Bonus track-8.怪童の足取
【北太平洋上空 ユナイテッド・ブルーム航空5408便 成田空港行】
客室乗務員、北条 巴は、ロサンゼルスから成田へ向かう機内で、1人の少年に目を留めた。
中学校に上がったかどうかという年頃の日本人だ。
シート越しに手を挙げているのが見えたが、近付いてみると、座席のスクリーンで動画を観ながら、そこに映るピアニストの真似をしているのだと気付いた。
スクリーンに映るピアニストが、鍵盤から余韻をつまんで細く引き伸ばすように腕を上げる。ピアニストは鋭い目つきをした男性で、若さと成熟の両立した一瞬の全盛期を謳歌するバレエ・ダンサーのような、たおやかで色気のある仕草だった。
それを真似て、優雅な曲線を描く指先を自ら視線で追うようにしていた少年は、その先で客室乗務員と目が合うと、恥ずかしそうに肩をすくめ、慌ててイヤホンを外した。
「あ、ごめんなさい……CAさんに、用事があったわけじゃなくて……」
「いえ。お飲み物はいかがですか?」
「あ、さっき頂いたものが、まだ残ってるので……」
「かしこまりました。何かありましたら、お声がけくださいね」
会釈をしてその席を離れようとした時、彼の膝の上に開かれたノートが目に入った。
新聞や雑誌、インターネット記事などの切り抜きをびっしり貼り付けたスクラップ・ブックで、ちょうどスクリーンに映るピアニストの記事を集めたものらしかった。
インタビューでの発言は黄色いラインマーカーで強調され、記事のわきには日付やメモが入っていた。単に憧れというよりは、ある種の執拗さを感じる。
『呉島 勇吾』
北条 巴は、その記事にある人物について、世界的に有名な音楽家だというより少しだけ多くのことを知っていたが、特に言及することはなかった。
ドリンクカートのあるギャレーに入ると、彼女はポケットからスマートフォンを取り出し、娘の写真を一目見て、ふぅ、と短いため息をついた。
幼い顔立ちのわりに少し大人びた態度の、しかしどこかアンバランスな感じのするあの少年を見ると、家ではてんで甘えんぼのくせに、外ではヤケに凛として振る舞っていた、学生時代の娘を思い出す。
彼もきっと、家族の元へと帰るのだろう。
機内は間も無く消灯する。
✳︎
【成田空港第1ターミナル 1F 北ウィング到着ロビー】
──お客さまに、迷子のお知らせを申し上げます──
国際線の到着ロビーに、アナウンスが高らかと響き渡った。
「今、『野呂 アキラ』って言わなかった?」
株式会社川久保音楽事務所 経営企画部Webマーケティング課、天野 ミゲルは、そこを行き交う人の群れに注意深く注いでいた視線を外した。
「迷子のお知らせ? ちゃんと聞いてなかったな。彼、中学生だろ? もう『迷子』って歳じゃない」
そう答えたイタリア人ピアニスト、レオポルド・ランベルティーニは、辛抱強く油断のない熟練の狩人のような目つきで往来を見つめている。
「いや彼、だいぶ箱入りだからね。その上、本人がああでしょ? 面倒な予感がするんだけど」
天野はそういう予感を振り払うように、前髪をかき上げた。
「まだ起きていないことに頭を悩ませるのは人生の損失だよ。俺たちにはもっと重要なことがある」
そう言うと、レオは自分の目を指し、「俺の視線の先を見ろ」というふうに、レンタルWi-Fiのカウンターにいる2人組の女性を指した。
ランベルティーニ家に代々伝わるナンパの極意は、それをナンパだと思わせないことだそうである。
たまたま同じ空港に居合わせた男女が、ごく自然なきっかけで会話を交わし、連絡先を交換する。
──自分たちも今、日本に帰って来たところさ。もう住んで長いね。東京? もちろん詳しいよ。案内しようか?──とか、そんな感じに。
仕事の都合とはいえ、せっかく東京まで出てきたのだ。こういう楽しみもなければ。
天野は、事務所所属のピアニストに関する(かもしれない)迷子のお知らせと、視線の先で笑い合っている2人の女性とを秤にかけ、レオの手を軽く叩いた。
「イケてる。気合い入れてこうぜ」
「よし、締まっていこう!」
2人は歩き出した。
結果を言えばコテンパンにフラれたわけであるが、ともあれ2人はそれなりに人生を楽しんでいる。
✳︎
【東北自動車道上り線 白河インターチェンジ付近】
「真樹ちゃん、アキラ警報発令」
カーナビのパネルをタッチしてハンズフリー通話がつながると、間髪入れずに社長の川久保がそう言った。
「社長、アタシの担当ってバカしかいないじゃないですか。年々IQが下がっていくのを肌で感じるんですよね。分かります? この恐怖」
「またぁ。嫌いじゃないくせに」
川久保はからかうように言う。
(ブチ殺されてえのかハゲ)
柴田 真樹は内心そう毒づいてから、ふと『6秒ルール』というのを思い出した。
どんなに激しい怒りも、感情のピークは長くて6秒だという。つまり、その6秒をしのげば、少なくとも衝動的な言動に走ることはない。
社内研修で毎年教わる、アンガーマネジメントの代表的なスキルだ。
6つ数えて、心を鎮める。
1、2、3、4、5、6。
「ブチ殺されてえのかハゲ」
「真樹ちゃん真樹ちゃん、僕、社長。せっかく6秒待ったのに」
「6秒経ったら言っていいんじゃなかったでしたっけ?」
「多分違うね。さておき、野呂 アキラが空港ではぐれたとお母様から連絡があった。本人もそうだが勇吾が心配だ。剣士ちゃんも危険だし。お母様は僕の方でなだめるよ。そっちはよろしく」
通話が切れると、真樹はフロントガラスの向こうに広がる、よく晴れた空を見上げた。
トラブルメーカーを追いかけ回すのにはもってこいの良い日和だ。それが彼女の貴重な休日で、景色を楽しみながら高速を快調に飛ばしていた真っ最中だということを除けば。
視界の端に遠く、真樹のレクサスとは逆の方向へ新幹線が駆けて行った。
野呂 アキラ。13歳。
勇吾を育ての親から事実上買い取って、半年を待たずに持て余しハンガリーへ送った教授(当時は助教授)の息子だが、勇吾のピアノに心酔し、その熱意もあって勇吾は自身の公演の合間を縫って彼にピアノを教えていた。
ところがまた嫌なところが師匠譲りで、行動は無軌道、フラッと居なくなっては周囲を騒がせる。勇吾のようにケンカこそしないが、その分、行動範囲が広く、その上親がそこそこ金持ちで過保護というのだから手に負えない。
那須高原サービスエリアに入ると、真樹は短いため息をつき、電話をかけた。
相手が出るが早いか、端的にたずねる。
「勇吾、今どこにいる?」
「動物園。年間パスを持ってる」と相手は答えた。
「そりゃいい。アキラが空港で消えた。あのガキも檻に入れられねえか飼育員に聞いてくれ」
「帰って来たのか? 予定より早えだろ」
「ああ、コンクールまで一週間きってる。どうする気なんだか。そしてまた、あの母親が過保護な割にヌケてんだよな。わざわざ成田まで迎えに行って、そこで見失った」
「まあ、来るなら俺のところだな」
「そういうことだ。とっ捕まえてくれ」
勇吾は少し間を置いて、それから言った。
「あのなぁ、真樹、いいことを教えてやる。今日は日曜日だ。それも、この仕事をしてたら年に数えるほどしかねえ、日曜の休日」
「それはアタシもだよクソったれ」
「なあ、寧々の休みは土日、祝日しかねえわけ。しかもそれすらザラに潰れる。そこにきて俺はそういう日こそ仕事だろ? それも3年先まで埋まってる。休みが合うのはここしかねえ。いいか。俺は寧々と動物を見る」
「あのガキだって動物だろ。なんならエサもやっとけよ。経費で落としてやるから」
「ダメだ。今日はゾウに乗るから」
「知らねえんだよマジで。ソルトレイクのコンクールをアキラに薦めたのはアンタだ。責任ってやつがあるだろ」
「そこから勝手に帰って来たのは俺の責任じゃねえだろ別に。それに、アイツはコンクールには出るよ。そうじゃねえならそれまでだ。あとは劉にでも言えよ。俺のスタジオの鍵を持ってる」
「ああ、分かったよ」と真樹はそこで引きさがって通話を終えた。
彼女は呉島 勇吾という人間をよく知っている。その妻についても。
これで十分だ。
✳︎
【とある地方都市の中心部、駅前通付近】
駅前の楽器屋で譜面を物色していたカナダ人ピアニスト、ノア・ルブランの元に一本の電話が届いたのは、昼の3時を回った頃だった。
「ハロー、劉。どうした?」
「柴田さんから電話があったんだ」
香港人ピアニスト、劉 皓然は、電話口にも深刻な声色で言う。
ノアは声を低くしながら足早に店を出た。日曜の通りには、多くの人が行き交っている。
「仕事の話?」
「いやそれが、親友の個展に行ってたから出られなかった」
「メッセージは?」
「ない。そこがまたヤバそうなんだよな。柴田さんには日頃の感謝があるから相談には乗りたいんだけど、このあと親友と約束があるんだ」
「なるほど、それでワタシに?」
「ああ。悪いんだけど、連絡してもらえないか?」
「いいよ」とノアは答えた。
彼はあまり物事を深く考えない。
その時々で心にポッと浮かんでくるものこそが『善』であり、それに従って生きることこそが『善く生きる』ということなのだと考えているからだ。
「悪いな。今度なんかオゴるよ」と劉が言うので、ノアは小さく笑った。彼は良い店をたくさん知っている。
「期待してる。早速連絡してみるよ」
ノアはそう言うとすぐに通話を切り、柴田 真樹の番号を呼び出す。
2回のコールで、通話はつながった。
「はい、柴田。どうした?」相手は短くそう言う。
「劉に電話したでしょ? 彼、今出られないらしくてさ、ワタシに連絡がきたんだ。代わりに、力になれればと思って」
「ああ、そういう……」と、真樹は電話口で少し考え込むような間を作った後、こうたずねた。
「勇吾のスタジオの鍵って、誰か持ってない?」
「家にあるよ。何か忘れ物?」
勇吾のスタジオは北区の飲み屋街の裏通りにある。ノアたちの住むシェア・ハウスにはグランド・ピアノがリビングに一つしかないので、劉が強引な交渉の末、合鍵を勝ち取ったのだ。
──才能ある者は社会に還元しなければならない──
これはフランツ・リストの言葉で、リストは後進の音楽家に対して支援を惜しまなかった。
勇吾に才能があるのはこの際認めるとして、ならばその才能は還元されるべきであり、したがって勇吾のものはみんなのものだ。
「おそらく、アキラがそこに向かってる」と、真樹は言った。
「ユーゴは?」
「動物園にいるそうだ」
「どっち側?」
「今のところはまだ外側」
「へぇ意外。いま出先だから、仲間に声をかけるよ。もしかしたら誰かスタジオ使ってるかも」
「そりゃ助かるね。アキラを確保したら連絡くれ」真紀はそう言って通話を切った。
ノアは電話帳を開き、仲間の番号を呼び出した。
その時、駅前通から地下鉄駅へ下る階段の入り口に、見覚えのある少年が通り過ぎた気がした。
が、あくまでそういう気がしただけに過ぎない。
✳︎
【とある地方都市の中心部、地下歩行空間】
韓国人ピアニスト、リー・ソアが、着信を告げる携帯を取ろうとポシェットに視線を移した時、足下に何か落ちているのに気がついた。
ソアはこういうものを素通りするのが嫌いだ。
落とし物なら然るべきところに届けるし、ゴミならゴミ箱に捨てる。
しかしそれ以上に、何か引き寄せられるものがあった。
それは、男性アイドルのトレーディング・カードのようなものだった。写真があって、何かテキストが入っている──それを拾うために屈み込むと、カードに写った人物に気づいて伸ばしかけた手を一瞬止めた。
「え……何コレ……」
思わずそう呟いてから、人目をはばかり口をつぐむ。
──呉島 勇吾だ。
制服のブレザーを着て、こちらを鋭く睨みつけながら、嘲笑うように口角を吊り上げている。
つまり、よりにもよってショパン国際ピアノコンクール優勝前後の呉島 勇吾だ。
急いでそれを拾い上げ、いつの間にか着信の切れたスマートフォンをポシェットからつまみ出す。着信通知はノア・ルブランからだった。
「ハロー、ソア。今どこ?」
変に明るいノアの声に、電話から耳を離す。
「駅前の地下」
「マジ? 近くじゃん──」
ノアはそこからまだ何か言おうとしていたようだったが、リー・ソアは先に質問を差し込んだ。
「ピアニストのトレカってあるの?」
「トレーディング・カードってこと?」
「そう」
「聞いたことないね。ワタシたちオタク・ピアニストの知らないところで、そんなものが出回ってるとは考えにくいけど……」
「『ワタシたち』って、アンタと誰よ」
「ソア。オタバレしたくないならもう少し色々気をつけた方がいいと思うよ」
ソアは釈明を挟もうと口を開きかけたが、途中で思い直して話を戻す。
「今、クレシマ・ユーゴのカード拾ったんだけど。アイドルのトレカみたいなやつ」
電話口から甲高い笑い声が響いた。
「マジで? あいつトレカになってんの?」
「フレーバー・テキストまでついてる」
「読んで読んで!」
大はしゃぎでねだるノアに、ソアは軽く咳払いをして、写真の下に書かれた短い文章を読み上げた。
「俺が気に入らねえヤツぁ、当代最高の若手奏者たちに『悪魔狩り』を期待するといい。ソイツらが端から喰われる様を見せてやる」
「ファーーッ!!」
その声から、大きく口を開けて笑うノアの顔が想像出来た。
「自分の発言が写真と一緒にトレカになるって考えたら、ゾッとするよね」
「今そっち行く。待ってて」
ノアはそう言うと、適当な待ち合わせ場所を指定して通話を切った。
首をかしげながら、再びカードに目をやる。わざわざホログラム加工を施してキラキラ光るように作ってある。テキストのフォントも凝っているし、怪しげなアイドル・ショップに並ぶ、単にブロマイドを切り貼りしただけみたいなカードより格段に作りがいい。
裏面には片側の長辺にピアノの鍵盤をモチーフにした白黒の模様があり、真ん中に悪魔を模ったであろうロゴマーク。その下に、これも凝ったフォントでこう書かれていた。
『Y.K.Collection』
自作のトレーディング・カードであることは明らかだった。
そして、誰の手によるものかも。
──ところで、そもそもノア・ルブランの用件は何だったのだろう?
*
【ある地方都市の北区、地下鉄駅出入口】
「お電話ごめんなさい。今、電車を降りたところでしたの」
中国人ピアニスト李 梦蝶が改札を抜けて折り返しの電話をかけると、ノア・ルブランはコールが鳴るより先に出た。
「ハロー、モンディエ。今どこ?」
「スタジオに行くとこですわ」
「Oh! Jesus!」
ノアの歓声に、モンディエは電話を耳から遠ざけた。
「どうなさいましたの?」と訊ねると、ノアは電話口に少し躊躇して、それから答えた。
「アキラがそこに向かってる。いや、もういるかも」
「なるほど……」モンディエは目を細めた。
その少年が、仲間たちの間で妙に恐れられていることを、モンディエは知っている。
仲間たちは、その少年の持っているある種の『過剰さ』を恐れている。しかしモンディエに言わせれば、その少年が持っている程度の『過剰さ』は、方向こそ違えど彼らも皆持っている。そしてその『過剰さ』こそ、彼らを音楽家たらしめているのだということに気付いていないのだ。その上、自分は普通だと思っているのだから呆れたものである。
「また勝手に抜け出したのね。良いでしょう。ワタクシがとっ捕まえて差し上げますわ」とモンディエは言った。
「ワタシも向かってる。ムチャはしないでね。モンディエは結構、ドジなところがあるからさぁ」
「あら、ワタクシがドジだったことなんて一度もありませんわ」と言って通話を切った拍子に、地上へ出る階段の最後の一段に足を引っ掛け、つまずいた。
アスファルトに膝を擦ってストッキングが破れてしまったが、お気に入りのスカートは無事だ。丁度いい。パンクな気分だったのだから。むしろこれは成功の部類に入る。
軽く膝をほろって、モンディエは歩きだした。
野呂 アキラが呉島 勇吾に弟子入りを志願したのは、呉島が北京で行われたアジア・ツアーの最終公演から帰った空港でのことで、モンディエはその時、通訳として同行していた。
ツアーと言っても、呉島は公演の当日に現地入りし、ピアノを弾いたらその日の内に帰るというのを徹底している。それは業界では有名なことで、彼の公演の情報を知っていれば、どの便で帰るかはある程度予想することができた。
とはいえ、当時8歳の子どもが、親の端末を使って勝手に新幹線のチケットを取り、単身成田空港の到着ロビーで待ち伏せているなどとは、誰にも予想できなかっただろう。
モンディエは、その時の情景を上手く思い出すことができない。しかし、その時2人の間に交わされたやり取りは、何年経っても耳の奥に刻み込まれていた。
税関を抜けて到着ロビーへ出た時、ほとんどそれと同時に駆け寄って来た小さな男の子を、呉島は複雑な表情で見下ろした。彼は、その子のことを知っているみたいだった。
「ボクに、ピアノを教えてください」
少年は挨拶も前置きもなくそう言った。
「お前は俺にはなれない。なるべきでもない」と、呉島は答えた。
「はい。知っています」
「だったら、家に帰って親父にでも習え」
少年は、それをどう表現するか、と少し整理するような間を開けてから、言った。
「頭の中に、音楽が鳴っています。外に出してあげたい」
すると呉島はポケットからスマホを取り出して、住所を検索し、少年に見せた。
今モンディエが向かっているスタジオの住所だった。
「月に1回、一人でここに来れるか?」
「はい! 行きます!」
呉島はそれを聞くと小さくうなずいて、その場で電話をかけた。相手は、公演の残務のために北京に残した、マネージャーの柴田 真樹だった。
「真樹、売るっつってたあの家、やっぱ残すわ。──ああ、ピアノを教える」
通話はそれだけだった。
少年と別れた後、モンディエはひどく取り乱してしまった。
──頭の中に、音楽が鳴っている。外に出してあげたい──
それはモンディエがずっと抱えていて、そしてそのとき持て余していた感覚だった。
彼女が呉島の通訳などに甘んじていたのも、その強烈なスランプのためだ。
李 梦蝶というピアニストは、もともとユニークな楽曲解釈を評価されていた。それは同時に批判を呼ぶものでもあったが、彼女はちっとも気にならなかった。なぜなら、自分の中ではこう鳴っている、という強い確信があったからだ。
ショパン・コンクールの一次審査で、呉島 勇吾はその確信を揺るがした。呉島の鮮烈な演奏は、彼女の中に新しいインスピレーションを植え付け、やがてそこからより多くの音楽が芽吹いた。全身を食い破るようなその内なる音楽をいくらか扱えるようになるまで、この時からさらに1年を要したほどだ。
アキラが初めて呉島の生演奏を聴いたのは5歳のころだという。ショパン国際ピアノコンクールの優勝記念コンサートでのことだ。
大学でピアノを教える教員の息子として生まれた彼は、やはり幼いころからピアノに触れていた。そのキャリアの初期に、呉島の演奏を聴くというのはどういう感じだろう。
そんなことを考えていたせいで、ふと視線を上げるとモンディエは自分が全く知らない通りを歩いていることに気づいた。迷子になった。という言い方もできる。
どこかでガラガラとシャッターの開く音がした。
*
【ある地方都市の北区、飲食店街 ピアノ・スタジオ】
呉島夫妻が到着したのは夕方のことだった。
そこは潰れたピアノバーを上屋ごと居抜きで買い取ったもので、かつて夫の勇吾が、そして世間一般の常識からするとかなり早く結婚した呉島夫妻が、一年ほどともに暮らした家でもあった。
その後、妻である寧々の大学進学に合わせて夫妻は東京へ出たので、ここも売り払われる予定だったが、そうならなかったのは、夫の勇吾がここで月に一度、野呂 アキラにレッスンをつけることになったためである。
そのアキラが、ソルトレイクで行われる国際ジュニアコンクールまで一週間をきったというタイミングで勝手に帰国した旨の連絡が入った。アキラの行動の傾向をよく知っている勇吾の考えでは、このスタジオに来ていることは間違いなかった。しかし夫妻が到着したとき、そこにいたのはテーブルを挟んで向い合う2人、ノア・ルブランとリー・ソアだけだった。
「ワタシのターン!【目覚めの神童ユーゴ】を召喚! ワタシのコントロールする全てのユーゴに攻撃+1/防御+1の修正!」
ノアがそう叫びながら、テーブルにカードを叩きつけると、
「私のターン!【微睡みのユーゴ】を生贄に捧げ、【中指を立てるユーゴ】を召喚! ステージ上で“中指を立てていない”全てのユーゴを破壊する!」
リー・ソアがテーブルの中央にあったカードを一枚脇に寄せ、それがあった場所に手札から別のカードを出してノアの顔色をうかがう。
夫の勇吾はその様子を冷然と見下ろしていた。
なにが起きているのかは分からない。ただ、自分の写真が貼られたカードで2人は戦っていて、そのカード──あるいはそのカードに表象された自分──は、召喚されたり破壊されたり生贄に捧げられたりしているらしい。
「──楽譜カード【マゼッパ】を発動! ステージ上の全てのユーゴに攻撃+2/防御−2の修正!【荒ぶるユーゴ】、【暴論を吐くユーゴ】、【椅子を蹴倒すユーゴ】で攻撃!」
「カウンター! 楽譜カード【ゴリウォーグのケークウォーク】を発動!【蝶タイが結べないユーゴ】を生贄に、【荒ぶるユーゴ】と【暴論を吐くユーゴ】をステージから除外! 【妻の着せ替え人形ユーゴ】で防御!」
「いや、何やってんのマジで……」と漏らして、夫の勇吾はふと気づいた。
──『妻の着せ替え人形』?
勇吾が隣の妻、寧々の顔を覗き込もうとすると、寧々は素早く顔を逸らした。
寧々と服を買いにいくと、決まって次々に運ばれてくるシャツやニットを、次々と試着させられる羽目になる。カードには、その様子をとらえた写真が貼り付けられていた。
自分より頭一つほど背の高い妻を見上げる。
「寧々……お前、加担してんなコレ……」
「実はときどき……アキラくんと写真を交換しておりまして……」と、寧々は目を逸らしたまま呟く。聞けば、寧々が日常の勇吾の写真をアキラに送る代わり、レッスンや舞台裏での勇吾の写真を、アキラから受け取っていたという。「自分の知らないところで仕事に勤しむ夫の姿というのは、また格別の味わいがありまして……いやでも、まさか、こんなことになるとは……」
勇吾は態度を決めかねて「うーん……」とうなった。確かに、自分の夫の写真がカードゲームの素材として使われることを予想できる人間は、この世にそう多くはないだろう。
「【舌を出すユーゴ】を生贄に捧げ──」
夫妻の様子に頓着もせずゲームを続けるノア・ルブランの腕を掴む。
「おい、やめろ。いったん止まれ。生贄に捧げすぎだろ。やべぇ村のシャーマンかよ」
ノアは怯む気色もなく勇吾を睨み返す。
「勝負の邪魔はやめてもらいたいね。デュエリストの血が、ワタシに『戦え』と告げている」
「いや知らねえよ。てか、現在進行形で肖像権をバキバキに侵害されてる俺に向かって、よくその態度でいられんな」
「それはウチらの問題じゃない。決着がつくまで待ってな」とリー・ソアが非難の目を向ける。
「えっ、ちょっと待て、俺が悪いの?」
勇吾が寧々に助けを求めると、彼女は慰めるように言った。
「いろんな考えの人がいるから……」
「それで済む範囲超えてるだろ……」と勇吾は顔をしかめる。なにしろ、『象乗り体験』をキャンセルして駆けつけたのだ。「だいたい、どこ行ったんだよあのガキは」
「ソルトレイクに戻るってよ。もう飛行機乗ったころじゃない?」ノアは何事もないふうでそう言った。
「じゃあ何しに来たんだよクソが!」と勇吾が毒づいたとき、リー・ソアが勇吾の頭上を指した。
その天井には防犯カメラが取り付けられていた。いっとき、この辺りに空き巣が増えたというので、この外国人ピアニストたちが金を出し合って設置したものだ。家主の勇吾に断りもなく。
勇吾がちょうどその意図に気づいた頃合いを見計らってか、リー・ソアはそばにあったバッグからスマートフォンを取り出し、二、三、操作して画面を見せた。そこには、防犯カメラの録画映像が映し出されていた。
勇吾はただでさえ険しい眉間をいっそうひそめて、尋ねた。
「何してんの、これ」
映し出された画面の奥、ピアノのそばに少年がうずくまっている。もっと正確に言うなら、床に膝をつき、トムソン椅子(ピアノ椅子で背もたれのあるタイプのもの)の座面に頬を擦り付けていた。
しばらくして、そこにノア・ルブランとリー・ソアが現れる。野呂 アキラは、そこからさらに3度、椅子の座面に頬ずりをして、億劫そうに立ち上がった。
リー・ソアはそこで再生を止めた。
「なんか、ユーゴのお尻の分子を顔面で吸収するらしいよ。そうすると2人の音楽が生まれるとかいって」
「もう妖怪だろそれは」
げんなりと天井をあおぐ勇吾の隣で、妻の寧々が尋ねた。
「それで、2人はなんてリアクションしたんですか?」
「『そうなんだぁ……』って言ったよね」とノアが答える。
想像してみれば、それ以外に言えることはなさそうだった。
リー・ソアがテーブルに広げたカードを指した。
「クリーチャーカード150種すべてがユーゴっていう狂気のカードゲームを自作してる。愛だね」
「いや普通に気味わりぃんだけど……」と漏らす勇吾の横で、妻の寧々はシャツの裾を引いた。「まあいいや。お前ら帰れもう」
横暴だなんだと抗議する外国人ピアニスト2人を、家主の権限で追い出した。
表に出て彼らを見送ったあと、ふと空を見上げると、街の明かりで星も見えない夜の空を、瞬きながらゆったりと流れていく小さな光が見えた。飛行機の航空灯だろう。
寧々が夫の腕に自分の腕を絡ませた。この妻は夫より随分身長が高く、見ようによっては肩を極めているように見えるかもしれない。
「明日、休み取っちゃった。今日はここ泊まってこうよ」
「ちょうど、俺もそう思ってた」と夫の勇吾がこたえた。
そして、勇吾はアキラに一通のメッセージを送った。
《半年くらい前にスタジオの椅子を買い替えて、俺はまだ使ってない。多分あれを一番使ってるのは劉 皓然だ》
──後日、野呂 アキラはソルトレイクで行われたジーナ・バッカウアー国際ピアノコンクール、ジュニア部門で優勝をおさめた。
特に決め手となったのはシューマンの『ピアノ協奏曲イ短調Op.54』で、ある審査員は次のように選評を述べた。
奏者と作曲者の個性が奇跡的に融合した熱演。第2主題で伴奏に回るピアノのアルペジオは、この曲の隠れた難所であるが、そこでも光る存在感と、音符一つ一つに意識の通った精密な演奏は、師の呉島 勇吾を思わせる。何より驚くべきは、わずか13歳の少年から発せられた、引き裂かれるような悲しみの表現である──





