15-9.CODA:悪魔の夫婦と女の子
「ねぇ、聞いてよユーゴ!」
女はいたく憤慨した調子で言った。
「うーん……」と、俺はテーブルの上の五線紙に鉛筆を走らせながら、曖昧に返事をする。
しがない地方都市の住宅街にある、ワンルームのアパートだ。
部屋の奥に大きめの折り畳みベッド、コート掛けには天辺にバスの運転手の帽子がかけてある。
「先生がね、2ケタのかけ算をやるってゆうのよ! おかしいと思わない?」
どうやら、学校の先生が2ケタの掛け算をやると言うので、彼女は怒っているらしい。
「ああ、それぁ、正気じゃねえな……」
譜面の最後に終止線を引いて、俺は出来上がった楽譜を見返した。
「もぅ! ユーゴ、ちゃんと聞いてよ! モモ、もうテレビつけるからね!」
憤懣やるかたないといった感じで、2つ結びの髪をぴょんと揺らして、モモはテレビのリモコンを掴む。
話をちゃんと聞かないなら、こっちだってもう構ってあげないんだから。どうやらそう言っているらしかった。
頭の中で、譜面にある音楽を鳴らす。どうも、響きに不満があった。
内声を書き換える。しかしそうすると、前後のつながりが微妙だった。
「これは少し……アイデアが必要だな……」
楽譜を脇に重ねてよけた。ずっとそれに目を凝らしてばかりいると、視野が狭くなる。こういう時は、少し別のことをした方が、かえって簡単に解決できたりするものだ。
テーブルの隅には葉書が置かれている。
──「赤ちゃんが産まれました! 酒井 駿・朱音」──
「もう。ユーゴ、お絵かきおわったの?」
まったく呆れたものだという風に、モモは腕を組んで顔をしかめた。
お絵かきではねえんだけどな……と思わないでもなかったが、反論するのも説明するのも骨が折れそうだった。
「で、お前は何で勝手に入って来てんだよ」
モモは、向かいのアパートに住んでいる別の夫婦の娘だ。
俺がいる時は鍵をかけないせいもあるのだろうが、いつからか、勝手に上がり込んで居座るようになってしまった。
「だってユーゴ、ひまなんでしょ?」
「勝手に決めんなよ。めちゃくちゃ仕事してただろ」
「お絵かきしてたじゃん。しごとは、パソコンでするやつでしょ?」
最終的には打ち込むが、俺はまず手書きで書くのだということを理解してもらうのは難しそうだった。
「あのなぁ、世の中には、いろんな仕事があるんだよ」
「知ってるよ。パン屋さんとか」
「まあ、パン屋さんもそうだけども……そう、パン屋だって、パソコン使ってねえだろ」
「おくの方で使ってるもん。もぅ、ユーゴは、ぜんぜん知らないからなぁ……」
「確かに……」
クソっ……劣勢だ。
「ユーゴさぁ、もう25さいでしょ? そーゆうの、よくないよ。ネネちゃんにばっか働かせて、ユーゴはわるいダンナさんだって、ママがゆってた」
「マジかよ……」
薄々そうではないかと思ってはいたが、どうやら俺は、無職の引きこもりだと思われているらしい。
と、そこで不意にスマホがメッセージの着信を知らせた。
──「もうすぐ出番です」──
モモの持っていたリモコンでテレビの電源を入れる。
「もぅ、まじめな話してるときは、テレビだめなんだよ」
「いや、これマジだから」
目当ての番組を探してチャンネルを替える途中で手を止めた。
長髪を後ろでしばった大柄な男が、スーツに派手なネクタイをして喋っている。
モモはそれを見ると歓声に近い声をあげた。
「アクツ社長じゃん。イケメンだから、モモ大好き。王子さまだよねぇ」
「お前、マジか……」
──「社会というものからはみ出してしまった人たちにとって必要なのは、彼ら自身が自分の中に眠る価値に気付き、その価値を経済に組み込んでいくことなんです」──
まったくもって胡散臭いが、どうやら『イケメン社長』という肩書で、阿久津は度々テレビに出るらしい。
「あと、モモが好きなのはねぇ、クラスのレンくんでしょ、それとカンタくんでしょ……ユーゴは、その次かなぁ……」
「くそっ……」と思わず漏らした。
知らない奴に知らない内に負けた。
得意そうに俺の顔を覗き込むモモを横目に、俺はチャンネルを変える。
『ショパン国際ピアノコンクール 野呂 アキラ2位入賞!』
フンっと鼻で笑う。
俺の弟子が優勝を逃すとは情けないが、期せずして誤解を解くチャンスが訪れた。
──「呉島先生とやってきたことが、こうした大きな舞台で形になったことが、まずは素直に嬉しいです」──
──「野呂さんといえば、あの呉島 勇吾さんのお弟子さんでしたね」──
「ほら、『あの』とか言ってんじゃん」
俺はテレビを指した。
そうする内に、ちょうどCMに入ると、また丁度良くオペラの広告が流れた。
──「【音楽の悪魔】呉島 勇吾が、最新の立体映像技術と伝統的な作曲技法で現世に描き出す地獄の業火。オペラ『地獄変』」──
「ほら、これも俺」
「えー、ちがうユーゴでしょ?」
「誰だよ違うユーゴって……」
「だってさぁ、ほんとに有名なピアノの人とかだったらさぁ、こんな小さいお家にいるわけないじゃん」
「いや、奥さんが狭い家好きなんだって……」
「えー、だってネネちゃん大きいじゃん。それに、ふつう有名な人だったらさぁ、とうきょうとかにいるじゃん」
俺はどうも、相手の言うことの方が理屈が通っているように思えてきて、ほとほと困り果てた。
今時、譜面関係は全てデータでやり取り出来るし、俺は本番にさえ現地にいれば余裕で弾ける。まさかそのことがこんな形でアダになるとは。
しかし、そんなことは本題ではない。
テレビのリモコンをいじって、やっと目当てのチャンネルに行き着いた。
『全日本剣道選手権大会 女子個人戦 決勝』
赤 北条 彩香
白 呉島 寧々
2人は礼をして、竹刀を抜きながら中央へ進み、剣を合わせてしゃがむ。
審判が開始の合図を告げると、2人は獰猛な叫びをあげた。
高校時代の寧々の仲間は、もう何年も全国の上位を独占していたが、中でもこの2人の勝負となると、互いに攻撃的で、決着が速い。
「これ……ネネちゃん?」
テレビを観ていたモモが唖然とした表情で言った。
「ああ。観とけ。マジでビビるから」
「寧々ちゃん、剣道のプロの人なの? 学校の先生じゃないの?」
「剣道にプロはねえ。だけど、寧々は世界一強え」
寧々は体育大学を出て、高校の体育教師になった。そのかたわら、こうした大きな剣道大会で鬼のように戦っている。
液晶画面の中で、2人の剣士が音を立ててぶつかり合った。
審判の旗が上がる。赤だ。どうやらその一瞬で、相手が寧々の小手をとらえていたらしい。
両手で頭を抱えた。「ウッソだろ? いつだよ!」
「ねえユーゴ、モモ剣道わかんない」
「いや、いいんだよ別に、分かんなくても。とにかく応援しろ」
「えー、ネネちゃんがんばれぇ……」
「心を込めろよ」と言った矢先だった。
上段から振り下ろした寧々の竹刀がその途中で急に軌道を変え、相手の左胴を袈裟懸けに斬り下ろした。
旗が上がる。
「来たっ!」思わず拳を振り上げる。
実況が興奮した調子で、何か叫んだ。
「ほら、ネネちゃんがんばってるじゃん。ユーゴもがんばらなくちゃだめだよ」
ふと、自分が3歳のころを思い出す。
俺は保育園に預けられ、そこで初めて、ピアノを聴いた。
保育士の弾くピアノは、今にして思えば、決して上手くはなかった。
俺はなぜ、そこでピアノを弾き始めたのだろうか。
おそらく、感動したからだ。下手くそな保育士の弾く、その楽器の響きに、強烈な感動を覚えたからだ。
俺はテレビから目を離さず、そばにあった棚からチケットを1枚取り出した。
「お前、今日の夜、ヒマか?」
「えー、モモ子どもだから、夜にデートとかしちゃだめなんだよ」
「違えわ。こっちでリサイタルだ。寧々と来いお前。目にモノ見せてやるわ」
✳︎
手の内が冴えて、剣先はアヤカ先輩の面をとらえた。
肩に食い込んだ先輩の竹刀が大きくしなり、そして折れた。
風を切る音を立てて、白い旗が上がる。3本。
──「あぁっ! 出ました! 肉を斬らせて骨を断つ!【琥珀の悪魔】呉島 寧々の左片手面! 熾烈な接戦を制して、呉島 寧々! 3連覇!」──
剣を合わせ、蹲踞して、5歩退がって礼をする。
──「素晴らしい面打ち! いかがでしたでしょうか!」──
──「いやあ、彼女の上段は、本当に気持ちが良いですよね。最近は上段に構えながら後ろや横に避けてボクサーみたいに戦う上段の選手も見かけますが、彼女は退かないでしょう。一歩も。『火の位』かくあるべしという、本物の上段ですよ。素晴らしい!」──
──「そしてまた、インタビューすると、人柄が可愛らしいですよね」──
──「ええ。私も何度かお話させてもらいましたが、シャイなんですよね。18歳で結婚してるのに」──
──「そう、呉島選手といえば、旦那さんはピアニストで指揮者、作曲家の呉島 勇吾さん。【音楽の悪魔】と呼ばれる世界的な音楽家です」──
──「彼女のニックネームも、てっきり胴が琥珀色だからだと思ってたんですが、旦那さんからプレゼントされた琥珀のネックレスを試合中も御守りに提げてるからだそうで……」──
実況と解説が全部聞こえていて、とても恥ずかしかった。
対戦相手のみんなに挨拶し、表彰式を終えると、お食事の誘いを断って、新幹線で一直線に自宅まで帰る。同窓会みたいですごく楽しいのだけど、今日は勇吾くんのリサイタルがあるのだ。
スマホにメッセージの通知があった。
「おめでとう。試合見てたら新曲の着想が一発で湧いたわ。
ところで悪いが、今夜モモを連れて来てくれ。招待券は渡してある」
あの人は、またムキになったな、と頬が緩む。
家に着くや急いでパーティードレスに着替えると、モモちゃんのご両親に事情を説明してタクシーに乗り込んだ。
ご両親は、彼が三大コンクール制覇の世界的ピアニストにして、指揮者、作曲家の呉島 勇吾だということを、にわかには信じられないようで、私も「音楽家っぽくないですよね……」と苦笑いする他なかった。
モモちゃんは勇吾くんと試合を見てくれたらしく、ホールに向かう間、「ネネちゃん強いねぇ。カッコいいねぇ」とずっと言っていて、私はモジモジしてしまったが、「ネネちゃんにユーゴはもったいないよ」と言うのを聞くに、どうやらこのオマセさんの本題はそっちのようだった。
ヴィルトゥオーゾは女の子にモテる。
ホールに着くと、ロビーでポスターが目に入った。
──世界的指揮者? 稀代のオペラ・メーカー?
いや、呉島 勇吾はピアニストだ!──
微妙なキャッチ・コピーだと勇吾くんは愚痴をこぼしていた。
真樹さんがこの所、演奏活動に忙しいので、マネージャーは事務所の新人さんが付いている。
一生懸命ではあるが、あまり勇吾くんとはセンスが合わないみたいだ。
真樹さんは専業のピアニストになる気はないそうだが、勇吾くんの書いたピアノ曲のうちいくつかは、今のところ世界で勇吾くん本人と真樹さんしか弾ける人間がいなかった。
モモちゃんの手を引いて指定席を見つけると、見計らったように客席の照明がだんだんと暗くなって、開演のベルが鳴った。
舞台袖から姿を現した彼の、ピンと伸びた背筋や、撫で付けられた黒い髪、タキシードの光沢に、私は息を飲む。
なんて美しい人だろう……
スポットライトに、琥珀のカフスボタンが光る。
ピアノの前で彼は正面を向く。目が合った瞬間、彼は優しく微笑んだ。
「ねぇ、あれ、ホントにユーゴなの?」
モモちゃんはあんぐりと口を開けた。
私も思わず微笑む。
「あげないよ」
可愛い子だ。
私たちもそろそろ、そういうことを考えてもいいかもしれない。そんなことを思う。
アナウンスが流れた。
──「プログラムの変更をお知らせいたします。プログラム1番、ヨハン・セバスチャン・バッハ作曲『イギリス組曲第3番』に代わりまして」──
そう言う途中で、少し間があった。「本当に、曲名これでいいの?」というような間だ。
──「呉島 勇吾作曲『内気な剣道女子のための叙情的組曲』」──
彼は椅子に掛け、鍵盤に指を落とす。
好戦的、だけど叙情的、そしてこれまで誰も聴いたことのないほど超絶技巧的な音楽が、ホールを愛の響きで満たした。
それは10代のころみたいに簡単には「愛してる」と言わなくなったヴィルトゥオーゾの、回りくどいようで、実はストレートな愛情表現だった。
このお話をご覧下さいました皆様へ
この度は、このような長いお話に最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
特に温かいご感想やレビューを下さいました方々、またブックマーク、ご評価下さいました皆様、本当に励まされて完結まで漕ぎ着けることが出来ました。
頂いたご感想の中で、「1次落選のコンテスタントの後日談が読みたい」ですとか、「ナオ先輩のスピンオフが読みたい」ですとかいった、大変ありがたいリクエストを頂戴したこともあり、今後そうしたものをこちらのお話のボーナス・トラックのような形で、少し加筆しようかと考えております。
その節は、もう少しだけお付き合い頂けましたら幸いです。
どうぞ今後とも、よろしくお願いいたします。





