Bonus track-1.ライリー・リーの散々な一日
ある地方都市の郊外で、8LDKの一戸建てが売りに出ていた。
『8LDK』といえばなかなかの豪邸だが、なかなかの豪邸というのはなかなか買い手のつくものではない。
ましてそれが、しがない地方都市の、どの路線のどの駅からも微妙に遠い、小さな山の麓に突然ドンと建っているようなものとくればなおさらだ。
しかし、そうした立地をかえって有難がる者もいる。
例えば、牧歌的な生活を営む人たちの中でも、特に大麻や芥子といった作物の栽培に従事する人たち、あるいは世界を股にかけるビジネスマンの中でも、特に銃器やコカインといった商品の取引に従事する人たち、それから音楽家だ。
彼らは四六時中楽器の音を鳴らしていなければ気が済まないという意味において、近隣住民にとってみては前述の2つの職種に比べてもなおタチが悪いとさえ言える。
そこである年の10月暮れ、とある音楽事務所の社員が不動産屋を訪れ、交渉の末、社員寮としてこの屋敷を借り上げた。
以来その屋敷には8人の外国人ピアニストが住んでいる。
✳︎
夏の終わりに、せっかちな空が一足早く秋の風を運んできたような、よく晴れた昼下がりのことだ。
フランス人ピアニストのニナ・ラブレが、究極のプレーンオムレツを作るために、完璧に組み上げられた手順を頭の中でなぞりながら、テーブルの端で卵の殻を割った時──
──イタリア人ピアニストのレオポルド・ランベルティーニ(愛称はレオ)は、また別のテーブルの端にあったペンを指先で叩いた。
ペンが空中を綺麗に一回転してレオの手のひらに収まり、彼が譜面のページをめくった時──
──韓国人ピアニストのリー・ソアは、漫画のページをめくった。
「いかがわしい……いかがわしいわ……」
どうして日本という国には、こんないかがわしい本が当たり前に売っているのかしら。
だって、男子生徒が男性教諭を机の上に押し倒してワイシャツのボタンを、男同士で……「アッ!」と声をあげた時──
──「アッ!」リモートで話していた友人が声をあげて、カナダ人ピアニストのノア・ルブランは、パソコンの画面に食い入った。
「なになに、どうした?」
「今、こっちのテレビにユーゴ・クレシマが出てるよ」
「ユーゴ……」その名前が、心の傷跡の未だジュクジュクした部分をざらりと撫でて、口の中にえも言われぬ苦味を感じた時──
──「少し、苦かったデスワ」
中国人ピアニスト李 梦蝶は、自分で淹れた紅茶の苦味に口をすぼめながら、日本語で独りごちた。日本の貴婦人は、語尾に「デスワ」とつけるらしい。
裕福な家庭に生まれながら努力家の彼女は、気品を保つために陰ながら並々ならぬ努力を重ねている。しいて彼女の品位に疑いを向けるとすれば、「デスワ」の前に思いっきり苦い紅茶を噴き出していたことだ。
白いブラウスに無惨なシミが出来ている。「近く、服でも買いに行こうカシラ」とまた日本語で呟いた時──
──ロシア人ピアニスト、ナターリヤ・ラブロフスカヤ(愛称はナターシャ)は、ショッピングに精を出していた。セクシーで品のある服というのはバランスがなかなか難しいが、その境界を攻めるのが好きだ。こういうのは音楽にも似ている。表現はやり過ぎると下品だし、やらな過ぎると伝わらない。
と言えばさも高尚なことを考えているようだが、実のところ、ショパン国際の予備予選に出ている間、モスクワに残した恋人の浮気が発覚、以来少々拗らせていて、世の男性を前屈みにすることに、彼女はやや強い執着を持っていた。
試着室に入り、デザインの気に入ったタイトスカートを履こうとする途中で手が止まった。
「ランニングでも始めようかしら……」彼女がそう呟いた時──
──香港人ピアニスト、劉 皓然は、まさにランニングで汗を流していた。
ショパン国際では呉島 勇吾というピアニストに完膚なきまでに負けた。球技なんかと違って、誰と誰が戦うというものではないが、彼はそう思っている。
その翌年の5月にはチャイコフスキー国際コンクールがあったが、ショパン・コンクールに賭けていた彼は、チャイコフスキー国際にはエントリーしていなかった。呉島 勇吾はこれも獲った。ショパン・コンクールが10月下旬に終わり、年をまたいで5月、わずか半年余りだ。
そればかりではない。呉島はショパン国際の後、1月には自作の協奏曲を初演し、チャイコフスキー国際の直後にはオペラの制作発表があった。ただでさえ短い練習期間を作曲に割いているのだ。
だが、呉島が獲ったのはまだいい。彼を打ちのめしたのは、ロシアのナターシャがチャイコフスキー国際の2位に輝いたことだった。
呉島 勇吾に対して、最も強く対抗心を燃やし、敵意を剥き出しにしていたのは自分だった。その自分が、戦いのリングにさえ上がっていなかったのだ。
「俺は、口だけ野郎だ……!」
まずは体力だ。『ぽっちゃり』などという都合の良いソフトな言い回しはもうやめる。俺はデブだ。まずはそれを認め、戦える身体を作る。
そうしたことを考えながら、彼が図書館の前に通りかかった時──
──イギリス人ピアニスト、ライリー・リーは、その図書館の前で、恋に落ちていた。
そのきっかけといえば、実に陳腐でありふれたものだった。
このライリーという青年は、音楽家であることは元より重篤な活字中毒者で、飯を食う、風呂、トイレに入るといった生活上必要な時間を除けば、たいていがピアノを弾くか本を読むか、あるいはSNSを更新するかのいずれかだった。
本がなければ家電の説明書でも、何ならレシートでもいいから何か読んでいなければ落ちつかないという筋金入りで、それがために、懐にはいつも文庫本を忍ばせている。
音楽家の彼にとって、文学というのは描写や物語の展開を楽しむものであると同時に、言葉のリズムやアクセントを味わうものでもある。
となれば、原語の語感といったものに関心が湧くのも当然のことだ。
それに何より、ライリーは古い紙の匂いが好きだった。真新しい本のインクの匂いも好きだが、図書館の本の匂いには何か世間というものを味わい尽くしたような説得力がある。
そういったわけで、ライリーが図書館に通うようになってしばらく、もうカウンターでの手続きも慣れたつもりだったが、この日はたまたま、貸し出し券の入ったカード入れをカウンターに置き忘れてしまったようだった。
ライリーがそれに気付かず玄関を出た時、わざわざ追いかけて、彼の背に声をかけてくれた者がある。
振り返ったその一瞬のことだった。
長い髪を折りからの風になびかせた女は、みずみずしい唇の間から「忘れものです」とオーボエの音色のような、若々しくも奥行きのある声で言いながら、しかし弓の名手のように鋭い眼光でライリーを射抜いた。
何か一言二言、お礼を言ったと思う。しかし、何と言ったか思い出せない。
視覚も聴覚も嗅覚も目の前の彼女をあらゆる角度から知覚しようと、ライリー自身のことなどそっちのけで一斉に照準を絞って、それ以外のことが上手く意識できなかった。
「日本語、お上手ですね」と彼女は言った。それだけは確かだ。
それにもまた二言三言、挨拶を交わすと、彼女は薄手のカーディガンの裾を翻して、しなやかで強靭な、ことによれば武人さえ彷彿とさせるような、堂々とした足取りで去っていった。
その背中を呆然と見送り、どこかに腰を落ち着けねば……と辺りを見渡して、手頃なベンチを発見したその時──
──「美人だったな」
そのベンチに座っていたリュウ・ハオランは英語で言った。
腰が抜けるほどの驚愕を押し隠し、ライリーは「何が?」とシラをきった。
白いジャージにムッチリした身体を押し込んで、ベンチに背を丸めているリュウは、年明けの日本では至る所で目にした『鏡餅』というやつに似ていた。
「見てたよ。お前、全然こっちに気付かないから」
「図書館に、貸し出し券を忘れてきちゃったんだ。それを届けてくれた」
「親切だな」
「うん……まぁ……」
でも、別にそれだけだ。それ以上のことは何もない、と言うより早く、リュウはベンチから跳ね上がり、駆け出した。
ライリーは慌てて後を追う。
目的は明らかだった。言いふらすつもりだ。
自分以外の7人は、他人の色恋沙汰に首を突っ込むのが大好きだ。タチが悪過ぎる。
アスファルトの歩道を、リュウはゴムボールのように跳ねて行く。
その後ろを必死に追いすがるが、ほとんど運動というものに関心のないライリーの脚では、ちっとも距離が縮まらない。それどころか、どんどん離されて……は、いかない。
慢性的な運動不足に加えて、文庫本の詰まったトートバッグを提げているライリーと同じくらい、リュウの脚も遅いのだ。
自分だけ交通機関を使って先回りするようなことは意味がない。どうせ勝手に喋りだすからだ。屋敷に着く前に、リュウを説得するか、口を封じなければ。
国道に沿って北へ、そのわきを追い抜いて行く路面電車を恨めしく睨み、行き交う人の奇異の視線に顔を伏せ、息を切らしながら、2人はノロノロと遠ざかりも近付きもせず──どれくらいそうしていたものか、やがて2人の歩調さえ完全にユニゾンし、ようやく見えた屋敷の玄関に駆け込んだ時には、2人ともベロベロに疲れ果ててロクに口もきけない有り様だった。
リビングからは、誰が弾いているのか、エリック・サティの『ジュ・トゥ・ヴ』が聴こえる。
「ハハッ……どうだ、ライリー……」
リュウは肩で息をしながら、勝ち誇った顔で言う。
「どうも……何も……先に走り出しただけじゃん……遅いよ、ふつうに……でも、躍動感がすごいんだよ……逆に、どうやってんの、ソレ……」
「ハートで……走るんだよ……」
「それ……速い人が言うことだよ……」
「それは違うぞ、ライリー。俺が『走る』と決めて、走った。だからその行為には、速いとか遅いとか、勝ったとか負けたとかいったことを超越した魂が宿るんだよ。それが、『ハートで走る』ってことだ」
確かに、どうやってその躍動感を生み出しているのかとは聞いたが、何もそれを参考にしようとしたわけではなかったし、そもそもそこに哲学やロジックが存在するなどとは思ってもいなかったライリーからすれば、リュウの助言めいた主張はまったく不要のものだったが、今はそれよりももっと優先されるべきことがあった。
ボクは、彼女とは何もないんだ。たまたま忘れ物を届けてくれただけで、それ以上のことは何も。変に冷やかされたり引っ掻き回されたりしたくないんだよ。
とかいった言葉を頭の中にあらかた並べて、いざそれを口にしようとしたその時──
──「アンタたち、そんなとこで何やってんの?」
不意に開いた玄関のドアから、買い物袋を提げたロシアのナターシャが床に這いつくばる2人を見下ろした。
「ライリーに好きな人が出来たんだ!」
リュウは何の留保も気負いも、確認さえなくそう言った。
「いや……」
ライリーの反論も待たず、ナターシャは玄関にパンプスを脱ぎ捨て、屋敷の廊下を駆け抜けた。
階段の脇の部屋からティーカップを摘んだ中国のリ・モンディエが顔を出す。
「モンディエ! ライリーに好きな子が出来たって!」
モンディエは床に落としたティーカップ(彼女はよくものを落とすので、それはキャンプ用のステンレス製だった)もそのままに階段を駆け上がった。
昇りきったすぐそばから、コードレスのヘッドセットをかけたまま、カナダのノア・ルブランが廊下をうかがう。「なになに? どうしたの?」
「ルブラン! 聴いて下さる? ライリーに好きな方が出来たんですって!」
「マジで?」
ルブランはヘッドセットを外し、モンディエがうなずくのを確認すると、隣の部屋を形だけノックして、返事も待たずに開けた。
「ちょっと! 勝手に開けたらノックの意味がないじゃない!」
韓国のリー・ソアは強く抗議しながら、慌てて布団の中に何かを隠し、イヤホンを片方だけ外す。
布団の間から、男2人が絡み合う漫画雑誌がのぞいていたし、イヤホンからは低い男の声が漏れ聞こえていたが、ルブランは気付かないフリをした。
「とても楽しいニュースがあるんだ。なんと、あのライリーに、好きな子が出来た」
「それは、男? 女?」
不意に真剣な眼をするソアにルブランは少し怯む。
「どうだろう。まだ確認してないけど、どっちだって良いさ」
ソアが階段を駆け下りると、リビングから出てきたのはイタリアのレオだった。
「どうした? ずいぶん騒がしいじゃないか」
「ああ、レオ、聞いて。ライリーに好きな人が出来たんだって。
その人が男か女かはまだ分からないんだけど、私は男の方が、いや、もちろん、精神的な意味でよ? 男性同士の恋愛って差別されるべきじゃないし、むしろ肉体よりも精神的なつながりを……あ、これは当然男性同士の肉体的なつながりを否定するものではなくて、法律できちんと保護されるべきというか、むしろ政策で推進されるべきだとさえ──」
そうまくし立てるソアを遮って、レオは深呼吸を勧める。
「分かった。ソア。落ち着こう。つまり、『ライリーに好きな人が出来た』そういうことだな?」
「そう、そうなのよ。だから私はそれが男性同士の恋愛だとしたらライリーみたいに内気なタイプが逆に攻めっていうのは一周回ってベタだと──」
「OK。分かった。要するに、取っておきのワインを出す時が来たってことだ」
そう言うと、レオはリビングに引き返し、そこで丁度、サティを弾き終えたフランスのニナ・ラブレに向かってこう言った。
「パーティーの準備をしよう」
ヤマハのグランドピアノから指を離したニナが、首をかしげる。
「何の?」
レオは微笑んだ。
「ライリーに、好きな子が出来た」
ニナはピアノの椅子から飛び上がる。
リビングを飛び出し、廊下を抜けて玄関へ走ると、そこに這いつくばっているライリーの前にしゃがむ。
「ライリー、大事な人が出来たのね。おめでとう。取っておきのワインを出すわ」と言った時、廊下の向こうでレオが片眉を跳ね上げた。
「それはもちろん、イタリア産だろうね?」
「あら、美味しいワインが飲みたいわけじゃないの?」
レオは目を細め、口角を吊り上げて笑う。
「へぇ……」
ライリーは乾いた声で笑った。
「もう……いいよ、それで」
✳︎
イタリアのワインとフランスのワイン、果たしてどっちが美味いのか。
というようなことで、レオとニナは真っ向から対立した。
そこにリュウが「ブドウか麦でしか酒を作れない連中が囀るな」とまた余計な横槍を入れると、「フランスにはシードルが」「イタリアにはリモンチェッロが」と議論は横道に逸れながら白熱、「なら酒という酒を飲ませてやる」と、パーティーは準備も何もなく、なし崩し的に始まった。
全く大人げなくて呆れてしまうが、ライリーは少しホッとした。
彼らはまずパーティーがしたいのであって、理由など別に何でも構わないのだ。
「ま、タダ酒にありつけるなら、『世は並べてこともなし』よ」
ナターシャがライリーの隣に座った。
彼の心境を見透かしたように、ロバート・ブラウニングの詩を引用しながら、アルコール度数30度のリモンチェッロをショットグラスであおる。
「加わんなくていいの?『ロシアにはウォッカがある!』って」
「みんな、ロシア人は水みたいにウォッカを飲んでるって思ってんのよね。そんなワケないじゃん。シメに飲むくらいよ。特に女の子は。それでハイになって踊るワケ」
「その『踊る』って感覚、全然分かんないんだよな。あらかじめ振り付けを教わってるわけ?」
「アンタほんとにミュージシャン? 歌と一緒よ。習えば上手くはなるけど、習ってなくちゃ踊っちゃいけないわけじゃない」
「僕はピアニストだ。人前で歌うのだってゾッとするよ。それに僕は、音楽の論理だったところが好きなんだ」
「あぁ、そんな感じするわ」とナターシャは顔をしかめて舌を出す。論理的に音楽をとらえることが気に入らないみたいだ。
「アンタって、恋もそんな感じなの? 好感度に数値があって、一定のレベルを超えたら成立みたいな」
いや……とライリーが口を開きかけると、ナターシャは両手を打って遮り、それに視線を集めた仲間たちに両手を掲げて、指揮者のように注目を促した。
それから、さあどうぞ、と合図をよこす。
「いや、喋りにくくてしょうがないよ」
「なら、俺が喋ろうか?」リュウが割って入った。
「いや、リュウ、引っ込んでて」とソアがそれを遮ると、ライリーの顔を覗き込んだ。「で、相手は女? 男?」
「女の人だよ。でも……」と説明を始める前に歓声が沸く。
あっちこっちでグラスを合わせる音が鳴る。さっきまでワインのことで言い合いしていたニナとレオまで。
「素敵ですわ」モンディエがウットリした顔で呟く。「私、これだけ若い男女が集まって、誰にも恋人がいないのはおかしいと思ってましたの」
「いや、ちょっと待ってよ」とライリーはさっき頭の中で整理した説明を始めた。
「ボクは、彼女とは何ともないんだ。たまたま忘れ物を届けてくれただけで彼女のことを何も知らない。名前さえ。確かに彼女は美人で、親切で、姿勢や仕草も美しいし、それでいてはっきりと自立した意志を持った眼差しをしていて、声も澄んで深くて月夜に湖面を眺めながら、柔らかな風に吹かれるような心地よさも感じたけれども、それ以上のことは────」
「それ以上の、何が必要なんだ?」
レオが、本当に不思議そうな顔で言った。
「いや、だって、おかしいじゃん。お互い何も知らないのに」
「じゃあ、何を知っていればいい?」
「いや、何をっていうか……」
「ライリー、君がその子を好きかどうかが重要なんだ。それ以外には何もない。そうだろ?」
周りがウンウンとうなずいたが、その中で1人、ソアだけはつまらなそうにため息をつきながら言う。
「アンタ、相手とキスできるかどうか考えてるんでしょ。あるいはそれ以上のこと。好きって認めたら相手にそれを迫らなくちゃいけないと思ってるから、そんな簡単なことが認められないのよ。全くいかがわしいわ」
ライリーは確かに、誰かを好きだと認めてしまえば、そこから発生してくる何か具体的な義務のようなものに怯んでいる部分があったかもしれないと反省しないでもなかった。しかし言い方が気に食わない。
「人のことをそんなふうに言うなら、ソアはスマホの画像フォルダをみんなに見せて、自分がいかがわしくない人間だと証明すべきだよ」
「はっ? ワケ分かんないんですけど? え? 何が?」
ソアは必死にシラをきる。が、ガードの低い彼女のスマホにBLのイラストがひしめいていることは、仲間たちみんなが知っていた。
そこに割って入ったのはルブランだった。「やめよう。ショウミなハナシ、それ誰も得しないね」
「は? 得とか、意味分かんないんですけど? 何が?」とシラをきりつづけるソアの肩を、ニナが叩いた。
「大丈夫。スマホのフォルダにエグいBLが入ってたって、ソアがいい子なのはみんな知ってるから」
どうだ、参ったか、と少し得意げになるライリーに向けて、ニナは続けた。
「で、どうなの? その子のお家は分かった?」
「いや、だから名前も知らないんだって」
「どうして。尾行すればいいじゃない。ゴミ捨て場を漁れば、名前も分かるし、電話番号や所属しているコミュニティ、既往症まで分かるかもしれないのよ? レオはああ言うけど、やっぱり相手を理解することって大事よね。健康状態や常時服用しているお薬、かかりつけのお医者さまについて知っていれば、何かあった時安心だもの。それに通信履歴なんかも欲しいわよね。どういう人間関係の中でどんな悩みを抱えているか分かれば支えになってあげられるし。私、恋愛って『相手のために何をしてあげられるか』だと思うの。自分のことばっかり考えてちゃ駄目よ」
「…………」
一同は取り敢えず沈黙した。当たり前みたいな顔をしているが、ニナの恋愛観が一番ヤバいのは皆それとなく認識していた。
もっともらしいフレーズでヤバい部分を挟んで、自分で完全に納得しているところが一番ヤバい。
ライリーはもう、自分の恋愛がどうこういう気恥ずかしさよりも、この生まれついてのストーカーから名前も知らない女性を守ることの方に、一種使命感のようなものを感じていた。
「すごく美人だったからちょっとウットリしちゃったってだけなんだよ。別に、どうにかなろうってんじゃないんだ。ほら、ボクってナードだしさ。あんまりグイグイいくタイプじゃない────」
言い訳みたいにそう並べている最中に、強烈にテーブルを叩いて立ち上がったのはリュウだった。
「ゴチャゴチャうるっせぇぞ! ライリー! お前が陰キャだって? ああ、確かにそうだよ根暗野郎! ピアノ弾く以外は本ばっか読んで、ロクに喋りもしない!
だけどな! お前はそれでも、部屋に閉じこもる訳でもなく、いつもリビングの隅にいて、誰かが困っていれば核心を突くような一言をヒョイと差し込んで、物事を解決に導く力を持ってる! そういう所をな、みんな認めてるんだ!」
「あぁ……ありがとう……リュウ。嬉しいよ、とっても……」
ライリーはそう言いながら、内心頭を抱えた。リュウの熱血スイッチが入ってしまった。悪い奴ではないのだが、こうなるともう止まらない。
「俺たちはピアニストだ。何故だ? 才能があったからか? 出会いに恵まれたからか? 違う違う違う! ピアノが好きだからだ! 好きだということにのめり込んで、突き詰めてきたからだ!
お前は今日、図書館の前で、1人の女の子に恋をした! 美人だと思ったんだろ? 親切で優しかったんだろうが! それが全てだろ! 自分にごちゃごちゃ言い訳をして、その場に留まる理由を探してんじゃない! お前の心にぼんやりと灯った炎! それが全てだ! 他に何があるってんだよ!」
ライリーはソファの背もたれに沈み込んで、天井を見上げた。
これだから、イヤなのだ。何がって、リュウの演説には、妙に人の心に火をつけるようなところがある。
「分かったよ、リュウ。今度会ったら話しかけてみる」
ニナが持ってきたシードルを大分飲んでいて、少し酔いが回ったせいもあるだろう。ライリーは実際そうするつもりで答えた。
仲間たちが喝采を浴びせる。
「ああ、そうしろよライリー! 成功するとか、フラれるとか、生きるとか死ぬとか、そんなことは下らないぜ! 自分を突き放して、心に火のついたその一瞬を生きるんだ!
大丈夫! 俺はお前を見捨てない!」
それはリュウがチャイコフスキー国際にエントリーせず、呉島 勇吾にまんまと優勝を許した──リュウが出ていたら、それを阻んだかどうかは別として──ことへの後悔を埋め合わせるような意味もあっただろう。
しかしその言葉は確かに、その女性に出会った瞬間ライリーが感じ、そして今もまだその深いところでくすぶっている熱に気付かせてしまった。
「まいったなぁ……」と呟いて、ライリーは眉尻を下げながら笑った。
一口含んだシードルの甘酸っぱい香りが、彼を余計に酔わせた。
✳︎
余談だが、後日ライリーはその女性に声をかけ、少し親しくなったが、その後見事にフラれたそうである。
翌年、年齢制限のため呉島 勇吾が出場しなかったある国際コンクールを、リュウ・ハオランとの接戦を制して優勝したのはこのライリー・リーだった。
インタビューに答えて、彼はこう語った。
「──リュウと一騎討ちになった時点で、絶対ぶっ潰してやると決めていました。
人の心に不用意に火をつけると、こういうことになる。彼の教訓になったでしょう」
これを聞いたリュウ・ハオランが地団駄を踏んだのは言うまでもないが、おかげで3キロ痩せたそうである。





