・ラブロフスカヤの睨んだ通り、彼のそうしたノウハウが相談者の役に立ちそうだった。


 相談者は、30代前半くらいの小柄な女性で、娘が一人いる。若いうちに両親を亡くし、娘が生まれてすぐその父親とも離婚して、ほとんど身寄りはなかったが、実業家で、金は持っていた。


 唯一の肉親は弟で、軍の特殊部隊にいるらしかった。「らしかった」というのは、任務の特性上そのことは肉親にも秘密にされていたからだ。


 D国によるミサイル騒ぎの2日後、その弟から彼女に手紙が届いた。

「自分は特殊部隊で偵察ドローンのオペレーターをしていたが、ある任務で重大な失敗をおかした。出頭すればおそらく粛清されるだろう。それを甘んじて受けるのは失敗の責任という意味で正しいことかもしれないが、自分は両親にもらった命を、精一杯使いきって死にたい。迷惑をかけるが、おそらく公安や軍の人間が訪ねるだろうから、この手紙をそのまま渡し、下手な抵抗は絶対にしないように。姪っ子のピアノが聴けなくて残念だ」

 概ねこのような内容だった。


 相談者の女性は弟の言う通り、訪ねてきた軍の人間に手紙を渡し、幾度にもわたる住居や職場の捜査を受け入れた。しかし軍や公安の捜査は次第に嫌がらせの様相を呈し、事業はもはや成り立たず、しまいには娘を人質にとることさえ仄めかされたという。


 事情を承知したジャーナリストは、2週間ほどで必要な手続きを済ませ、娘に就学ビザを、母親に保護者ビザを手渡した。そして、手荷物検査や税関でどの窓口を通れば、買収した職員が彼女たちを無事に送り出してくれるかを伝えると、最後にこう言った。

「東京に渡ったら、メモにある芸術大学で客員教授をしている呉島 勇吾という男を訪ねなさい。月に一度、大学でレッスンするそうだから」


 その帰り、たまたま立ち寄ったレコードショップで、彼は黒人霊歌ブラック・スピリチュアルのCDを手にとった。中古だったし、特にそれが好みだったというわけでもない。ただ、おあつらえ向きだと思った。

「まるで『地下鉄道』だな」

 19世紀、アメリカ南部の黒人奴隷たちは、奴隷制の禁止されていた北部諸州、あるいはカナダまで亡命した。これを手助けしたのが秘密結社『地下鉄道』である。

 黒人霊歌は、旧約聖書やイエス・キリストを題材にとった信仰の歌である一方、地下鉄動員や逃亡奴隷たちにとって暗号の役割を果たした。

 ちょうど、人の不幸にカメラを向け、扇情的な見出しをつけて売り捌く悪党が、一方で亡命を手引する役割を果たすのと同じように。


 ノートPCにつないだCDドライブにそのディスクを滑りこませ、イヤホンをはめた。アコースティック・ギターの短いイントロから、低いしわがれた女の歌声が流れた。いい声だと思った。が、それがちょうどワンコーラスを過ぎたあたりで、録音は激しく音飛びして、聴くにたえない雑音を発した。


 ジャーナリストは舌打ちしてディスクを取り出すと、それを買ったレコード屋に駆け込んで、しこたま文句を言った。かなり激しい言い合いの末、半額を返金させ、不良品を突っ返すことができたので、まあ引き分けといったところだ。


 店を出て路上に唾を吐いたとき、ふと思いついて相談者の女に電話をかけた。

「弟さんと連絡が取れたら知らせてほしい。優秀なドローンオペレーターがいるなら雇いたい」


 さて、そんなこととは知らない(元)オペレーターは、国境沿いの河べりで拾った少年と旅をしていた。


 困ったことにほとんど言葉が通じなかったので、目に入るものをいちいち指差して、名前を決めなければならなかった。

 俺の国ではあれをこう呼ぶ。お前の国では? そんなやりとりで話題が尽きなかったのは、考えようによっては悪くなかったかもしれない。


 出発から2、3日経って知ったことだが、少年は13歳だというので驚いた。その歳にしてはあまりに体が小さく、食も細かった。


(元)オペレーターは少年に、安物だが新しい清潔な服を買い与え、十分な食事をとらせた。


 広大なC国では、都市部と農村部で環境がまるで違う。都市部では電子マネーや顔認証システム、自動車ナンバー読取システムであっという間に足がつく。だから、彼らはできるだけ都市を避け、監視カメラが少なく、まだ現金決済が生きている農村から農村へと渡り歩かなければならなかった。


 盗んだ車を隣町で乗り捨て、また次の車を盗む。手頃なものがなければヒッチハイクもしたし、うんざりするほど長い距離を歩き、野宿もしょっちゅうだった。


 少年はそういう意味ではかなりたくましく、文句の一つも言わなかったし、手先が器用で、捨ててあったバネやら針金やらを拾っては、小さなおもちゃやアクセサリーを作ったので、それを売るといくらか路銀の足しになった。


 そうして、ひと月ほど経ったころ、(元)オペレーターは公安や軍から放たれた追手の気配が、もう手の届くところまで近づいていることを悟った。


 潮時らしかった。


「俺はC国特殊偵察部隊の工作員だった。今はまあ、誇り高き脱走兵ということになる。密入国者のお前と比べても、より真剣に追い回される立場だ」

 郊外の安宿に入ってひと息ついた後、(元)オペレーターは打ち明けた。

 

 ひと月も一緒に旅をしながら、彼らは互いの名前さえ知らなかった。

 彼らの旅には「わたし」と「あなた」以外に、記号を付与して識別すべき他者がいなかったし、その日一日を生きるため、他に話すべきことが山ほどあった。


 だから、(元)オペレーターが始めた身の上話は、それ自体が旅の終わりを遠回しに示唆していた。


 両親は子どもの頃に他界して、俺は姉に育てられた。姉は必死に働いて、今じゃ自分の会社を持ってる。ただ男運だけはからっきしで、娘ができて間もなく旦那は出て行ったし、弟の俺が下手うったせいで、おそらく今ごろ軍や公安の連中が押しかけてる。姪っ子にまで迷惑がかかった。

 この姪っ子ってのは人懐っこくて、年に数えるほどしか顔を合わせない俺にもよく懐いてくれた。ピアノが上手で、こんなことがなきゃ発表会を聴きに行くはずだったんだ。今となっちゃ、もう、合わせる顔もないけどな。


 そんなことを、ぽつり、ぽつりと語った。この道中、2人の間で、教え、教わった語彙に言い換えながら語らなければならなかった。だが、半分くらいは伝わっている雰囲気だった。


「命を賭けて、生きなさい、って、お母さんが言ったんだ」

 呼びかけに応えるような心持ちで、少年はつぶやいた。その言葉の意味を、ずっと考えている、と。

 父は、僕が幼いころに思想犯として逮捕された。市民の窮状を役人に訴えたという彼の思想が、どれほど悪かったのかは知らないけれど、おそらく生きてはいないのだろう。

 この世界のどこかには、自分が正しいと思うことや、変だと思うこと、つらいことや悲しいことを吐き出しても許される場所があるという。両親はどうやら、僕がそこを目指すことを期待しているみたいだった。

 だけど、正直実感がわかないんだ。僕はそんな世界を見たことがないし。

 だから、僕は母の言葉を、僕なりにとらえ直して生きていこうと思う。母の考えていた意味とは違うかもしれないけど、命を賭けて生きる。


 と、その辺りの考えを、できるだけゆっくり話した。半分くらいは伝わっている雰囲気だった。


(元)オペレーターはなにか皮肉っぽい笑顔をうかべ「そうかい。好きにしな」と言って、それから「俺も、好きにやるさ」と付け足した。


 埃くさい寝室の、ガタつくベッドで、薄っぺらい一枚の布団に包まり、彼らは互いの体温を分け合いながら眠った。彼らはそのとき、ひとつの熱力学系の中にいた。布団一枚剥がしてしまえば、たちまち2つに分かれてしまう、とても不確かな系の中に。


 明くる朝、黒人霊歌ブラック・スピリチュアルのコンピレーションCDは、屋台代わりのミニバンのトランクに、──それも棚の中でわりと目立つ位置に──しっかりと陣取っていた。露天商のセンスに照らして、ジャケットがクールだったためである。


 それは、アメリカかぶれの年寄りから廃品回収のトラックを介して幸運にも再びCDショップに並び、ウクライナ人ジャーナリストの手に渡ってその心を温めるかに思えたが、ディスクに傷が入っていて音飛びするというのでまたCDショップに逆戻り、ジャンク品の棚に並んだものの買い手もなく、「廃棄」のラベルが貼られたカゴに放り込まれて店の裏手に放置されていたところを、露天商のミニバンに運び込まれ(それは「被害者のいない窃盗」とでもいうべき営みだった)、ジャンクCD、ジャンクPC、ジャンクパーツにジャンクフードとあらゆるジャンルのジャンクショップがたち並び、売り手のうちの何人かは違う意味でもジャンキーで、ときたま別の世界にジャンプするという、なにもかもがジャンクなることこの上ないトランク(いち)のレコード棚に返り咲いて、そこにふらりと通りかかった、青年と中年のちょうど中間くらいの男に買い取られたのであった。


「座席の下に隠れてな。この辺りは人通りも多い」

(元)オペレーターは後部座席に向かって声をかけた。


 朝方盗んだトヨタのセダンは、もはや考古学的というくらい古めかしかったが、それにはCDプレイヤーがついていた。道すがら露店で買った二足三文のCDを、見ていて不安になるような挙動で飲み込んだプレイヤーは、自らの仕事を喧伝するような作動音の後で、独特のノイズが混じった音楽を、しかしなんとも長閑(のどか)なゆったりとした調子で、スピーカーから鳴らした。


 Swing low, sweet chariot.

 やさしく揺れて、いとしい幌馬車

 Comin' for to carry me home!

 迎えにきて、わたしを天国へ連れてって


 Swing low, sweet chariot.

 やさしく揺れて、いとしい幌馬車

 Comin' for to carry me home!

 迎えにきて、わたしを天国へ連れてって


 I looked over Jordan an' what did I see?

 ヨルダン川の向こうに、なにを見たと思う?


  (Comin' for to carry me home! )

  (迎えにきて、わたしを天国へ連れてって)


 A band of angels comin' after me,

 わたしの後をついてくる天使たちの音楽隊


  (Comin' for to carry me home! )

  (迎えにきて、わたしを天国へ連れてって)


 ちょうどワンコーラスが流れたあたりで、録音はとまった。

 しかし、それはディスクに傷があるせいなのか、車のオーディオが古すぎるせいなのか、あるいは横合いから別の車が急に突っ込んできたせいなのか、彼らには分からなかった。


 派手にスピンした車をなんとか持ち直して、(元)オペレーターはアクセルを踏み込んだ。

「クソッたれ! もうちょいだってのによ!」


 歪んだフェンダーがタイヤに引っかかり、ひしゃげたバンパーが路面を擦って、セダンは不格好に蛇行しながらけたたましくクラクションを鳴らして前に並ぶ車の列を押しのけ突き進む。


 彼らはもう、首都の近くまで来ているのだった。


 横合いから突っ込んできたオリーブドラブのジープは一目でそれと分かる掛け値なしの軍用車で、同じような車が前から横から後ろから、何台も現れては彼らのセダンに追い縋る。


 行く手を塞ごうと次々に突っ込んでくるジープをきわどくかわしながら、(元)オペレーターはアクセルをべったり踏み込んで、ハンドルをきる。


 しかし、他の車がカーチェイスに巻き込まれまいと道を開け始めると、もとよりそれほど元気がなかった上コテンパンにへこまされたセダンが、しっかり整備された軍用車に追いつかれるのは時間の問題だった。


 トヨタの旧型セダンは、にわかに隣を追い抜いた一台のジープに横から体当たりを受けて、ボンネットをぐしゃぐしゃに歪ませながら、もはや一歩も動けないというふうに路肩に乗り上げた。

 この一撃で完全に身体機能を失ったセダンは、残されたなけなしの命を、オーディオに注ぐことに決めたらしかった。機械が今際の際に声を漏らすとしたらこんなふうだろうな、という雑音が、しかし最期になにか言い残そうと、スピーカーから力なく漏れる。


 小銃を構えた何人もの兵隊が、死にかけのセダンを包囲した。

「俺が言うまで、車から出るなよ」

(元)オペレーターはそうつぶやいて、運転席を降りて両手を頭の後ろに組んだ。兵士が二人がかりで彼を車体に押しつける。


「車内を検索しろ」

 遠巻きに眺めていた軍士官かなにか──(元)オペレーターからその階級章は見えなかった──が、落ち着き払った調子で言った。


 命令を受けた中士がドアのレバーを引いた。


「俺の勝ちだ」

(元)オペレーターはほくそ笑み、2人の兵士を振り切ってドアを開けた三下を蹴倒した。「走れ!」


 それは目と鼻の先だった。


 少年は車から飛び出すと、ワケも分からず無我夢中で目の前の門に向かって駆け出した。大人の肩ほど高さのある柵を乗り越え、その向こう側に飛び降りたとき、追い縋ろうとした兵士たちがにわかに態度を翻したのを見て、そこがどこかの国の大使館なのだということに気がついた。


 えもいわれぬ寂しさが、少年を襲った。

 引き返そうと思った。それは昨晩彼が確かに決意したことだった。自分を救うために命を賭けたこの男に、自分も命を賭けて報いるのだ。


 しかし男は、「生きろ!」

 ひしゃげた車のボンネットに押し付けられたまま、少年を拒むように手のひらを向けて、叫んだ。「生きて、俺の姪っ子が弾くピアノを聴け! 絶対にだ!」


 ぐしゃぐしゃになった車の中から、不意に歌が聴こえた。少ししゃがれた女の声で、ゆったりとした、長閑な歌だ。


 If you get there before I do,

 もし君がわたしより先についたら


 Tell all my friends I'm comin' too,

 みんなに伝えておくれ、わたしもすぐに行くと


 Swing low, sweet chariot.

 やさしく揺れて、いとしい幌馬車

 Comin' for to carry me home!

 迎えにきて、わたしを天国へ連れてって


 Swing low, sweet chariot.

 やさしく揺れて、いとしい幌馬車

 Comin' for to carry me home!

 迎えにきて、わたしを天国へ連れてって ──



 制度上の問題がいくつもあって、少年はまず駆け込んだ大使館で1年近く保護された。不自由ではあったが、日に3度も食事ができたし、寝床は柔らかくて暖かかったので、少年はてっきり、自分はうっかり死んでしまって、あっさり天国にたどり着いたのではないかと思った。

 どうやらそうではないらしいと気づいたのは、天国にいるはずの父や母の代わりに、役人らしき人たちが毎日部屋を訪ねてきて、同じようなことを何度も質問したためだった。


 とはいえ彼らは概して親切だったので、彼らの国がちょっとした失言程度で逮捕されるような国ではないと知ると、少年はそこへの移住を希望した。他にどこへ行けばいいか分からなかったし。


 飛行機というものが空を飛んでいるのを何度か見たことはあったけれど、まさか自分がそれに乗るとは夢にも思わなかった。


 案内された空港から、搭乗橋を渡ってそれに乗り込んでいる間も、自分が飛行機に乗っているのだという実感は少しもわかなかった。窓からその翼が見えたことで、かろうじてそれだと認識できただけだ。


 機体がけたたましい唸りをあげて、腹の底にもったりとした重力の抵抗を感じたあと、彼の感じ方としてはとてもゆっくりに思えるのだけれど、しかしぐんぐん眼下の街並みが小さくなっていくのを見るに、それはとてつもないスピードで空へ向かっているらしかった。


 少年は、国境の河を渡った明け方、少しのあいだ一緒に旅をした男とはじめて出会ったあの明け方、空に羽を広げた光の蝶を想った。


 彼を乗せた飛行機は、やがて雲を見下ろすほどの高さにまで達し、窓の外には果ての知れぬ空が、どこまでも青く続いていた。父や母がいる場所は、まだこれよりずっと高く、遠いところにあるのだろうか?


 Swing low, sweet chariot.

 やさしく揺れて、いとしい幌馬車

 Comin' for to carry me home!

 迎えにきて、わたしを天国へ連れてって


 Swing low, sweet chariot.

 やさしく揺れて、いとしい幌馬車

 Comin' for to carry me home!

 迎えにきて、わたしを天国へ連れてって──


 それから、さらに1年が経った。

 移住した先では、D国からの脱国を支援する団体が彼を受け入れて、下宿に住まわせてくれた。決して広くはなかったけれど、雨風をしのげるだけで十分だったし、なにより食事が出たので、少年としてはこれ以上望むものなどなかった。


 といっても、生活は楽ではない。団体もそれほどお金を持っているわけではなかったようなので、少年はかつての逃避行で路銀を稼いだのと同じように、針金でアクセサリーやオモチャを作って路上で売ってみたのだが、その国では路上で店を出すにも手続きが必要だったらしく、警官に見つかっては知らない言葉でこっぴどく叱られる羽目になった。


 そのうち、団体の人たちが彼の商売を知って手を貸してくれるようになり、少年は他人に教えや協力を請うということを、実際的なやり方で学んでいった。下宿に帰ると、食堂のテレビを観て言葉を必死に勉強した。毎日頭がパンパンになるくらい、覚えるべきことはたくさんあったが、彼は下宿の家賃と食費くらいは自分で負担出来るようになった。


 そんなある日、少年が出していた露店に1人の青年──といっても、ずいぶん童顔で自分より少し歳上くらいの子どもに見えた──が目を留めて、少年に声をかけた。

「どれも、すごく素敵だね」


 最初、彼がなにを言っているのか少年にはピンとこなかった。

 言葉が分からなかったのではない。

 少年にとってそれらは日銭を稼ぐ手段にすぎなかったし、人に買ってもらえるようなものを作ることに、毎日とにかく必死だった。

 青年に曖昧な礼をして、下宿へ帰りシャワーを浴びたとき、唐突に、自分はそれらの品物に自らの魂を込めていたのだと気がついた。するとその瞬間、作品一つ一つに彼が込めてきた怒りや恐れや悲しみや喜びや優しさや寂しさが、それらを作っていたときの記憶を通して彼の心に逆流して、彼は、泣くでも笑うでもなく、ただただ混乱してうずくまってしまった。シャワーからとめどなく流れる水でずぶ濡れのまま、押し寄せてくる感情の濁流に身体を丸めて耐えるほかなかった。

 ただそれは、国境の河を越えたあのときに比べて、ずっと温かかった。


 数日後、舞台裏の薄暗がりで、少女は緊張に身をこわばらせていた。ステージから差す光で、胸元のペンダントが、揺れながら、不安げに光った。

 前の子の演奏がもうすぐ終わろうとしている。それ自体は問題ではない。彼女はこれまでもそういう経験をしてきたし、自分の演奏に自信を持っていた。今回もそうだ。


 悲しいことがたくさんあった。怖いことがたくさんあった。どうしてそんな目にあっているのか分からないことばかりだった。だけど優しい人がたくさんいて、わたしをすくいあげてくれた。わたしを可愛がってくれた叔父さんや、このペンダントをくれたピアニストとの思い出が、わたしの心を守ってくれた。

 ピアノを弾いたら、自分の音楽で自分の心が膨らんで、爆発するのではないかと思った。そのことに緊張しているのだ。


 先生が肩を叩いて、こう言った。

「お前は魔法使いだ。お前の心を、お前の魔法で客席に分けてやれ」


 司会の女の人が少女の名前を読み上げて、それから、曲名を告げた。

「『黒人霊歌の主題による子どものための練習曲』より、『スウィング・ロウ、スウィート・チャリオット』作曲、呉島 勇吾──」


 心が飛んでいきそうだ。あの日、手放してしまった風船みたいに。

 少女は蝶の形をしたペンダントを強く握って、ステージへと踏み出した。


 それは、少年が旅の終わりに聴いた歌だった。ぐしゃぐしゃに潰れたセダンが最期に聴かせた歌だった。ひとときの間、一緒に旅をした人と、一緒に聴いた歌だった。

 彼が、自分をここまで運んでくれた。命を賭けて。そして今、自分は彼との約束を果たしているのだと確信した。理屈でそう判断したのではない。そんな根拠はどこにもない。ただ、心でそう感じるのだ。


 いくつもの奇跡と、いくつもの意志が、彼を生かした。


 Sometime I'm up, sometimes I'm down,

 嬉しいときもあるし、悲しいときもある


 But still my soul feels heavenly bound.

 だけどわたしの魂は、まだ天国へつながってるって感じるんだ


 Swing low, sweet chariot.

 やさしく揺れて、いとしい幌馬車

 Comin' for to carry me home!

 迎えにきて、わたしを天国へ連れてって


 Swing low, sweet chariot.

 やさしく揺れて、いとしい幌馬車

 Comin' for to carry me home!

 迎えにきて、わたしを天国へ連れてって ──


 演奏が終わって客席に礼をするとき、少女は客席の最前列で少年が泣いているのに気がついた。

 今がその時だと思った。


 ──あなたが元気を取り戻したら、それを泣いている誰かに分けてあげてくださいね──


 約束を果たすのだ。


 彼女はステージから客席に飛び降りた。そして聴衆のざわめきに目もくれず、首にかけたネックレスをおもむろに外すと、それを少年の首にかけた。


 少年は驚いたように目を丸くして、彼女の顔と、ペンダントトップの小さな蝶のモチーフとを見比べ、震える声を押しつぶすように、「アリガトウ……」とカタコトで言った。


 さて、それからしばらく経ってのことだ。

 とある国で仕事を終えた() 梦蝶(モンディエ)は、ついでの観光で屋台や露店のひしめく夜市に立ち寄ると、粗末な敷物の上に並べて売られていたアクセサリーに目を留め、ネックレスとイヤリングを買った。デザインがすっかり気に入ってしまったので。


 その露店に並ぶアクセサリーは、半分以上が蝶をモチーフにしたものだった。ガラスの羽と金属の翅脈(しみゃく)が、夜の街の雑多な光を照り返して色とりどりに輝く光の蝶だ。


 店を切り盛りしているのは年端もゆかぬ少年で──年齢を確認したわけではないが、少なくとも梦蝶(モンディエ)にはそう見えた──、聞けばそこに並ぶ品はすべて彼が作っているというので驚いた。


 いつかあなたが自分の店を開いたら──、というようなことを梦蝶(モンディエ)は言いかけたが、少年は小さく手を振ってそれを否定した。


「ぼくは、作ったものを売りながら旅をしています。それ自体がぼくの表現なんです」

 そう言った彼は口元に微笑をたたえていたが、梦蝶(モンディエ)には、その微笑が、いくつもの悲しみや寂しさを通して濾過(ろか)された上澄みの一滴に思えてどことなく切なかった。


 客の背中を見送ると、少年は、ふと空を見上げた。

 無数に連なって夜市を照らす提灯(ちょうちん)行燈(あんどん)、街灯やビルのLED看板よりももっと向こうから、こちらを見下ろす視線を、瞬くような間、感じたような気がしたのだ。

「まさかね……」

 誰にともなく呟いて、少年は笑った。


 その上空を、一機の空撮ドローンが通り過ぎていった。


 ビルの屋上からそれを操作していた(現)ドローンオペレーターは、カメラを通して夜市の風景を映すモニターの中に、ふと、懐かしい気配のようなものを感じた。

 通りを行き交う雑踏に、聴こえるはずのない喧騒を聴き、感じるはずのない熱気を感じるように。

 ある旅の思い出が、彼の脳裏をよぎった。

 生命が圧縮し、魂が燃焼するような、ほんのひと月の旅のことが。


「まさかな……」と笑って、(現)オペレーターはくわえていたタバコをステンレスの灰皿に揉み消した。歪な灰皿はコンクリートの床の上で、くわん、くわん、と音をたてた。


 ドローンは夜市の明かりに隠された、夜の真っ暗な闇の中を、ひらひらと飛び去っていった。その機体には蝶のロゴがあしらわれていた。光沢のある何色もの塗料で描かれた、光の蝶だ。


 街の明かりに夜の闇はいっそう暗く、その暗闇の中を行くドローンが少年の目に止まることはなかったし、うごめく無数の点となった人混みの中から(現)オペレーターが少年を見つけ出すこともなかった。


 しかし2人がそれと知らず感じ合った互いの気配は、ほんの束の間、2人の心をあたためた。

 その先の人生でこの2人が出会うことは、ついぞ一度としてなかった。


 () 梦蝶(モンディエ)には知る由もないことだが──

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