Bonus track-5.『IN TERRA PAX』
「ナターシャ、あんた、アタシの仕事を手伝う気はないか?」
デザートを食べ終えたあたりで、マネージャーの柴田 真樹が、ほとんどだし抜けにそう言った。
この辺りでは珍しい予約制のロシア料理店で、日本人の舌に合わせたものとみえて祖国の味とはいいにくかったが、それでも彼女の気遣いを感じさせた。
ロシア人ピアニスト、ナターリヤ・ラブロフスカヤは、一瞬、意図を測りかねて眉根を寄せたが、それはほんの、一瞬のことだった。
「私が、マネージャーに?」
とかく忙しい真樹が、わざわざ時間をとって2人きりで食事をしようと誘ってきた時点で、ただならぬ何かを感じてはいたが、そう身構えていたナターシャにさえ、真樹の提案は思いもよらぬものだった。
しかし、自分の置かれた状況を少し振り返れば、彼女の考えを理解することは、そう難しいことでもない。
真樹は言葉を探すような間を置いたが、しかし迷っているようには見えなかった。
「どう手伝ってもらうかは、色々なアイデアがあってまだはっきりとは言えないし、逆にアンタに希望や意見があるなら聞くつもりだ。
ただ、いずれにしても、アンタさえ良けりゃ今のエージェント契約から、雇用契約に切り替えたいと思ってる」
「それは、私のために?」ナターシャは真樹の瞳の色合いを確かめるように見つめた。
「誤解の無いよう言っておくが、アタシはアンタの祖国を否定するつもりはないし、日本がマシだと思ってるわけでもない。ただ、アンタが『そうしたい』と思った時に、『そうできる』条件を揃えておきたいと思ってるだけだ。
『別の選択肢を取り得るということ』アタシは世知辛い世の中を渡っていく上で、常にこれを考えてる」
店の主人は苦労人とみえて、2人の間に漂う沈黙を損なわぬような静かな所作で、ものも言わず空いた皿をさげ、代わりにコーヒーを置いた。
シェア・ハウスではニュース番組の時間になると、決まってカナダのノアがどこからともなくリビングにやって来て、アニメの録画を見始める。
彼女の祖国をまるで『悪の帝国』のように報道している様を見せまいとする、その気遣いが切なかった。
真樹の話も、その延長にある。それも、かなり踏み込んだ、具体的な話と言ってよかった。
『日本』という国に帰化するためには継続して5年、永住権の取得には10年の居住に加え、安定した収入を得ていることが求められ、(他にも要件は数多あるが)就労実績が評価の対象になる。
真樹が言っているのはつまり、そうするにせよ、しないにせよ、実績だけは作っておけということだ。
ピアニストという仕事は本来、安定からは程遠い。今はまだ、事務所のお陰で何とか生活に困らないだけの収入を得られてはいるが、彼女の仕事は目に見えて減っていた。
ロシア人の音楽家が敬遠されていることは明らかだった。それも日本だけではなく、世界中で。
彼女がロシア人であるということそのものが、何か政治的な意味を持っているかのようだ。
事実、何件か名指しのオファーがあって、発注者はいずれも反戦活動の運営者だった。
彼らはナターシャを『祖国の暴挙に翻弄されるピアニスト』という反戦のアイコンとして利用することを思いついたらしかったが、こうした政治色の強いオファーはパスすることで、ナターシャと事務所の意見は一致していた。
彼女はピアニストであって、政治家でも活動家でもないからだ。
そして出演を断られた活動家の中には、SNS上でナターシャを『戦争肯定派』と決めつけて罵る者も少なからずいた。
彼女にとって、そうした連中の態度は、一方的な武力侵攻と本質的には変わりがなかった。
「戦争はいけない」という明快なイデオロギーは、瞬く間に巨大な多数派を作り出した。
しかし、それを主張するためには誰かを傷付けても仕方がないと考える者、同じ考えでない者は糾弾すべきだとさえ考える者、何か大きな不条理と戦う気分を、指先一つでお手軽に楽しんでいる者、そうした者たちの吐く言葉は、むしろ時として、少なくとも実際に命をかけて戦う兵士たちよりも、なお攻撃的で、おぞましく映ることさえあった。
「どうすればいいか、分からないの」
ナターシャは、絞り出すようにそう言った。
真樹はそれに答えず、コーヒーを一口含み、ただ、彼女の言葉の続きを待った。
「両親とは、話が合わなくなってきてる。テレビで流れるニュースの内容が、全然違うから。パパとママは、自分たちの住む街にいつ汚い爆弾が落ちるのかって怯えてる。彼らは西側の報道がフェイク・ニュースだって信じながら、自国の報道も疑ってるの。
日本の報道は、ロシアよりずっと自由だと思う。でも、報道が自由だってことと、それが真実だってこととは一致しないし、私には、何が本当で、何が嘘なのか、判断する力も、材料もない。
私は誰かを否定することで、何かを主張したくはないの。だけど今の状況はそれを許さないし、何の意思も表明せずにいることが正しいとも思えない。
何を信じればいいか、何をすればいいか、どうすれば戦争が終わるのか、何も分からないの。心が引き裂かれそうよ、マキ」
そう言って力なくテーブルに乗せたナターシャの手を、真樹は優しく両手で包んだ。彼女の手は、少し意外なほど柔らかく、温かだった。
「ナターシャ、あんたは音楽家だ。そうある限り、アタシはあんたの仲間だし、仮にそうじゃなくなったとしても、あんたはアタシの大事な友人だよ。他に必要なものはあるか?」
ナターシャは、彼女の手を弱々しく握り返し、笑った。
「私、アンタと付き合えばよかったわ」
「お薦めしないね。男には戻れなくなるぜ」
「もう一軒行こうよ、マキ。まぶたが腫れてちゃ、帰れない」
真樹が会計に立つと、店主の無愛想な声がおぼろげに聴こえた。
「お2人で、500円です。今度、お友だちを連れてまたお越しください」
✳︎
朝方までしこたま飲んで、うつろな意識でシャワーを浴びると、後はどうしたものだか記憶になかった。目覚めた時にはリビングのソファで、しかもあまり人前ですべき服装ではなかった。
下着の上にバスローブを羽織っていることと、仲間たちがほとんど地方で泊まりの仕事だったことが救いだ。
と、不意に人の気配を感じ、ナターシャは慌ててバスローブの前をかき合わせた。
ノア・ルブランが、キッチンで牛乳を飲んでいる。
「見た?」
ナターシャはノアを睨む。
「何が?」
ノアは彼女に背を向けたまま、飲み干したコップを洗う。
「好きな色は?」
「ピンク」
「脳裏に焼き付いてんだろうが! 消せ!」
ノアはそれを全く無視して、ハッと思い出したようにソファへ駆け寄り、詰めて詰めてと手振りをして、テレビのリモコンを掴んだ。
昼のワイドショーが始まる時間だ。
録画一覧を開くと、タイトルの後に『未』と表示された1つ上を再生する。
「それ、1個前じゃないの?」とナターシャがたずねると、ノアはやれやれといったふうに笑った。
「ワタシはね、1話前を復習してから最新話を観るわけ。
前話とのつながりも見えるし、最新話を観たい気持ちが高まるだろ?」
「それは分かんないけどさ……ノア、ありがと」
「何が?」
ノアはとぼけた表情で画面に食い入る。
それは、赤ちゃんみたいな顔をした女子高生たちが、手作りでオペラに挑戦するというような内容だった。誰もがただただ一生懸命で、悪意のようなものがどこにもなかった。
続けざまに2話見終えたころ、内容などほとんど頭に入っていなかったのに、なぜか涙がこぼれた。
「ワタシはカナダ人で、フランス系だけど、先住民に平伏しながら生きていかなきゃいけないとは思わない。
どこの国も最近まで似たようなことして開き直ってるくせに、みんな偉そうなんだよ」
それは暴論といえば暴論だったし、現在起きている戦争を正当化できるようなロジックでもなかった。彼女の抱える問題に、何ら解答をもたらしたわけでもない。しかし少なくとも、被害者にも加害者にもならなくていいと言われているように思えて、少しだけ救われた。
彼女が何か答えようと口を開きかけた時、インターフォンが鳴った。配送業者だった。
玄関に出たノアが、首を傾げながら戻って来て、大きめの封筒をナターシャに差し出した。
「私宛て?」
送り主の名前を見て驚いた。
──Юго Курешима──
「そんな仲良かった?」とノアがあらためて首を傾げる。
「全然? でもこれ──」
「ああ、あいつから送ってくるものなんて、それ以外ない」
乱雑に包みを破ると、中に入っていたものは、やはり譜面だった。
「к Наталье Лавровскае」と書かれた表紙をめくった。
譜面を読みながら、さらに首を傾げた。冒頭は中音域の単音で、何か、不思議なメロディだ。
横からノアが覗きこんで、言った。
「教会旋法だね……」
「ピアノの悪魔が?」
『教会旋法』とは、特にグレゴリオ聖歌の旋律に見られる語法のようなものだ。
ナターシャは、呉島 勇吾が本当に悪魔だと思っているわけではないが、それでもあえて教会旋法を用いて作曲をするというのは信じ難いことだった。
「改宗したんじゃない?」
ノアはそれをグランド・ピアノの譜面台に立てて、ナターシャに弾くよう求めた。
単音の冒頭から、少しずつ音が重なり、速度も徐々に速くなるように指示があった。20小節も弾いたかという辺りで手を止めた。
「いや、初見じゃムリよ。モチーフが多すぎる。それとアンタ、おっぱい覗いてない? ヘンタイ」
バスローブの胸元を隠すナターシャから、ノアはわざとらしく目を逸らした。
「ワタシはこの状況で見ない奴の方がヘンタイだと思うけどね」
ノアは、スマートフォンでその譜面を写真に撮り、仕事で地方に散っている仲間たちへ向けてグループチャットに送った。
ノア
「ユーゴからナターシャに。
謎すぎる!」
すぐに返信がついた。
リー・ソア
「アイツ、既婚者のくせに狙ってんじゃない?
いかがわしいわ!」
レオさま
「ナターシャはセクシーだからね。
無理もない。ちゃんと断りなよ」
りゅう・はおらん
「アイツはクソ野郎だがそれはしない」
梦蝶 ─mondie─
「聴いたことあるフレーズが混ざってますわ』
ニナ・ラブレ
「冒頭はグレゴリオ聖歌?」
それからしばらく沈黙があって、思い出したようにライリーがメッセージを寄越した。そこには音声ファイルが添付されていた。
らぃりぃりぃ@ピアノ大好きイギリスじん
「グレゴリオ聖歌『ミサ通常唱1番』の『グローリア』から
歌詞でいうと『In terra pax』のところだけ切り抜いてる」
ナターシャの脳裏を、1つの予感が走った。
譜面を1ページずつ写真に撮り、仲間たちに送る。
そうする内に、中盤の一節に見覚えのある音型を見つけた。
ハイドンの『天地創造ミサ』から、やはり『グローリア』の「In terra pax」の部分だけが切り取られている。
ぽつり、ぽつりと仲間たちからメッセージが届く。
「15小節目モーツァルトの9番『雀のミサ』」
「23小節目からヘンデルの『グローリア』」
「そこの内声、バッハのロ短調ミサの転回だな」
「ベースがヴィヴァルディの『グローリア』」
「>グローリア
ヴィヴァルディ5曲残ってるから」
「一番有名なやつ。
この調子だとそうじゃないやつも入ってそうだけど」
「ベートーヴェンはどこだ?」
「↑50小節目からミサ・ソレムニス」
「全部『In terra pax』?」
ノアがたずねると、全員が肯定した。
りゅう・はおらん
「変態しか思いつかない作曲法だな。
まあ、あいつにしては、良い贈り物だけど。
ナターシャ、俺たちも同じ気持ちだ」
ナターシャは崩れ落ちるように膝をついた。
呉島 勇吾は音楽史上おびただしい聖歌の中から、「In terra pax」の一節だけを抜き出してつなぎ合わせ、一曲のピアノ音楽に仕上げたのだ。
──IN TERRA PAX(地には平和を)──
最後のページに、便箋が挟まっていることに気がついた。
メッセージは日本語で書かれていた。
────────────────────────────────
曲を書いたから、気に入ったら弾いてくれ。
ちなみに俺は敬虔な無神論者だが、仮に俺の信仰が間違っていて、
いきなり目の前に神とかいう奴が現れたなら、
それはそれとして、こう言ってやるつもりだ。
「全知全能なら、もう少しマシな世界を創れ間抜け」
Gloria in excelsis Deo.
(いと高きところには神に栄光を)
Et “in terra pax” hominibus bonae voluntatis.
(そして、地には善き人々に平和を)
こんなことを二千年も祈らせ続けて、莫大な布施をとっておきながら、
人類史上、地上が一度も平和で満たされたことがないってのはどういうわけだ?
悪魔の俺には知ったことじゃないが、お前ら人間はこの重大な債務不履行を、
いい加減、神から取り立てるべきでは?
────────────────────────────────
ナターシャは短く、しかし声を出して笑った。
「アイツほんと、憎まれ口がピアノより上手いわ」
彼女の肩を心配そうにさすっていたノアにその便箋を渡すと、彼も同じように苦笑した。
「誰にケンカ売ってんだアイツ」
✳︎
薄暗い下手の舞台袖で、ナターシャは声をひそめてつぶやいた。
「音楽は、作曲者の手を離れた」
「ああ」
呉島 勇吾は、背もたれ付きのピアノ椅子に脚を組んでいる。
「大変だったわ。仲間と手分けしてミサ曲集めてさ。この曲の場合、フレーズの区切りを間違えるのは最悪だからね」
「全部分かったか?」
「全部は無理よ。ルネサンスとかバロックの初期とかは資料が少ないし。半分くらいは、文脈で理解するしかなかった」
「まあ、俺たちがバッハやモーツァルトの意図をどれだけ理解してるかだって怪しいもんだ。誤解がかえって良い表現に結びつくこともあるかもしれない。たった1つの正解があるなら、今時、音声データでも繰り返し聴いてりゃいい話だ。ピアニストなんか要らない」
ナターシャはため息をついた。それは安堵や感嘆や共感が混ざり合ったようでもあり、そのどれとも微妙に違うようでもあった。
「それを聞いて安心したわ。私は私の気持ちを、これに乗せて弾く。ユーゴ、私ね──」
「グダグダうるせえよ。黙って弾いてこい」
彼女の言葉を遮って、呉島 勇吾は気だるげに言った。
ナターシャは片眉を跳ね上げて、鼻を鳴らした。
「アンタのこと、ムカつくって言おうとしたのよ」
鼻で笑う彼に背を向け、ナターシャはステージへ向かって踏み出した。
「勇吾、お前なぁ……」
背後に、真樹が勇吾をたしなめるのが聞こえる。
「口に出したら、スッキリしちまうだろ。あいつはピアニストだ」
舞台袖の闇と、ステージの光とを分ける境界を跨ぐ一瞬、彼女は小さくつぶやいた。
「ありがとう」
✳︎
鍵盤に、そっと指を落とした。
石造の聖堂に並んだ聖歌隊の中から、1人のテノールが、小さく、ゆっくりと歌い始める。
「In terra pax(地には平和を)」
それをなぞって、聖歌隊が同じフレーズを斉唱で繰り返す。
おそらく、音楽の起源は歌であったろうと言われる。
人類で初めて歌を歌った人が、どういう気持ちだったかまでは分からない。
しかし、人類が長く、それも途方もなく長く、『祈り』のために歌を歌ったことは知っている。
きっとユダヤ教やキリスト教やイスラム教が現れるよりずっと前から、人類は「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と歌い続けてきたのだ。
彼らが欲していたものは、なんだろう。
きっと、『平和』だ。
「飢えや病や戦争を、私たちから遠ざけてください」
その願いは、現代に暮らす人たちより、よほど切実だったかもしれない。
過去のあらゆる権力者が、「聖なる主」だの「神に栄光」だの「永遠の父」だのと冗長な美辞麗句を並べ、それに自ら真っ先に服従してみせることによって民衆をかしずかせ、神の名の下に自ら欲するところを命じ、民衆の方でもそれを薄々分かっていながら従っていたにせよ、薄皮一枚剥いでみれば、結局人々が祈ったものは、寝食に困らず、病に冒されず、戦の気遣いのないように、ただそれくらいのことなのだ。
金を払いたくて林檎を買う者などそうはいない。林檎がほしくて金を払うのだ。
同じくして、人々は神を讃えたかったのではない。その見返りに平和が欲しくて祈るのだ。
「In terra pax……」
その祈りは次々と現れては消える。
マショー、パレストリーナ、モンテヴェルディ、ヴィヴァルディ、ヘンデル、バッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、リスト、シューマン、ヴェルディ、ブルックナー、プッチーニ、ヤナーチェク、ストラヴィンスキー、ドヴォルザーク……──
過去の偉大な作曲家たちは、長い歴史の中で同じ歌詞に音楽を書いた。
Gloria in excelsis Deo.
Et “in terra pax” hominibus bonae voluntatis.
いと高きところには神に栄光を。
そして、地には善き人々に平和を。
「IN TERRA PAX!」
祈りはやがて、速度と激しさを増しながら、折り重なるように巨大な群衆の叫びとなって、ピアノの天蓋を打ち、ホールに満ちた。
それは平和を唱えるには、あまりに暴力的な叫びだった。
かつて人々は、自らの共同体に平和をもたらすためには、他の共同体を侵害しなければならなかった。
その領域の成員を安定的に賄えるだけの資源を持っていなかったからだ。
平和を得るためには、誰かから奪わなければならない。
技術が発展し、食糧生産は増大し、海をも超えた取引が可能となって、戦争で死ぬ人の数を飽食で死ぬ人の数が上回った現代になっても、我々はまだこのシステムに囚われている。
先進国の大量生産は後進国の搾取によって支えられ、祖国は隣国に攻め入った。
ナターシャは鍵盤を叩きながら、奥歯を噛み締めた。
人間はあまりに多く、世界はあまりに大きく、私はあまりに、無知で、無力で、小さい。
巨大な鎌首をもたげる津波の前に立たされたように、私はなすすべもなく立ち尽くしている。
──だけど、祈ることくらいはできるだろ。
群衆の叫びが、鉄の扉を閉ざすような低音に遮られて止まると、その残響の中に、冒頭のグレゴリオ聖歌が高音で回帰する。
か細い、女の声だ。
「In terra pax……」
戦争を止めることも、貧困を救うことも、病を癒すこともない神に、なぜこれほど長い間、人は祈り続けてきたのか。
きっとそうすること自体が、ほんの束の間、心を救うからだ。
そして私は、音楽家だ。私の祈りは、誰かに届く。
たとえ現実のあらゆる悲劇に無力だとしても、私の祈りは、人の心を救い得る。
「Мир на Земле(地には平和を)」
私は女だ。ロシア人だ。そしてピアニスト、ナターリヤ・ラブロフスカヤだ。
女の歌に寄り添い、支えるように、いくつもの旋律が走る。
「In terra pax」
このフレーズは、1つの音楽を作るにはあまりに短い。
呉島 勇吾は、この後に続く「hominibus bonae voluntatis」つまり「善き人々」まで削ぎ落とした。これを残せば、同じ長さの曲を作るにしても、引用する聖歌の数は三分の一以下で済んだだろう。そこには何らかの意図がある。
それをどう解釈し、そこに何を込めるか、ナターシャは決めていた。
「地には平和を」
たとえそこに生きるのが、私にとって『善き人々』ばかりではなかったとしても。
私から見て悪い人にも、良い人にも、いかなる神を信じる人にも、あるいは神など信じない人にも、資本主義者にも、社会主義者にも、共産主義者にも、全体主義者にも、無政府主義者にも、あるいはいかなる主義も信じない人にも、この世に生きる、あらゆる人に──
何が善で何が悪なのか分からなくても、現実の危険や恐怖から人々を救う手段を持たなくても、戦争を起こしたのが私の祖国で、祈りになんか意味がなくても、それを望んで悪いかよ!
「IN TERRA PAX──……!」
深い残響の中に、彼女は跳ね上げた右手をスッと下ろして、椅子を立った。
満場の客席にため息が漏れたが、視界が滲んで、彼らの表情を読み取ることはできなかった。
涙を零すな。
同情を求めることはピアニストの仕事ではない。
一瞬、会場が揺れたように思った。地鳴りのような歓声と拍手が、一斉に沸き起こったためである。
ナターシャは一度きり、客席に深い礼をして、そのまま舞台袖へと足早に去って行った。
ステージの照明から逃れると、途端に膝の力が抜けて、そのままうずくまりそうになったところを支えたのは、ノア・ルブランだった。
「ブラボー。ナターシャ」
仲間たちが寄り集まって、代わる代わるに彼女を抱きしめた。
その肩越しに、柴田 真樹の姿が見えた。
「ナターシャ、良かったよ」
「真樹、手伝って欲しいことがあるの」とナターシャは言った。
真樹はゆっくりとうなずいた。
「社長の川久保から伝言を預かってる。
『我々の仕事は、あなたの演奏活動を全力でバックアップすることです。それが、いかなる場所で、いかなる困難を伴うものであっても』」
「それが、お金にならなくても?」ナターシャは尋ねる。
「見くびるなよ。アタシはプロだ。善意と感動だけじゃ食っていけねえなら、世の中が少しだけ良くなりそうな物事を金に代える。それが善い商売ってやつだろ」
ノア・ルブランは彼女の手を握った。
「みんなで話し合ったんだ。ワタシたちも、協力する」
「何をやるかも言ってないのに?」
「分かるさ。仲間だろ?」
✳︎
世界に散らばる紛争地帯に『悲しみの聖母』が現れてピアノを弾く──
紛争地帯を取材するジャーナリストたちの間で、それは噂というよりももう少し、現実味のある話題だった。
事実彼女が現れ、ピアノを弾いたということは、何人もの記者が記事にしていたし、映像も残されている。
彼女はSNS上で、紛争地帯にあって演奏可能なピアノの情報を広く集めていた。
集会所や学校、廃屋に残されたピアノの写真を、位置情報と撮影期日の分かるデータで送ると、そこへ来てピアノを弾いてくれるという。
もちろん全てのジャーナリストが彼女に賛同したわけではないが、深く共感する者は彼女の入国やその他の手続き、あるいは手続きを避けてその地域へ彼女が訪れることを支援した。
ピアノの状態は良いものの方が少なかったし、現地の住民も彼女を歓迎するとは限らなかった。罵られたり、石を投げられたことさえあるという。
ただ、彼女の弾いたピアノが、多くの人々の、擦り切れそうな心をほんの束の間癒したことだけは確かだった。
彼女はピアノを弾き終えると、必ずその土地の言語で、ピアノの側にメッセージを書いた。
──地には平和を──
今も世界中の、決して少なくない地域で、終わりの知れない紛争は続いている。
しかしその言葉は、世界中のあらゆる場所に刻まれている。





