Bonus track-4.レオポルド・ランベルティーニの華麗なる失恋
生まれ育ったベネツィアの、休日の朝が好きだった。
目覚め始めたサンマルコ広場を、ちらほらと人が行き交う。まだ、店はどこも入り口を閉ざして、息をひそめている。その感じが、何かこれから起きる楽しいことを秘密にしているみたいでワクワクするのだ。
アドリア海の潮の香りを思い浮かべながら、レオポルド・ランベルティーニは閉じていた目蓋を開いた。
白のレクサスは夕暮れの首都高を快調に飛ばしていたが、後部座席からミラー越しに見るドライバーの表情は複雑だった。
まるで「良いニュースと悪いニュース、それからカルガモの親子のニュースがある」とでもいった面差しだ。
彼女は眉間にシワを寄せてため息をついた。
「アタシはタレント事務所のマネージャーになった覚えはないんだけどね」
テレビの収録1本と、雑誌の撮影を3件こなした後だった。
ナルシストだと思われてもいけないのでわざわざ口外はしないが、レオは自分をスマートに見せることが得意だ。その自覚がある。
日本に来て間も無く、テレビや雑誌のオファーが入ると、今やそうした芸能活動のギャラは、演奏で得る収入を上回っていた。
「俺たち8人の中じゃ、一番会社に貢献してるつもりだけどね」
彼はそうした仕事も全て事務所を通している。何せ商習慣が違うので、イタリア人が全て自分で対応するのは無理があったし、スケジュール管理も一本化した方がお互い都合がいい。
「アンタがそれでいいならいいけどさ」
「ピアノだけが人生じゃない」
ある地方都市の郊外で、シェア・ハウスに暮らしている8人のピアニストには、『呉島 勇吾』という天才に叩きのめされたという共通項があった。
しかしその中でレオだけは、ある一点において他とは事情が違った。
コンクールには年齢制限がある。ショパン国際は30歳が上限で、開催は5年に一度。
当時26歳だったレオは、あの時、ショパン国際ピアノコンクールというチャンスを、永遠に失った。
もちろん、ショパン国際だけがコンクールではない。
実際レオは他にも大小の国際コンクールに出場し、特に、ピアノが現代の形になるまでの過渡期に作られた古楽器──これをピリオド楽器と呼ぶ──を用いて行われるブルージュ国際古楽コンクールでは1位を獲っている。
しかし、歳と共に積み上がっていくキャリアと引き換えに、一方で手から零れていくチャンスを横目にするたび、諦念の誘惑に手を伸ばしかけているのを自覚しては、背中にムカデがのたうつような焦燥を感じるのだった。
「自分で自分を調律出来るヤツしか生きていけない。アタシらがいるのはそういう世界だ」
まるでレオの心中を見透かすように、マネージャーの柴田 真樹は言った。
いつの間にか、レクサスは高速を降り、目的地はすぐそこだった。
「分かってる」
レオは短く言って、それから付け足した。
「何か1つ切っ掛けがあれば、火がつきそうな予感はあるんだ。
例えば、あなたがキスしてくれるとか」
彼女は路肩に車を停めた。
「前歯でジジィのケツ毛が剃れるまで歯ぁ磨いて出直してこい」
短く笑って後部座席のドアを開け、車を降りて「じゃあ、また後で」と彼女を見送る。
街灯の下を歩き出すと、間も無く、通りに黄色い歓声があがった。
✳︎
「おい、イタリア人!」
いつからいたのか、ライリー・リーは通りの向こうからしかめっ面でレオを叱りつけた。
「なんだい? イギリス人」
談笑していた女子大生たちに一人ずつ頬を触れ合わせ、手を振って別れると、レオはその神経質そうな青年を迎え入れるように両腕を広げた。
「マキさんマキさん言ってたかと思ったら、すぐこれだ。呆れるよ」
「君、日本人より日本人っぽいよね。UKだってチークキスくらいするだろ?」
「そんないきなり馴れ馴れしくはしないよ。イタリア人ってみんなそうなの?」
まあまあ、と、なだめすかしながら、彼の肩に腕を回して通りを抜ける。
都内の女子大に2,070席の大ホールがあって、今夜はそこでレオ達8人のコンサートが開かれていた。時間からいって、プログラムはトップバッターの劉 皓然が演奏を終え、2番手のニナ・ラブレあたりだろう。
前半のトリはチャイコフスキー国際2位のナターリヤ・ラヴロフスカヤ、レオの出番はちょうどプログラム後半のトップ、特別に取り寄せたプレイエルの1845年製フォルテピアノのレプリカを弾くことになっている。
後半のトリは、アイルランドのダブリン国際で最近優勝を果たしたこのライリー・リーがつとめる。
そうした中で、レオはこのところ考えることが多くなった。
(ピアニストとして、俺にはまだ“華”が残っているのか?)
目を背けるように、ライリーに話しかける。
「よく誤解されるけど、イタリア人がみんな女タラシってわけじゃない。UKだってみんな紳士じゃないだろ? ただ自分たちに何が期待されるか知ってるだけさ」
「ポーズでやってるってこと?」
レオがそれに答えようと口を開きかけた時、向こうから女性2人組が歩いて来るのが見えたので、すかさず声を掛ける。
「やぁ、君たち、とってもオシャレだね。俺はイタリアのミラノから、隣の彼はイギリスから来たんだけど、この辺でいいお店知らない? 良かったら一杯奢らせてよ」
ライリーが声を上げて、レオの袖を引っ張った。
「おい! イタリア人!」
✳︎
彼らが控え室に入ってしばらくしたころ、急に廊下が騒然としだして、レオとライリーはすぐに事情を察した。
「うーわ、やられた」思わず口からこぼれる。
「同情するよ、レオ」ライリーはレオの肩を叩いた。
激しい言い争いが聴こえる。
マネージャーの柴田 真樹と、そして、呉島 勇吾だ。
「だからこういうサプライズみてえなのは出ねえっつってんだろ!
サムいんだよ! 空気読めねえ奴みてえになんだろうが!」
「てめえが空気読んだことなんか、人生で何回あんだよ! ビビってんのか?
お嫁ちゃんのお陰ですっかり良い子ちゃんになっちゃったんでちゅかねぇ?」
「よっしゃ、てめえもステージ上がれ。2台やんぞコラ。
ボコボコにしてやるよ」
「上等だ。やってみろや!」──
おそらく、前半の終わりか後半の最初、サプライズ・ゲストとして差し込まれるのだろう。いずれにしても、レオの直前だ。通常、こうしたことは聴衆に秘密でも出演者には事前に知らされるものだ。
彼らの所属する事務所というのは、駆け出しとしては破格の条件で安定的に仕事を獲ってくる、かなり優秀なマネジメント事務所ではあったが、たびたびこういうゾッとするような仕掛けを打ってくる。
ライリーが、呆れ半分、困惑半分といった調子でつぶやいた。
「ていうかさぁ、柴田さんもこれ、乗せられてない? 呉島と2台なんてゾッとするよ。アイツ人に合わせられるの?」
レオは胸にザラつくものを感じながら、ため息混じりに言った。
「あいつを転がしてるのはマキさんの方だ。彼女はそれだけユーゴに認められてるんだよ」
ライリーが舌打ちをした。それはとても珍しいことだった。
✳︎
上手舞台袖に、仲間たちが集まっていた。
特に、今演奏を終えたばかりのナターシャは心中穏やかでないだろう。
しかし、レオが「ツイてないね、お互い」と声をかけると、ナターシャは何でもないふうに笑った。
「私はベストを尽くした。後に誰が来ようが、喰われないだけの演奏をしたつもり」
「そのドレス、とても似合ってる」
レオが、ナターシャの真っ赤なドレスを褒めた時、客席から喝采が聴こえた。
釣られるようにステージに目を向け、レオはそのまま釘付けになった。
パン! と頭を叩かれた感触がある。
「なんかムカつくんですけど」
ナターシャが耳元で言った。
「俺の周りには、素敵な女性が多すぎるんだよ」
ステージに響くパンプスの乾いた音が、客席の歓声を裂いた。
黒光りするタイトなマーメイド・ドレスの裾が揺れる。ハイネックの露出の少ないデザインにも関わらず、肩と腰との煽情的なラインが、客席の喝采の色を一瞬で変えた。
「うわ、マジか」と声をあげたのは、カナダのノア・ルブランだった。「シバタさんが1番だ」
それは、呉島 勇吾が伴奏に回るということを意味する。
レオの胸の内側を、ザラザラした何かが撫でていった。
2頭のしなやかで美しい悪魔は、スポットライトを浴びながら、聴衆の魂に舌舐めずりするような冷笑を浮かべ、礼をした。
互いの欠けた部分を埋め合わせるように向かい合ったピアノの下手側に真樹が、上手側に呉島が座る。
2人は一瞬、視線を合わせた。
舞台の全景を映すモニターに、レオは目を移す。
画面の中で、2人は今にも噛み付かんばかりに睨み合っていた。
呉島が短く息を吸い、低音部に重く、硬く、そして驚くほど速く指を走らせる。
セルゲイ・ラフマニノフ『2台ピアノのための組曲 第2番Op.17』
第4楽章「タランテラ」
鋼鉄のような低音が、槌で打つように響く。
その瞬間、レオは呉島が2番に回った理由を理解した。
速度表示はPresto。それも符点2分音符が96拍毎分という速度で、これだけ重量を感じさせる低音が弾けるのは呉島しかいない。
分厚い鋼鉄の鐘を打ったような低音の残響に、真樹の左手が8分の6拍子のステップを艶やかで妖しげに重ねていく。
交互に8分音符を絡め合わせながら熱を増し、スタッカートの歯切れ良い和音を完璧に噛み合わせて上昇音型の頂点に達した時、2人の視線が結ばれた。
分厚い和音の残響の中、2小節間の、しかし一瞬の全休止で、真樹は呉島を睨みつけながら、親指を下に向けて首を掻っ切る。
呉島はそれを嘲笑うように、人差し指をクイっと曲げて挑発する。
2人の声が聞こえるようだった。
──「ブッ殺す!」──
──「来いやぁ!」──
巨獣の嘶きのような呉島の低音を、真樹の鋭い和音が刻む。
目眩のするような8分音符の連なりが、主従を入れ替えながら機械のように精密なリズムで2人の間を往き来した。
「この縦の揃え方、さすが日本人ですわね」
そう呟いた李 梦蝶の口元はわずかに引きつっていた。
「ていうか、いつ練習してたわけ? こんなハマり方、録音でも聴いたことない」
韓国のリー・ソアが呆れたように言う。
音楽の捉え方にはお国柄が出る。例えばフランスの音楽というのはメトロノームにかちかちハメるようなやり方には馴染まない。音の響きを滲ませながら混ぜるように、色彩で捉えるようなところがある。
一方でこのタランテラはリズムの音楽だ。ハマればハマるだけ、輪郭が鮮明になる。
日本人というのは概して神経質なほどリズムに厳格な者が多いが、中でもこの2人の奏者は異常だった。まるで1人の奏者が1つの楽器を操っているような正確さで鍵盤を捉えていく。
まるで同じリズムで呼吸をしているような……──レオはハッとしてモニターを睨む。
同じリズムで、呼吸をしているのだ。
アンサンブルでは要所のタイミングをブレスで合わせる。しかし、この2人はそんなレベルではない。
息を吸う、吐く、その全てのタイミングを共有しているのだ。呉島はそんなことに気を回すタイプではない。真樹だ。それも、おそらく、この1曲のために練習したというのではない、もっと根本的な、言うなら、生活に根ざした……
乾いた笑いが、口をついて出た。
「変態だろ……」
そして、胸の内側を走るザラついた感情について理解した。
嫉妬だ。それも、ただ呉島 勇吾に対してだけではない。柴田 真樹に対しても。
柴田 真樹は彼を想い、彼の生活に根付き、彼の呼吸さえ自分のものにした。
これはもしかすると、レオが彼女に寄せるものとは違うかもしれない。しかし、それを愛というほかに、表す言葉が見つからない。
自分が想いを懸ける女性に、これほどの想いを寄せられる男がいるということ。
他ならぬ呉島 勇吾に、共演者として信頼を得るピアニストがいるということ。
そのことを、奇しくも祖国イタリアの舞曲「タランテラ」で思い知らされたのだ。
レオにはそれが、狂おしいほど妬ましい。
「タランテラ」とは、イタリア南部の町タラントに由来する。
同じ由来を持つ毒蜘蛛タランチュラに咬まれた人は、毒を抜くために激しく踊り続けなければいけなかったとも、また、その猛毒の苦しさに踊り狂って死ぬ様を表現したともいう。
俺にとっては後者だ、とレオは思う。
真樹の冷ややかな同音反復が胸に刺さる。
嫉妬の毒に冒されて、掻きむしりたいほど苦しい。
やがて音楽は熱狂的な和音の連打を経て、湧き上がる聴衆の歓声と共に終止した。
レオは静かに、しかし深く呼吸をした。
絶叫に近い歓声の中、2人の悪魔は立ち上がり、客席に向けて頭を下げた。
そしてレオ達のいる上手の袖に入るなり、罵り合いを始める。
「勇吾てめえ、テンポ上げてんじゃねえよ」
「アンタの腕じゃ、速すぎたか? つか内声聴いてんのかよ。バランス悪い」
「よし、完っ璧キレた。もう1曲やんぞコラ!」
この2人はこうなんだよな……と呆れながら、レオは「真樹さん、真樹さん」となだめるように肩をさすり、「うるせえな、引っ込んで──」と彼女が言いさしたのを遮って、告げた。
「好きなんだ」
「あ?」
まるで時間が止まったように、その場の全員が動きを止めた。
「あなたのことが好きなんだ。真樹さん」
会場に、アナウンスが流れた。
──ただ今より15分間の休憩を頂きます。お席を離れる際は、貴重品をお持ちくださいますよう、お願い申し上げます──
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「いや、バグってるでしょ。タイミングが」
下手の舞台袖に入った時、先にいたライリーが呆れ顔を浮かべていた。
「恋愛はスピードだよ。俺が好きになるくらいの女性なら、当然他にも夢中な男はいる。『あ、マジで好きだな』と思ったら、そこがタイミングなのさ。
自分の気持ちが分かってるのにズルズル後に引き延ばすような奴は、結局自分を守りたいだけだ。そうやってグズグズしてる間に、他の男にさらわれるような間抜けになるのだけはゴメンなんだ俺は」
舞台袖から、ステージを睨む。
その中央に、レプリカではあるが1845年製プレイエルのフォルテピアノが、琥珀色のボディにスポットライトを浴びて輝いている。
「今は目の前の演奏に集中しなよ。こんなこと言いたくないけど、僕、自分以外じゃレオの演奏が一番好きだな。歴史の匂いがする」
「ありがとう、ライリー。俺の女友だちの間じゃ、君、結構人気だよ。『クールで可愛い』って」
「やめてよ。僕、そういうの意識すると、ぎこちなくなるからさ」
レオは短く笑った。
「じゃ、行ってくる」
ステージへ踏み出す。
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女の子たちの黄色い声援に手を振って応えながら、楽器に手を添え、優雅な会釈をした。
フォルテピアノの椅子に腰を下ろすと、近くのスタンドからマイクを引き抜く。
「コンバンワ。私のニホンゴは通じるかな? だいぶ練習したんだけど」
客席に拍手が起きた。
「アリガトウ。さて、『突然ピアノが小ちゃくなっちゃった!』って驚くかもしれないけど、これは1840年代に作られた楽器のレプリカで、ショパンが晩年に使っていたものと同じ型です。
鍵盤は82鍵、今のピアノは88鍵だから、少しだけ少ないね。昔はもっと少なかった。今日は、それがどんな音がするのか聴いて欲しいと思ってます。
どうしてワタシが古い楽器を弾くようになったのかというと、今のピアノであんまり好きじゃなかった曲が、当時の音で聴くと大好きになることがあるからです。
作曲家が本当にイメージしてた音を知らずに、その曲を嫌いになったら残念でしょ?」
客席を見渡した時、真樹の姿を見つけて内心苦笑を浮かべた。
(俺は、こういうタイプじゃなかったんだけどな)
「じゃあ早速、弾いてみましょう。曲は、ショパンの『舟唄』。ワタシの故郷、ベネツィアの、ゴンドラ漕ぎの歌です。
ショパン・コンクールでは、ルドヴィカの舟唄が素晴らしかったね。ユーゴも良かった。ではワタシがあそこで弾いてたらどうだったろう。
きっと、コンクールの副賞に『舟唄賞』が新設されてたと思うよ。『ベストドレッサー賞』もね」
会場に笑いが溢れた。
軽快さこそがレオの信条だ。
勝ち負けにも女にも、執着しない。程よく、陽気に、軽やかに。そういう生き方が好きだし、そういうふうに生きる自分が好きだ。
だけどそれと同じくらい、好きな女の子に振り向いてもらう努力をするのも好きなのだ。
そしてそれと同じくらい、絶望的な強敵に立ち向かい、傷だらけで戦うことも好きなのだ。
鍵盤に指を落とす。現代のモダン・ピアノのように、腕の重さを落とすような力のかけ方はいけない。それより、ずっと繊細に。
生まれ育ったベネツィアの、休日の朝が好きだった。
アドリア海の最深部、ベネツィア湾のラグーナを縦横に走る運河の水面が、朝靄の中に煌めく。
大運河から無数に分かれて入り組んだ運河の迷路で、恋人たちは囁きあう。
ドゥカーレ宮殿からパラッツォ川を渡る「ため息橋」には、その下でキスをすると永遠の愛が約束されるという伝説がある。
しかしショパンとジョルジュ・サンドの愛は永遠ではなかった。
プレイエルの謎めいた響きが、波間を漂う。
マキ、俺と恋をしよう。たとえそれが、永遠じゃなくても。
ユーゴ、もう一度、俺と戦ってくれ。俺は自分にその価値があると、この舟唄で証明するから。
薄くヴェールのかかったような、神秘的な音色で、ゴンドラはゆっくりと運河を滑っていく。
ショパンはプレイエルのフォルテピアノについてこう語ったという。
「私は気分が良くて、自分の求めるものを得るために充分な心身の力があるときは、プレイエルを弾く」
さあ聴いてくれ、俺の舟歌を。
女を愛し、舟唄を歌う。
俺はベネツィアの男だ。
✳︎
「オラ! お客様のお帰りだ! ロビーへ走れ! お見送りをするんだ! キリキリ並べ! 1ミリも列を乱すな!」
舞台裏の廊下で、真樹が檄を飛ばす。
「軍隊かな?」と劉が笑う。
隣にいたノアが愉快そうに相槌を打った。
「レオが突然あんなこと言うから、変な感じになってるね。ショウミなハナシ、あれ、超びっくりしたよ」
「効いてると思う?」レオは誰にともなくそうたずねた。
ニナ・ラブレが難しい顔で唸る。
「どうかしらね。混乱はしてるみたいだけど。恋愛に限って、レオは日頃の行いが悪いのよ」
何か釈然としないものを感じながら、曖昧に返事をしたレオを、背後から真樹が呼び止めた。
「レオ、アンタだけ、ちょっと残ってくれ」
仲間たちが色めき立つ。
「返事が聞けるのかな?」とレオは彼女に微笑みかけた。
真樹は忌々しそうに顔をしかめる。
「仕事の話だバカどもが。ほら、散れ散れ!」
仲間たちが子どものようにはしゃぎながら遠ざかっていくのを見送って、レオは口を開いた。
「俺もちょうど、マキさんに相談があったんだ」
「ピアノの話か?」
レオはにわかに鋭い眼差しで、真樹を正面に見据えた。
「呉島 勇吾を、俺の土俵に引きずり込む」
真樹はうなずいた。
「その件で、勇吾からアンタに伝言がある」
「ユーゴから?」
意外だった。出会った頃から比べれば、あれで大分丸くなったとは思うし、それなりに交流もあるつもりだが、ピアノという世界においては、追いすがれば追いすがるほど遠くなっていくような存在だった。
「ああ。『延長戦だ。ワルシャワで、もう一度血祭りにあげてやる』だそうだ」
「アイツは……」と苦笑いが漏れる。
真樹も同じような苦笑を浮かべていた。
「憎まれ口を叩き続けないとカエルに変身する呪いをかけられてんだよアイツは。
何にしても、お前は勇吾に認められた。再戦だ。『もう一つのショパン・コンクール』で」
それは、レオがやろうとしていたこと、そのものだった。
『ショパン国際ピリオド楽器コンクール』
19世紀のピリオド楽器を用いたコンクールで、年齢制限は35歳が上限となる。
「そこで勝ったら、デートしてよ」とレオは言う。
「勝ってから言え。まったく……アタシの何が、そんなに気に入ったんだか……」
レオは目を丸くする。
「エキゾチックで、チャーミングで、タフでクールでセクシーだ。俺は逆に、あなたを好きにならない理由を聞きたいよ。そんな男がいるならね」
「おいおい、そんな褒めてもお前……なんも出ねえぞ……ったく」と、彼女はハンドバッグから小さな袋を取り出してレオに渡す。「飴ちゃん食えホラ」
レオはそれを受け取ると、笑った。
「ありがとう。ユーゴに言っといてよ。全然別物だぞって。ピリオド楽器で難しいのは練習機の確保だ。勝負はもう始まってる」
「ああ。古楽器の世界じゃ勇吾はチャレンジャーだ。今までとは違う能力が試される。感謝するよ、レオ。これで勇吾はまた、次のステージに昇る」
真樹はそう言うと、彼に背を向け、パンプスのヒールを鳴らして歩き出した。
「マキさん──」
「ま、久々浮いた話で、正直テンション上がったぜ。ちょっとだけな」
振り向きもせず片手をあげた彼女の背中を見送りながら、レオは寂しく笑った。
廊下の角を曲がって彼女が見えなくなった後も、黒いマーメイドドレスの艶やかな後姿が、目に焼き付いて離れなかった。
✳︎
1年後、ショパン国際ピリオド楽器コンクールのファイナル・ステージで、呉島 勇吾は『ピアノ協奏曲第2番』を、ショパン自身がワルシャワ初演で使用した、ブッフホルツのピアノで再現した。
彼は4本のペダルを駆使し、モダン・ピアノでは再現のできない多彩な音色を使い分け、会場を大いに沸かせた。
続いては、レオポルド・ランベルティーニが、『ラ・チ・ダレム変奏曲』を1838年製エラールの煌びやかな音色で快演。
これはモーツァルトのオペラ『ドン・ジョバンニ』から、恋多き男ジョバンニと人妻ツェルリーナが歌う二重唱を、ショパンが変奏曲にしたものだが、イタリア男の面目躍如、大人の色気と喜歌劇らしい陽気さとを軽やかに演じると、客席に向け「お手をどうぞ」と手を差し出して礼をし、聴衆を楽しませた。
演奏後の呉島 勇吾はインタビューに答え、このレオポルド・ランベルティーニの演奏について、少しおどけたようにこう語った。
「諸君、帽子を脱ぎたまえ。天才だ」
それはこの『ラ・チ・ダレム変奏曲』の初演を聴いたシューマンの評論を引用したもので、最大限の賛辞と言ってよかった。
このコンクールの勝敗については、記述を差し控える。それはこの話の本題ではないからだ。
一方、レオポルド・ランベルティーニの恋愛の顛末については、表題の通りである。
呉島 勇吾と共に、このコンクールの受賞記念コンサートで各地を行脚したレオポルド・ランベルティーニは、その千秋楽といえる東京公演で、柴田 真樹と共演して、難曲中の難曲として名高い、フランツ・リストの『ドン・ジョバンニの回想』S.656を2台ピアノで演奏した。
柴田 真樹によると「なんか、微妙に呼吸が合わなかった」そうである。
どうやらこの辺りのことが理由のようだ。





