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Bonus track-7.アナーキー・イン・ザ・JK

 薄暗いホール。

 ステージだけが照らされている。

 フロアはすし詰め。聴衆が肩を揺らし、手を挙げて歓声を送る。

 ステージの中央奥にはターンテーブル。

 その前で睨み合う二人の手にはマイク。


 一方はスキンヘッドにタトゥーを入れた強面(こわもて)で、棘のついた肩パッドがさぞかし似合いそうな大男である。


 そしてその大男を睨み返しているのは、制服姿の小柄な女子高生だった。


 それも、こうしたところに顔を出すような垢抜けた風采(ふうさい)では決してない。

 むしろ三つ編みにした黒い髪は、いつの時代にもそんな流行りはなかったという野暮ったさで、制服のサイズは身体のどの部分にもしっくりきていない。

 それがフリースタイル・バトルのステージに上がって来たというのだから、観客の好奇心も一通りではなかった。


 耳をつんざくスクラッチを鳴らしてDJがレコードを回す。


 腹に響くベースとキックのビートに乗せて、大男がしゃがれた低い声を怒鳴りつけるように浴びせた。

「What’s up? ここは真面目ちゃんの来るとこじゃねえよ お嬢

 けど コレだけは認めてやるぜお前の根性

 だから俺が教えてやるHIPHOPの伝統

 過去のラッパーたちから受け継いだ血統

 背負ってる仲間たちと共闘でガリ勉も容赦なく圧倒

 それが俺のモットー!」

 早口でまくし立てると、大男は女子高生を指差し、観客に向け一層声を張り上げた。

「俺が言ってやるよ 陰気なオンナにハッキリ!

 Bitchに きっちり カタはめる!」


 会場は下卑た歓声に沸く。


 しかし女子高生は冷ややかな嘲笑を浮かべる口元にマイクを近づけるなり、大男に触れるほど近く詰め寄って、怯む気色もなく言葉を並べ始めた。


「『bitch “を” きっちり カタ“に”はめる』だろ先輩

 助詞がおかしいっスね

 女子はそんなんじゃアガんないって分かんない?

 1バース目から失敗?

 雑魚はガリ勉オンナが成敗!」

 女子高生が叫びとともに首を掻っ切るジェスチャーを見せると、客席は一際大きな歓声をあげた。

「てか伝統? 血統? 仲間と共闘?

 心細いならその仲間でも呼びなよ

 アタシは一人だ 来いや! 皆殺しだよ!」


 女子高生の突き上げた中指に、観客は熱狂で応える。


 ──MCあかね。本名、笹森 朱音。


 その野暮ったい風采が物語る通り、学校へ行けば筋金入りの優等生である。


 相手のターンに回ったステージの上で、朱音の脳裏に記憶の断片が取り留めもなくよぎる──


  ◇◇◇


 シャーペンの芯が命を削り、ノートの上に数式をなする。

 またある時は年号を、ある時は古語を、化学式を、英単語を……──


 明かりを消した部屋にデスクライト。ノートと問題集と参考書の世界に自らを閉ざして、ただひたすらシャーペンの芯を文字や記号に変換していく。


 自分という存在が、情報の集積以外の何ものでもないように思える。ただ覚え、ただ吐き出す。

 朱音は、その感覚が嫌いではなかった。

 むしろこの世界が、参考書に記述されるような、すでに確定して、体系化された、完全に計算可能な物事の集合だったとしたら、どれだけ美しいだろうと思う。


 だが、そうではなかった。そうではなかったから、用意された知識をどれだけ頭に詰め込んでも、ちっとも賢くなった気がしないのだ。


 ドアの向こうから声が聴こえる。

 舌打ちをして机の引き出しを開けると、イヤホンを取り出し耳にはめた。


 父親の怒鳴り声はよく響く。

 そしてその妻もまた、よく喚く女だった。


 彼らが罵り合うのは当然のことだ。むしろ罵り合うことができるだけ健全だとさえ言える。

 父の収入や財産は、母がアテにしていたほど彼女を幸せにはしなかったし、一方で母は、父が期待したほど聞き分けの良い女でもなかった。

 彼らは互いに、相手の存在が自身にもたらす利益への期待によってのみ結びついていた。

 だからそのアテが外れた時、不足を補填するだけの価値を互いに見出していないのだ。


 しかし朱音は、それを軽蔑しようとは思わなかった。

 だって、他にどうしろと言うのだ。


 資産を増やし、消費する。彼らはそれ以外に幸福を追求する手段を持たない。

 それは朱音にしたって同じことだった。

 彼らにとっての『金銭』に、試験や通知表の『点数』が代入されているに過ぎない。


 空っぽだ。あまりに空っぽだ。


 だから、シャーペンの芯がノートの上で数式に生まれ変わっていくように、偏差値だの預金残高だの、自分の命を数値に置き換え、見せかけだけでも意味があるように扱わなければ、自分自身の魂の軽さに耐えられないのだ。


 スマートフォンで動画サイトを開くと、検索ボックスに素早く『ピアノ』と打ち込む。画面が変わって縦に並んだサムネイルは、同じピアニストで埋め尽くされていた。


 その内の一つを指先で叩く。

 液晶画面の中で、ピアニストは鍵盤に指を落とした。美しい仕草だと思った。


 朱音はノートと教科書を閉じ、勉強机を離れてベッドに横たわる。


 ピアノの音が、がらんどうの心に響く──


  ◇◇◇


 誰もいない教室が好きだった。


 朝一番に登校して他の生徒が来るまで、教科書もノートも開かずぼんやりとどこでもない場所に視線を投げている時、彼女は一人、時間について、認知について、知性について考える。

 そのほんの短い間だけ、自分という人間が、自分自身の思索の主体であるように思えるのだ。


 しかしその日、彼女の愛する静寂は、教室の戸を開ける音によって早々に破られた。


「あ、笹森さんおはよう」

 その男子生徒はとても自然に言った。まるで家族に言うみたいに力の抜けた挨拶だった。

 男子にしてはどちらかといえば小柄で、丸顔の眉の上に短い前髪が揺れる。


「あ……おはよう、酒井くん。今日は早いね」

 朱音は背を丸めて窓の方に目を逸らした。

 自分の態度に自責の念を感じながら、彼が右隣の席に座るのを待つ。


 しかし酒井の方では彼女のそういう態度をなんとも思っていないふうに、彼女の隣で鞄の中身を机にしまいながら話しかけた。

「そうなんだよ。バイト始めてさあ。新聞配達」


「え、部活もあるのに大変じゃない?」

 朱音がそう訊ねると、酒井はうーん、と少し唸った。


「ばあちゃんに自転車買ってやろうと思って」


「おばあちゃんに? 酒井くんが?」


 どんな理由があれば、彼が祖母に自転車を買うような事になるのか、朱音にはとんと想像ができなかった。


「ばあちゃん自転車パクられてさ」


「盗まれたってこと?」


「そう」と酒井はうなずく。

 しかしそのうなずき方には、本来あるべき憤りみたいなものが含まれていなかった。


 むしろ、その犯罪に強い憤りを感じたのは朱音の方だった。

「私、そういうの許せない。犯人捕まってないの?」


「それが盗難届も出してないんだよね。ばあちゃんが嫌がってさ」


「どうして!?」と思わず前のめりになって、ハッと我に返った。キマリ悪く、浮いた腰を椅子に落ち着ける。


「それがさあ、『誰かが持ってったんなら、その人、自転車なくて困っとったんだろ。役に立ったんならそれでいいし、どっかに捨てられとるようなら人様の邪魔ならんように持って帰ってきたらいい』って言うんだよ」


 それは朱音の価値観の外にある理論だった。そういう考え方もあるのか、とすら思わない。ただただ納得ができなかった。

「盗んだ人は、ちゃんと裁かれるべきだと思う」


「家族もそう言って説得したんだけどさ、全然聞かないわけ。俺もばあちゃんの理屈には納得してないよ。でも、よく考えてみたら俺の納得は別に関係ねえなと思って。俺はばあちゃんに自転車が返ってくればいいわけだし。だから、ちょっとバイトしてばあちゃんに自転車買おうって」


「それで新聞配達を?」


「そう。超朝早くてさぁ。初日でもうヘコたれそう。なんか違うのにすればよかったかな」

 彼は大きな欠伸をする。


「酒井くん、おばあちゃんに似てるね」

 朱音はそう言って笑いながら、内心では自分の誤解を恥じた。

 彼は、「そうしなければいけない」からそうするのではない。ただ純粋に「そうしてあげたい」からそうするのだ。

 だから、彼の振る舞いはいつも気取りがなくて自然なのだ。

 魂の品質が違うと思った。

 朱音は彼のそういうところが好きで、しかしそのことを自覚するほど、ただ誰かが裁かれることを望んでいる自分の卑しさに打ちのめされる。

「私もそんなふうに、自然と人に優しくできたらいいのに……」

 朱音は思わず口からこぼれた本音に顔を歪めて、それから取り繕うように俯いた。


「俺は、あんまり『自分』ってもんがないからなぁ」


「えっ……?」

 ある種の衝撃を覚えて、朱音が彼を見つめた時、不意に教室の戸が開いた。


 雲の切れ間から差した光は、ガラス窓を通して酒井の横顔を淡く照らしていた。


 言いたかった言葉が、教室にこもった空気と一緒に扉の隙間から逃げていった。


  ◇◇◇


 机に影が落ちる。

 窓から射す光は、左隣の女子生徒によって遮られていた。


 篠崎 寧々。

 2年から同じクラスになった剣道部の大将で、身長180センチを優に超える圧倒的な体格とは裏腹に、態度は意外なほど内気で、優しげな童顔の女子である。

 物静かで真面目、定期テストでも常に学年30位以内には位置する秀才で、いかにも朱音とウマが合いそうなものだが、実を言うと朱音はこの女子生徒が苦手だった。


 というのも、彼女は朱音の天敵、ピアニスト呉島 勇吾の恋人であり、それどころかつい先日には17歳にして婚約までしたというのである。


 今よりちょうど1年ほど前、呉島 勇吾がショパン国際ピアノコンクール史上最年少にして日本人初の優勝という快挙を成し遂げたというのは校内で知らぬ者のない話だが、なんでも隣の彼女は、コンクールに臨む彼を追ってワルシャワまで飛んだという。


 朱音にとってこのエピソードは、一見清楚な見た目の女子が裏では複数の男と関係を結んでいた、というのに近い不穏な響きを含んでいるように聞こえる。


 実際、体育の前の更衣室で、彼女がそのブラウスの下に琥珀のネックレスを隠しているのを朱音は確かに見た。これなどは氷山の一角で、ヘソにピアス、脇腹辺りにタトゥーくらい掘られていても不思議ではない。


 そしてこの篠崎 寧々という女には、何か一線を超えた(・・・・・・)女特有の色気と余裕が感じられて、朱音の胸中に得体の知れないザワつきを惹起(じゃっき)するのである。


 しかし一方で、朱音が寧々に感じるザワつきには少なからぬ嫉妬が含まれていることを自覚してもいる。


 世の中には目に見えないランクというのが厳然と存在していて、その道で世界的な活躍をする呉島勇吾という天才は、どう頑張っても一介の女子高生にどうこうできるような存在ではない。

 篠崎 寧々という人もまた剣道ではひとかどの選手だというが、高体連の全国大会と世界的なピアノコンクールではどう考えても釣り合いがとれないだろう。

 しかし、彼女はそういう壁を突き破ったのだ。


 彼女の落とす巨大な影の中で、朱音は自分のちっぽけさに肩をすくめた。


  ◇◇◇


 男子生徒は体育館の壇上に上がると、講演台の前で礼をした。

 それは彼の人生で幾度となく反復され、身に染みついたものであるように、淀みのない動作だった。


 呉島 勇吾。

 昨年のショパン国際ピアノコンクール優勝、その年末には作曲をしたとか、明けた6月にはまた別の大きなコンクールに優勝したとか、そうかと思えばオペラを作曲して指揮まで振ったとか、朱音と同い年の高校生でありながら、まるで異次元の活躍でもてはやされる音楽家である。


 が、朱音の価値観でこの人物を率直に評価するなら『疾風怒涛のクソ人間』としか言いようがなかった。


 入学早々ケンカに明け暮れ、口を開けば罵詈雑言、教師に歯向かい、態度はデカい。腹立たしいこと(おびただ)しい。


 しかしその男が演台に手をついた瞬間、散漫だった生徒たちの意識が、一斉にステージ上へ引き寄せられるのを目の当たりにすると、朱音は彼の能力を認めざるを得なかった。

 身体に染み付いた舞台人としての所作が、聴衆を惹きつけるのだ。


「まず、こういう場をもらっといてなんだけど、俺はこの国の社会について、ここにいる誰よりも分かってねえから、俺の話が何かの参考になるとはあんまり期待しないでほしい。

 ただ、ここの校長は俺の話がみんなの参考になるんじゃねえかって考えてるらしくて、俺は校長にものを教えてもらった恩があるから、参考になるかは知らねえけど俺がこれまで見聞きして感じたことについて話そうと思う」


 朱音は、この呉島 勇吾という男が『恩』という概念を持っていることを意外に思った。

 そしてまた意外なことに、彼の話は驚くほど具体的で要を得ていた。


 前提として、彼の不遇な生い立ちと音楽の才能について、クラシック音楽界の産業構造、その中で彼が生き残るためにしてきたこと──


 その上で呉島はこう言った。

「これは、俺に音楽の才能があったから言えることかも知れねえけど、例えば俺みたいに音楽家になりてえ、あるいは小説家になりてえ、漫画家になりてえ──そういう種類の生き方がしてえと思うなら、そのために周りの人間に何かを要求するのは順序が逆だと思う。先に結果だ。『俺にはこれだけの力がある。だから投資しろ』俺はそれ以外にやり方を知らない」


 どれだけ突っかかってみたところで、結局この男には敵わないのだと思った。

 生まれながらにとんでもない才能を与えられ、壮絶な過去を持ち、音楽に対する狂気的な執着と、不断の努力で自らの不遇を打ち破る。


 自分とは正反対だと思った。

 自分には何もない。何もないから、与えられた指標にすがり、課されたルールにしがみつき、そうでない者を憎んでいる。自分の囚われている構造の外側にいる人間が、憎くて、妬ましくて、仕方がないのだ。


 壇上で呉島は続ける。

「転がり落ちるような感じなんだ。重い荷物を背負って、急な坂道をよじ登ってるように見えるかもしれねえけど、逆だ。もし今やってることが辛くて仕方がねえなら、何か上手く転がっていけるような別のものを探すといいのかもしれない。そういうのって、結局やってみなくちゃ分からねえから、色んなことを試して見るといいんじゃねえのかな。

 俺の場合は音楽だった。ただ、はっきり言って羨むような生き方じゃねえよ。途中でいろんなものを失くしながら、途轍もない速さで深いところに堕ちていく。自分でも止められない。

 だから、失くしたものを一つ一つ拾い上げて、転げ落ちていく俺をつかまえてくれた人のことを、俺は愛してる」


  ◇◇◇


「──っていうような事があったらしくてさぁ。色々考えた結果……まぁ、こうなったんだって」

 酒井は声を張った。


 腹を震わすビートに鮨詰めの観客が揺れ、ステージ上の罵り合いに歓声を送る。


「いやいやいや、ならねえだろこうは。『原因』と『結果』の間がゴッソリ抜けてんだよ」

 呉島 勇吾は顔をしかめて言う。

 クラシックの音楽家である彼の繊細な耳に、ホールの爆音はよほどこたえるのだろう。


 酒井はステージの上に視線を送る。

 8小節のラップを4回ずつ交代で披露し、客の歓声で勝敗を決めるのだと近くの観客から聞いた。

 今は先攻の大男が2回目。

「鬱陶しい」とか「恨みがましい」とか、「MC」にかけてか『シー』で韻を踏み、上から覆い被さるようにして罵る。

 しかし笹森 朱音は一歩も退かず、目も逸らさず、凛と背筋を伸ばして睨み返す。


 手のひらの上で、彼女はマイクをくるりと回転させた。

「おぉ……カッコいい」

 酒井が思わずそう漏らすと、朱音はその一瞬で握ったマイクを口元に構えた。


 化粧などまるでしないのに鮮やかな赤い唇が、木通(あけび)の割れるようにパッと開いた。


「ダサいわ それ全部形容詞 『うれしい』『たのしい』やかましい

 そんなん幼稚園児でも楽勝だし あ、ゴメンこの話難しい?

 アタシが本物のMC Crazyなパンチラインで串刺し

 Wack MCを FUCKする天使! 腐れペテン師に 攻撃開始!」


 酒井にはこの界隈の価値観がよく分からないが、相手を上手く『disった』ということなのだろう。聴衆がこぞって拳を突き上げ沸いた。朱音のラップはビートに乗る。


「なんか アンタ 欺瞞 ばっか Shut the FUCK up!

 ちょっと くらい マジな 言葉 吐きな Motherfucker!

 コイツ 沈む ところ 見たい ヤツは Put your hands up!

 任しといて! 叩き伏せてやるよ on the fuckin’ground!」


 客席を煽る朱音に、観客は熱狂的な歓声を送る。

 隣で勇吾がうなった。

「アイツやべえな。これ即興でやってんだろ? リズムハメまくりじゃねえか」


「俺もびっくりした。やっぱ頭いいよね」


「そしてまた口が悪いな。俺が言うのもなんだけど」


 酒井は声を出して笑った。

「でも俺、彼女のああいう極端で不器用なところが好きなんだ。自分のこと空っぽだと思ってて、必死に足掻いてる」


「空っぽ? ギャグかよ。ギチギチじゃねえか。あんな濃いやつ俺の周りでもそうはいねえよ」


 酒井は愉快そうにうなずく。

 彼らがそうしている間にも、攻守は入れ替わって大男が反撃を始める。


「『助詞がー』『形容詞がー』こうるせえなぁ Square girl!

 ここは学校じゃねえんだ ケツ舐めなガキが!

 これはFreestyle 『自由』こそがルール

 お前が歩いてんのは親の敷いたレール

 本物のMC とか笑わせるぜルーキー!

 俺はアルバム何枚も出してる 来月も出るぜ Check it!

 フロア沸かすステージ! 転がり込むBig money!

 いいか こうやって名乗るんだよ本物のMC!」


「は? 『自由』語ってやることが音源の宣伝ってこれどう?

 履歴書に書いとけ金の亡者 『御社を志望』とか言って死亡してな守銭奴!

 今後のご活躍をお祈り申し上げます お出口はあちらお気をつけてどうぞ

 社会の構造 脱走した妄想 結局金が根拠 資本主義の尺度

 所詮 資本主義の囚人が語る自由

 叩き潰しフロア中みんなカタルシス!

 アタシはアナーキー! 葛藤が生んだルーキー!

 言いたいこと言うわ 隣の席の酒井くんが好きー!」


 会場が爆笑に沸き立つ。

 しかしその笑いの中には、ある種の微笑ましさや親しみ、また固く韻を踏んだ技術に対するリスペクトが含まれていた。


 酒井の隣でも勇吾が腹を抱えて笑っている。

「おい! リリカルに告白されてんぞ。どうすんだよ!」


 酒井はかすかに頬を赤くして微笑む。この薄暗いホールでそのことに気付く者は誰もいない。

「彼女俺たちが来てるって知らないから」


「これで付き合ってねえとか、どうなってんだよ」


「俺たちには、俺たちのリズムとテンポがあるんだよ」


 聴衆の怒号にも似た歓声で大男のラップはかき消され、もうほとんど聴こえない。

 フロアは朱音が支配していた。


「『常識を疑え』とかコスられすぎてそれ自体が常識

 自己言及のパラドクスにもうウンザリなんだ正直

 反抗したつもりでインフルエンサーの言いなり 乱れ狂う風紀

 髪染めてピアスして化粧してイケてるJK?

 ワタシらしく? アナタらしく? うるせえ! 便所の壁にでも貼っとけ!

 自由なんてもんがあるとすればこのステージだけ!

 だから好きにやらしてもらうぜ! クソみたいな習わしひん曲げて!」


 朱音は客席を煽るように掲げた右手の中指を立て、天井を仰ぎ、叫ぶ。

「アナーキー・イン・ザ・JK!」


  ◇◇◇


 彗星のごとく現れた天才MCあかねは、その後いくつかのフリースタイル・バトルで優勝をさらうと、音源をリリースすることもなく霧のようにステージを去った。

 その短いキャリアの中で一度だけ彼女が答えたインタビューによれば、「人の悪口を言うのは悪いことだから」ということである。


 一方、メディアに対する過激な発言で知られるクラシック音楽家の呉島 勇吾が、彼女の活動時期に前後してインタビューに若干韻を踏んで答える場面があったのは、彼女の影響があったのではと一部で囁かれたが、真偽のほどは定かでない。


 さて、彼らが高校を卒業して間もない3月下旬のことである。

 県内にある国立大学の正門をくぐったところに、人集りができていた。

 正面に大きな掲示板が貼り出され、番号が列挙されている。


 そこから少し離れた桜の木の下で、朱音は胸の前に手を組んで祈った。


「笹森さん」

 掲示板の人集りを離れて、こちらへ駆け寄る男子が彼女を呼んだ。


「酒井くん……」と相手の名を呼ぶと、そこから先の言葉に詰まった。


「受かってた!」と彼は答えた。

 薄手のコートを翻して、彼に飛びつく。彼は少し照れくさそうに笑った。「いやぁ、ギリギリだったから、マジで緊張したよ。笹森さんのお陰だわ。勉強教えてくれてありがとう」


「酒井くんが、頑張ったからだよ。一緒の大学に通えて、嬉しい……」と言うと、朱音のまぶたから一粒涙が溢れた。


「俺、なんでも『そこそこでいいや』みたいな、いい加減なヤツだからさぁ。笹森さんがいなかったら頑張れなかったよ」


 朱音は横に首を振る。

「私がいなくても、酒井くんはきっと違う誰かのために頑張れたよ。あなたはそういう人だ。だけど、たまたま私があなたの隣にいられたことが嬉しい」


「そういえば、ラップは? もうやらないの?」


「好きなことと得意なことが違ったっていうか……。大学の学費稼げちゃったし、ずっとあれがやりたかったわけでもなくて。なんかあの時はスッキリしたかったのと、試しにやってみたら言葉がスルスル(・・・・)出てきちゃって、私ってホントつくづく(・・・・)──」

 と言ったところで酒井が噴き出した。

「踏んでる」


「えっ……?」


「でも、実際ビビったよ。ガラの悪い人ばっかでさ」


「あ、でもみんな、舞台裏では結構良い人ばっかりで、競技だって割り切ってるような感じだったから……」


 酒井は口元に微笑みを浮かべたまま、こう言った。

「ねえ、落ち着いたらさ、一緒に住まない? きっと楽しいと思うよ」


 朱音は小さくこくりとうなずいた。


 大学の正門を出たころ、折からの風に桜の花びらがひらりと舞って、

 彼女の肩に落ちた(・・・・・・)

 朱音は生涯あの時の衝動を思い出しては顔を赤らめることになるだろうと思った。

 だが、ともあれ実ったのである。

 彼らの淡い恋は(・・・・)

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― 新着の感想 ―
[良い点] 冒頭のシーン、誰かラップが上手な人にリズムを取って音読して欲しい! あの朱音ちゃんがまさかラップバトルをするなんて、誰も想像できないですよ。 かと思えば、下品で騒然とした雰囲気のシーンか…
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