Bonus track-2.格技室の不動明王と美術室の妖精
この高校の美術室には妖精が住んでいる。
岩城 奈央がこの噂を聞いたのは、3年に進級して間も無くのことだった。
なんでも、小人の作ったような小さな工作が、毎週品を変えてどこかしらに置いてあるというのだ。
最大でも5センチ四方くらいの小さなもので、木々に囲まれた三角屋根の家だったり、ロッキングチェアの置かれた暖炉の部屋だったり、サンドイッチと果物の詰められたバスケットだったりするのだが、そうしたものが、美術室の窓辺や、流し台の下、彫像の陰、黒板のチョーク置きの端に、ちょんと置かれているのである。
これがまた実物をそのまま小さくしたような精巧さで、三角屋根のトタンの端にサビが浮いたり、革張りのソファの表面が少し毛羽立ったり、編み込んだバスケットにささくれがあったりと、目を凝らしてやっと分かるような細部の質感にまでぬかりがない。
これがべらぼうに可愛いというのでちょっとした評判になると、いつしか「初めに見つけた人に幸運が訪れる」となり、果ては「美術室には妖精が住んでいる」となったわけだが、もっとも、これを噂している人たちも、実際に妖精が夜な夜なこうした害のない悪戯をするのだと本心から信じているわけではない。
ただ、何をするより、したことをひけらかす方に重きが置かれるといった風潮を冷笑しつつ、自らまたそうした欲求に抗いがたいということも経験している多くの人たちにとって、これらの作品が、その存在をことさら主張するでもなく、むしろひっそりと物陰に潜んでいるそのいじらしさは、そうした抑えがたい承認欲求やそれを掻き立てる社会に対する、ささやかで可憐な反逆にも見え、またそうした一種のファンタジーに自ら脚色を加えて楽しんでいるというのが実相に近い。
そうした中で、ただ一人、岩城 奈央はこの妖精の正体を知っていた。
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岩城 奈央というのは寺の住職の娘で、寺の敷地内にある庫裏に家族と共に住んでいるのだが、盆暮れ正月、法事法要と何かにつけて来客の多い中、幼い頃から特別仲良くなった1つ歳下の幼なじみがいる。
森野 花という、ずいぶん出来上がった名前で、これが男の子と知るのに相当の期間を要した。
というのも、この奈央というのはかなりの口下手で人見知り、高校に上がった今となっても相当親しくなった者以外には「……っス」というくらいにしか言葉が出ない徹底ぶりだったが、この花という男の子も、また幼い頃から極端に無口だったので、お互い小さな頃から一緒にいながら、ほとんど口をきかずに何年も過ごしてきたのである。
ただこの花という子は不思議な子どもで、歳の割にも背が低く、無口ではあるが、一方で物怖じしない性格らしく、ほとんど毎日のように寺に来ては、セミの抜け殻だの、形のいいドングリだの、色の綺麗な小石だのというものを拾ってきて奈央にくれた。
父の住職が言うには、奈央はその度に、「……ちいさくて、かわいい」と言っていたらしい。
すると花は、そうか、小さいものが好きなのか、とでも思ったのであろう、ナナカマドの実だとか、シーグラスの中でも特別小さいものだとかを余念なく集めては、また奈央に寄越すようになった。
しかしある時、花からもらったものをしまっている土産菓子の缶がいっぱいになると、奈央は「……こんなにたくさんは、もらえないの」と断った。
これが1つの契機になったかどうかは定かでないが、花は以来、ドングリの表面に絵を描くだとか、小さな石をボンドで繋げて家を作るだとかいった具合に、拾ったものに加工を施して寄越すようになった。
今にして思えば、奈央に何かをくれるということは、花の親密さの表現で、ある時点から、ただ拾ったものを寄越すだけではその表現に不足を感じたものと見える。
何にしても、花のミニチュアアートの出発点というのは、どうやらその辺りのことだったようである。
さて、奈央というのは女にしては骨格が大きく、筋肉のつきやすい体質で、小学1年生で剣道を始めるようになると、どんどん身体が大きくなっていった。
身長こそ平均より少し高いといったくらいだが、重量級の柔道選手がそうであるように、無駄な贅肉はほとんどないにも関わらず、横幅と厚みがかなり大きく見える。
思春期に入り始めた頃、このことは口下手で人見知りなことに加えて、奈央の大きな悩みの種となった。
そして一方、身体の小さな花は、幼いころから子ども社会に特有の攻撃性に晒されながら育った。
純朴な農夫というのが都会人の幻想であるように、純粋な子どもというのも大人の幻想であって、子どもの社会は時として、大人の社会よりなお残酷である。
花のように身体の小さい無口な子を虐めたのは、存外地味で、これといって特徴のない子たちだった。
元より身体が大きく、あるいは口が達者だったり、頭が良かったりする子どもたちは、すでに自分たちの世界やコミュニティを持っていて、ことさら自らの地位や肉体の性能について確認する必要がなかった。
つまり花は、そうではなかった子どもたち、身体が強くも、口が達者でも、頭が良くもない子どもたちの、アイデンティティの確認作業、「自分が何者かは分からないが、どうやらこいつよりは強いらしい」という確認作業の道具にされようとしていたのである。
奈央はそこへ、敢然と立ちはだかった。と言っても、すねを蹴ったり、頭を小突いたりする花の同級生の前に、文字通り立ちはだかっただけである。元々口下手で人見知りな彼女は、理を説いて仲裁するでも義憤を叫ぶでもなく、ただ両手両足を大の字に開いて彼らの前に無言で立ちはだかったのだ。
すると元より意気地のない子どもたちである。捨て台詞を吐くでもなく蝿を散らしたように方々へ逃げ去って、しかし追い散らされた蝿がそうするように、ほとぼりが冷めるとまた花に群がっては同じようなことを繰り返すのだった。
その時の花はというと、ごくごく小さな声で「……ありがとう」とだけ言うと、また彼の作った小さな工作を差し出すのである。それは牛乳パックで作った小さな紙細工であったり、木彫りの小さな人形であったりした。
奈央は生まれつき備わった剛健な身体と正義感とによって、ことあるごとにこうした不当な暴力から花を守ってきた。
しかしそれが度重なっていくと、やがてこうした疑義が生じるのであった。
理不尽や不条理に屈してはならず、私たちはそれに敢然と立ち向かわなければならない。
私はそれがために、花を傷つけようとする人たちの前に立ちはだかってきた。しかし、果たして当の本人には、そのつもりがあるのだろうか。
もしかして、私を盾にすることに慣れきって、自分自身が強くある必要はないとタカをくくっているのではあるまいか。そうしてみれば、彼がことあるごとに自分に寄越す小さな工作などというものは、その用心棒としての報酬、いわば賃金のようなものではないのか?
奈央は剛健な肉体でいじめっ子たちの前に立ちはだかる勇気は持っていながら、そうしたことを本人に尋ねる勇気がないのだった。
中学に上がると、花に対する虐めは意外にも影を潜めた。一つには、彼を虐めていた子どもたちが、全く抵抗らしい抵抗をしない彼に飽きてしまったというのが大きな理由だったように思われるが、何より悪党であり続けるということには意外に素質が必要で、幸いにも、花を虐めていた子どもたちには、自分たちのやっていることが薄々悪徳だと気付いていながら、その悪徳をエスカレートさせ続けるだけの素質は持っていなかったのだ。
彼らの態度は、ただ度々花を冷淡に扱ったり、まるで元々虐めの原因は花の方にあったのだと示すように、蔑んだ視線を投げるというくらいのところに落ち着いた。
その頃になると、花からの贈り物はぱったりとやんだ。
ああ、私は役目を終えたのだ、と奈央は思った。
その奈央はというと、2年に上がると剣道部の団体では中堅の位置に落ち着き、無口ではあるが勉強につけスポーツにつけ、確かな実力を持っているというので一目置かれるようになっていたが、それというのも、元を辿れば、歳下とはいえいじめっ子の前に敢然と無言で立ちはだかる姿を何度も目撃され、「これはただ者ではない」という評判が立っていたことから評価の機運が高まったという背景があった。
奈央は【格技室の不動明王】と呼ばれていたそうである。
そしてまた他方で、無視出来ない噂が立ち始めていた。
奈央が剣道部のある男子部員と交際関係にあるというのである。
これは全くの事実無根だったが、奈央はもう花の用心棒を務める必要はなくなっていたし、部活をしている奈央と帰宅部の花とでは生活のリズムが異なっていた。
そこにきて同じ方向に帰る男子部員をわざわざ避ける理由もなく、そしてたまたまその男子部員というのが誰とでも分け隔てなくよく喋る男子だったということもあり、誤解を生んだらしいのだ。
とはいえ、元より話し下手ということを周囲に認知されている奈央に、この噂について直接尋ねる者も多くはなく、数少ない友人にはその件について否定するものの、誤解を解いて回るような勇気も、技術も、奈央は持ってはいなかった。
そうしたある日の放課後のこと。
2年の教室に駆け込んで、奈央を呼ぶ者がある。それも1年生の女生徒だった。
聞けば、花がクラスの男子生徒に掴みかかったというのである。本来であれば学校で起きていることは奈央ではなく教員に報告するのが正しいのだろうが、女生徒もいささか動転していたらしかった。
奈央は駆け出した。
花がどういうつもりで彼女に贈り物をしていたのかを、奈央は知らない。どうしてある時を境にそれをやめたのかも。
これまでどんなに虐められても立ち向かうことのなかった花が、逆に人に掴みかかるとはどういうことか。この女生徒はなぜ教員ではなく自分にそれを伝えたのか──
そういう諸々の疑問が、奈央の口の端からまとめて漏れた。「──どうして」
すると奈央の隣を追いすがる1年生は短く説明した。
かつて花を虐めていた男子生徒が、こう言ったというのだ。
「【不動明王】に彼氏がいるらしいぜ。キモっ!」
それを聞いた瞬間に、花はその男子生徒に掴みかかった。
階段を駆け下りると、1年の教室の前の廊下で、2人の生徒が教員に羽交い締めにされていた。
「てめぇ! マジ何なんだよ!」とかいったことを、一方が喚くと、それに応えるように、もう一方が叫んだ。
それは、奈央が初めて聞いた花の叫びで、また花の怒りだった。
「人が……人を好きなことを笑うな!」
思えば、花が小さな工作を寄越さなくなったのは、奈央と男子部員の交際が囁かれるのと前後してのことだった。
花はきっと、自分のプレゼントが奈央の交際の邪魔になると考えたのだ。
その日、奈央は部活を休み、別室で教員から事情を聴かれる花を待った。おそらく花は、教員が満足するだけのことは話さないだろう。
そしてずいぶん後で、教室から出て来た花と、一緒に帰った。
2人はいつもと同じように、ほとんど口をきかなかったが、奈央は一言だけ、「付き合ってないよ」と言った。
すると花は鞄の中をごそごそやって、それから巾着袋を1つ取り出し、奈央に差し出した。
奈央がそれを受け取って口を開くと、家や、動物や、ケーキ、草木、色んなものが、魔法で縮めて閉じ込めたように、詰め込まれていた。
「……小さくて、可愛い」と奈央は言った。
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奈央が推薦で互恵院学園高校に入学すると、後を追うように、花も互恵院に入学した。花は元々あまり学力の高い方ではなく、私立の進学校である互恵院に入学するためには相当の努力が必要だったはずだが、かなり本腰を入れて勉強したらしかった。
入学してからというもの、奈央は剣道部の朝練と通常の部活動で、相変わらず花とは違うリズムの生活を送っていたが、それでも花は時々小さな工作を奈央に寄越した。
その頃には花の腕前も相当なものになっていて、ミニチュアアートのための特殊な粘土や樹脂、あるいは塗料などというものを巧みに使いこなしているようだった。
ある定期テストの数日前、部活動が停止となるので、奈央は久しぶりに花と一緒に帰った。すると、花は1枚の手紙を差し出して、「家で読んで」と小さな声で言った。
奈央は自宅に帰ると、さっそく花の寄越した手紙を開けた。
──僕は、ナオちゃんが好きです。でも、僕は言葉で説明するのが苦手なので、どういうふうに、どれくらい好きか、明日の朝早く、ナオちゃんの教室の黒板に描きます。ナオちゃん、それを見たら、消してください。恥ずかしいからです──
翌朝、奈央は学校の玄関が開くギリギリの時間を狙って電車に乗った。
学校に着いた時には開いていた玄関を通ると急いで靴を履き替え、階段を駆け上がり、教室のある階まで昇り切る前に、逃げ去って行くような足音が聞こえた。
それを追いかけるが、もう人影も見えなかった。教室の手前から見えた黒板にぎょっとした。
それは、森野 花の世界観だった。
烈々と燃え上がる炎の中で、機械が大量の人間を型枠にはめてはベルトコンベアに押し出している。その先では上手く規格化されたものとそうでないものが仕分けをされて、不良品はただゴミ箱にでも捨てればいいものを、執拗に痛めつけられ、丁寧に中途まで解体されて、しかし不具のまま完成品の群れの中へと押し戻されていく──そういう地獄絵図が、右下の端の方に目も霞むほど小さく描かれ、その先で、両足と片手を失った不良品の1つが残った片手を差し出していた。その手には一輪の薔薇が握られている。
その薔薇から無数の花弁が嵐のように舞い狂って、地獄の炎さえ飲み込むように、画面一杯を埋め尽くしていた。
──世界がどんなに残酷で、僕がどれだけ弱くても、あなたを愛しているのでヘッチャラです──
奈央の目にはそのように映った。
廊下に駆け出し、叫んだ。
「私も、花が好きだ! 花の作ってくれたものが、全部好きだ! もっと、みんなに見せてもいいと思う!」
遠くから、かすかな声が返ってきた。
「……ありがとう」
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花は少し遅れて、美術部に入部した。
以来、この高校の美術室には妖精が住んでいる。





