Bonus track-6. ニナ・ラブレの恋愛観
突然だが、実はライリーのことが好きだ。
フランス人ピアニスト、ニナ・ラブレは人知れず、指先でブラウスの胸のボタンをカリカリと引っ掻いた。
若い男女が同数ずつ同じシェアハウスに暮らしていて、そういうことが起こらない方が不思議なくらいだし、それは誰に文句を言われる筋合いもないことだが、まさか自分が、まさかライリーを、という感じだ。
ニナは背の高い歳上の男が好みだが、ライリーはニナより2つ歳下で、背が低い。活発なスポーツマンが好みだが、ライリーはインドア派の読書家だ。
だが、好きになってしまったものは仕方がない。
きっかけ、というほどのことではないが、彼女は自分が恋に落ちた瞬間を自覚している。そう、それはちょうど、「落ちる」というのにふさわしく、唐突で、急速で、抗いようがなかった。
ライリーはいつも、リビングの隅の方で、もうほとんど彼専用みたいになってしまった一人掛けのソファにかけて、仲間たちのピアノに聴くともなく耳を傾けながら、本を読む。
ある夜、ニナがリビングでドビュッシーの『映像 第1集』をちょうど弾き終えたという時、ライリーが読んでいた本をパタリと閉じて、おもむろに立ち上がり、リビングを出るドアのところで、「おやすみ、ニナ」と言った。
時計は夜の9時ちょうどを指していた。
それだけのことだった。
その一瞬で、ニナはとてつもない激情の渦の中に、真っ逆さまに落ちていったのである。
彼の何もかもが愛おしく思えた。
大人なのに9時に寝るのが可愛い。自分の演奏が終わるまで、待っていたのが嬉しい。夕食が終わるとすぐ風呂に入り、歯を磨くのがいじらしい。規則正しく控えめな足音が心地いい。おやすみの声や、それを言う時の目が優しい。
他にも挙げればキリがない。
とにかく、彼を構成するあらゆる要素を、自分の魂が欲しているのだ。そう自覚した。
ライリー・リー。
身長164.7cm、体重56.8kg(±0.7kg/直近3ヶ月実績)。
アジア系のイギリス人だが、アングロ・サクソン系の血も濃く、色素は薄い。母親はトランペット奏者で、音楽家の家系だが、消防士の父を尊敬している。姉が2人いて、長女は趣味でファゴットを吹く会社員、次女はスポーツを好む昆虫学者だという。
ライリーの生活は規則正しい。
朝7時に起き、歯を磨いて顔を洗うと、コップ1杯の牛乳と、トーストを2枚食べる。
トーストを食べる時には、まず一枚目のパンの角にバターを置き、その角から全体に塗り広げるのだが、この時微妙なグラデーションをつけることを好むようだ。そして2枚目のトーストにはジャムをたっぷりと塗る。このジャムは、決まったメーカーから出ている小さな瓶のもので、イチゴのジャムを使いきったら次はイチジクのジャム、というふうに、4日ごとに替わる。ちなみに今はアプリコットのジャムが2日目だ。
朝食を終えると服を着替え、パジャマと昨日着ていた服、それからシーツや枕カバーなど、寝具周りのものを一緒に洗濯する。
カーテンは週に1回、木曜日に洗う。この仕事は土日が本番で、金曜に前乗りということが多いためだ。そもそもカーテンを毎週洗濯する人間というのは、地球全体で見てもあまり多くはないだろうが。
彼が洗濯機のスイッチを入れるのが9時ころで、それが回っている間、リビングでピアノを弾き始める。
まずピアニストなら誰もが通る教則本、シャルル=ルイ・アノンの『60の練習曲によるヴィルトゥオーゾ・ピアニスト(通称:ハノンピアノ教本)』を、決して速くはないテンポで、メトロノームを使って機械のように正確に弾く。その日の練習課題や自分の調子によって、何番を弾くのか決めているようだが、彼はこれを必ず全ての調に移調して弾く。
これによって、自分の筋肉や関節の調子、テンポ感やリズム感に狂いがないかを点検するようだ。
12の調でこれを弾き終えると、必ずどこか気になる点があるようで、彼はノートにメモをとりながら、気になった部分を重点的に修正する。
そうしている内に、洗濯機がアラームを鳴らすので、彼は一旦ピアノから離れて、洗濯物をカゴに放り込み、天気の良い日は2階のバルコニーに、そうでない日は自分の部屋で、折りたたみ式のランドリーラックに干す。
それが終わると、また練習に戻るのだが、彼は自分の几帳面な性格の弊害も自覚していて、基礎練習に一日費やしてしまうことがないよう、洗濯機の回る時間で基礎練習を制限しているようだ。
ここから仕事やコンクールで演奏する楽曲の練習に入るが、彼の練習は非常に分析的で、演奏というより研究に近い。一曲を通して練習する回数は極端に少なく、各部分を抜き出しながら、いくつかの表現パターンを試し、前後のつながりや全体のバランスを検討する、というようなやり方をする。
また、その曲が作曲された背景に関連する楽曲を少し参考に弾いたりもする。
そして最後に、練習した曲を通しで弾いて、それを終えるのと大体昼の12時ころだ。
昼食は外でとることが多い。特に蕎麦が気に入っているようで、行き先を訊ねると「おソバ」と答えるのが、ニナには可愛く思える。
食事から戻ると部屋のアップライトでまた練習をする。これは主に譜読みが中心で、まだ弾いたことのない新曲や、技術的に難しい部分を練習する。基本的に、その日の午後にアップライトで譜読みした曲を、一晩寝かせて翌日グランドピアノで肉付けするというようなサイクルが出来上がっているらしい。
午後の練習も1、2時間ほどを集中して行うので、彼の練習は遅くとも夕方4時には確実に終わっている。
そのあとはリビングの隅で本を読むのだが、自室に閉じこもった方が集中出来るだろうに、わざわざ騒がしい連中の輪から、つかず離れずの距離に身を置くところを見ると、寂しがり屋な一面もあるのかもしれない。
そういうところが、また、たまらなく可愛いのだ。
ライリーの読む本は、小説であることもあれば、学術書であったり、作曲家の伝記であったりすることもあるが、しいて言えば、やや古い思想書を好む傾向にあるようだ。
彼は、どんなにもっともらしい言説にも必ず誤謬の余地があり、また、どれほど嘘っぱちに見えることにも必ずいくぶんかの真実が含まれていると考える。
ある言説を取り巻く時代を覆っている熱や空気、そういうものから離れた時空にいなければ、その言説を客観的に評価することはできない。つまり、その言説が書かれた同時代人には、そうした誤謬や真実を見破ることは不可能である、というのが彼の考えだ。
したがって、彼は現代について論じるあらゆる思想から距離を置き、歴史の風雪に耐えた過去の賢者たちの思想を道標にして、自分の目で世界を見るのだ、という信念を持っている。
ニナは、彼のそういう知性を心から尊敬している。
一方で、彼はスポーツ全般が苦手なようだ。
今でこそすっかり症状はおさまったようだが、子どものころはひどい喘息だったので、身体を動かして遊ぶ習慣がなかったのだという。
ただ、この頃になって、少しスポーツの喜びにも目覚め始めたようだ。
というのも、お節介焼きの劉 皓然が、「ライリー! お前は少し、身体を動かさないとダメだ!」というようなことを言い出して、仲間たちみんなでバドミントンをしに市民体育館に行ったのだ。
最初のサーブから、ちっともラケットにシャトルを当てられないライリーの面倒をニナがかって出たのだが、持ち前の真面目で論理的な性質もあって、しばらく練習すると、彼も多少なりラリーを続けられるようになった。
みんなほとんど見よう見まねという中で、一人、韓国のリー・ソアがかじっていたそうで、運動神経には割と自信のあるニナと、カナダのノア・ルブランがいくらか健闘したものの、結論を言えば全員コテンパンに負かされたのであるが、この時、ライリーが肩で息をしながら「楽しいね……!」と言って見せた少年のような笑顔が、ニナを更なる恋の深淵に突き落とした。
さて、ニナがライリーのことを好きになったのは、ライリーが図書館で知り合った女子大生に失恋する少し前のことだった。
ニナは、ライリーに対する独占欲が、心の深いところで激しく燃え上がる反面、彼の幸せを願う気持ちも同時に湧き上がって、その狭間で大変苦しんだものだ。
彼が失恋したという報告があった時、ニナはその苦しみから解放されるものと思ったが、実際それは彼女の空頼みに過ぎなかった。
それはライリーにとって、とてもスッキリとした、納得のいく振られ方だったというが、その時彼女を苦しめたものが2つある。
一つには、自分の愛する者を否定されたという感覚である。
ニナが愛してやまない、彼の明晰な知性や、高潔な魂が、別の誰かにとってはそれほど価値のあるものではないと断ぜられたような感覚は、彼女をひどく傷つけた。
また彼女を苦しめたもう一つのものが、ライリーの中に、二度と触れ得ぬ美しい女性の像が、鮮烈に焼き付いたということだ。
彼らは大概、平日の夜にはリビングに揃って夕食をとる。その際、たびたびライリーの恋が話題にのぼり、ライリーはその恋が彼の心に残した痛みも含めて、それがいかに彼にとって尊いものであったかを、祈るように語るのだ。
ニナはそれを想うたび、胸の奥から滲むような、鈍い痛みを感じる。
しかしそれは、きっかけこそ違えど、ライリーの胸の奥にも残された痛みなのだ。
だからニナはこう考える。
愛とは、求めるものではなく、自分の内側から湧き上がり、そして与えるものなのである、と。
ライリー、私は、あなたを幸福にしたいのだ。たとえあなたが、私を選んでくれなくても。
ライリー、私は、あなたに私を捧げたいのだ。たとえあなたの心の中に、他の誰かがいるとしても。
だからあなたのことを、もっと知りたい。あなたが何を好み、何を喜ぶのか。何が嫌いで、何を恐れ、何を愛するのか。
だって、ライリー、あなたのことが、好きなのだから!
あなたの声が好きだ。あなたの仕草が好きだ。あなたの笑顔が、思想が、言葉が、音楽が好きだ。────そして、あなたの立てる静かな寝息や、眠る時には部屋に豆電球を点けるところが好きだ。
ああ、ライリー。ライリー可愛いわ。可愛いわライリー。ライリー、ライリー、ライリー、ライリー、ライリー、ライリー、ライリー、ライリー、ライリー、ライリー、ライリー、ライリー、ライリー…………────
ライリー・リーは、ベッドに横たわって、静かな寝息をたてている。
「あなたが好きよ。ライリー・リー」
彼の寝息に隠れるような、小さな小さな声で、ニナは呟いた。
愛する彼の、ベッドの下で──。





