15-7.自分の持ち得る全てを注いで/呉島 勇吾
ショパン国際が終わって間もない11月、寧々は東京で剣道の全国大会を戦い、俺は仕事にかこつけ応援に行った。
その戦い振りは、地獄の鬼も裸足で逃げ出す凄まじさだったが、惜しくもチームは決勝に敗れ、準優勝となった。
翌月12月といえば、この商売では書き入れ時で、俺も方々飛んで回ったが、キリストの誕生日に悪魔の顔を見るというのは流石に憚られたのか、24日、25日は意外にもぽっかり仕事が空いたので、俺は寧々と街に出て、飯を食ったり、プレゼントを交換したりした。もちろん、その後にも色々としたことはあるが割愛する。
その辺りから、寧々は事あるごとに俺の尻を揉むようになった。
寧々はスキンシップに対する欲求が旺盛で、ことに俺の尻の肉は、彼女の大きな手にちょうど収まりが良く、その柔らかさと弾力が大層お気に召したのだという。
特に俺が海外公演で少し離れた後なんかには、「勇吾くん、頼むから、お尻を揉ましてくれぃ」などと妙なテンションで頼み込んでくることさえあった。
そういう時は、黙って揉むに任せることにしていたが、ただ一方的に揉まれているのも手持ち無沙汰で、こちらも負けじと……とやっているうちに、その向こう側へ発展していくこともしばしばだった。
とはいえ、何も俺たちは揉み合ってばかりいるわけではない。
仕事に空きができた時などは、映画やミュージカルを一緒に観に行ったりもしたし、家で一緒にケーキを作ったりもした。
特にチーズケーキとカタラーナについて言うなら、店に出せるレベルと自負している。
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2年生になった5月の晴れた昼休み、コンクリートの床にウレタンのマットを敷いて、寧々が作ってくれた弁当を食べ終わると、正座する寧々の膝を枕にして仰向けになった。
もう半年も前のことになるが、学校で開いた凱旋コンサートに寄せられた花束の1つに、小さな封筒が付いていて、中にはメッセージカードの代わりにこの屋上の鍵が入っていた。
それは、当事者以外に誰も認めることのない、小さな王権の継承を証するレガリアだった。
俺と寧々は、天候の許す限りはこの屋上で昼休みを過ごした。
寧々は膝の上で俺の髪を手ぐしにとかす。
ふと、スマホの着信が鳴った。
俺は原則として、この静かで穏やかな時間を妨げるあらゆるものと戦う覚悟があったが、いくつか、例外があった。スマホに表示された着信の相手は、まさしくその例外だった。
ワルシャワ国立フィルハーモニー・オーケストラ、音楽監督ラドスワフ・ノヴァコフスキ。
寧々の膝に頭を乗せたまま、通話ボタンをタップする。
「早いなラッド。そっちは朝6時とかだろ」
「いや、我々は今、上海だ」とその指揮者は答えた。
「ああ……そうか」
そういえば、そんな話を聞いていたかもしれないと記憶を遡っている間に、ラッドは努めて興奮を抑え、平静を装うような熱のこもった声で言った。
「悪童、決まったぞ。オペラの初演が」
俺は飛び起きるように上体を起こそうとしたが、それを寧々に押さえつけられた。彼女は俺を膝に乗せて撫でることに、並々ならぬ情熱を持っている。
「いつだ?」
俺は諦めて、寧々の膝の上に落ち着き、たずねた。
「10月20日。くしくも、我々が初めて共演したあの日だ。まさかこの短い間に3度も、お前に私のキャリアを賭けることになるとはな。1度目はコンクール、2度目は1月の協奏曲、そしてこのオペラ──」
「間に合った……!」俺は思わず日本語でそう呟いた。
「私は今回、監督に徹する。本番の指揮はお前が振れ悪童。詳細は後で連絡する」
「あんたに任せて正解だった。ありがとう」
それは驚異的なスピードだった。
俺が新しく作る日本語オペラの譜面自体は、コンクールが終わった直後から協奏曲と並行して進めていたが、ヨーロッパで初演をするためにはそれが日本語であるメリットはなく、ラッドは当初、難色を示した。
そこで俺は、イタリア語版を同時に書くことで合意を取り付けたが、これが一筋縄ではいかなかった。
逆に意見が一致したのは、題材を『西洋人にとっての日本』的なものにすることで、いわゆる『ハラキリ』『サムライ』の世界でオペラを書くことだったが、それをイタリア語で書くとなると、イタリア語の古い言い回しについての知識が必要となる。
「てめー、ぶった斬ってやんよ!」じゃカッコがつかない。
俺はあの忌々しい海沿いの町で、大学の教授をしている野呂 秀雄を頼った。俺を300万で買い取って、ハンガリーに飛ばした男だ。
俺はゴタゴタしたやり取りを全部すっ飛ばし、イタリア文学に造詣のある人間を仲介させた。そこで出会った語学の教授に助言を受け(彼は俺が日本語オペラを創ろうとしていることに、驚くほど好意的だった)、脚本を書いた。
また、これにあたっては、12月に来日したイタリアのレオポルド・ランベルティーニにも助言を受けた。当然、その愉快な仲間たちから鬱陶しい干渉を受けながら。
そうやって初稿の完成を見たのが4月。
俺と寧々は2年生になり、素晴らしいことに同じクラスになった。
そこから約1ヶ月で、ラッドは初演の目処をつけたのだ。
会場を押さえ、歌手を集い、舞台美術、衣装、広告、その他諸々の、おびただしいヒト・モノ・カネに。
「この世界で生き抜くために最も重要なのは、決断の速さだ。だから多くのオケや劇場の支配人、監督は、とても速いスピードで『やらない』という決断をする。だが私は、同じスピード感で『やる』という決断をし、お前は十分に納期を守った。初演まで5ヶ月。私にかかれば、楽勝だ」
「尊敬するぜ。マエストロ」
通話を終えると、俺は寧々にキスをした。
「寧々、10月、俺はまたワルシャワに渡る。帰ったら、家族に会わせてくれ」
寧々は俺を優しく抱きしめてくれた。この温もりのためなら、俺は何を投げ打っても構わないと思った。
芥川 龍之介『偸盗』
芥川本人は、この物語を「安い絵草紙」「一番の駄作」と自ら評したが、俺は、自分の書く最初のオペラはこれしかないと思った。
それは、クズどもの心の隅にわずかに残った、なけなしの愛の物語だった。
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6月中旬から、俺はモスクワとサンクトペテルブルクを行ったり来たりして、チャイコフスキー国際コンクールのピアノ部門を獲った。
ちなみに2位は、ショパン国際では1次で落ちたロシアのナターリヤ・ラブロフスカヤで、2次審査以降の猛追には正直冷や汗をかいた。
これで俺は、3大コンクールの内2つを獲ったことになるが、その翌年にあるエリザベート王妃国際は、年齢が要件に満たず、4年先まで見送らなければならなかった。
ショパン・コンクールに優勝してからというもの、リサイタルももちろんだが、ことあるごとにインタビューを受け、その対応に忙しかった。
「コンクールが終わって1週間が経ちましたが……」「──1ヶ月が経ちましたが……」「3ヶ月が……」「半年が……」──とやっている内に、チャイコフスキー国際も獲ってしまって、また「一夜明け……」からやり直すことになったが、こうしたことも、俺の今後の活動を宣伝する上で欠かせないことだった。
俺は当初事務所が予想していた通り、こうした取材に辟易とし、大いに消耗したが、そうした疲労を時に癒し、時にそこから奮い立たせ、また時に寄り添って支えてくれたのは寧々だった。
その柔和な雰囲気で和まされるのもあったが、何より寧々は俺の扱いが上手い。
人の性根などというのはそう簡単に変わるものではないので、生来短気で負けず嫌いな俺は、周囲とトラブルになりそうなことも多々あったが、彼女はそういう時には必ずそばにいて、すかさず俺の脇腹をツンとやったり、頬をムニっと摘んだりする。
そうすると不思議なことに、腹を立てていたことなどどうでも良くなって、むしろそうして彼女の手のひらで転がされていることが心地よくさえ感じられるのだ。
俺は、ショパン・コンクールの2次審査直前に、劉 皓然から受け取った、夏目漱石の『草枕』をいまだに度々読み返す。
── 喜びの深きとき憂いよいよ深く、楽しみの大いなるほど苦しみも大きい。これを切り放そうとすると身が持てぬ。片かたづけようとすれば世が立たぬ。──
しかしそれは逆も言えるはずだ。
俺の身に降りかかったクソみたいな出来事の影は、寧々の優しさや愛情深さを、より眩く輝かせた。このことは、俺がこの短い半生を丸ごと肯定するに足る十分な理由だった。
そう思う間に、俺はおびただしいリサイタルを消化し、協奏曲を書き、オペラを書いた。
そのようにして迎えた10月、俺はワルシャワで、自作のオペラ『偸盗』の初演を指揮した。
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平安時代、荒廃した京の都を舞台に、ドス黒い憎しみと殺意の中を、おぼろげな愛が弱々しく光る。俺は自分の持ち得るものを全て注いで、そういうオペラを書いた。
この時の感動は筆舌に尽くしがたい。
オーケストラ、合唱団、ソリストたち、バレエの代わりに殺陣を取り入れ、それを演じ切ったダンサーたち、半年にも満たない時間で羅生門と朱雀大路を舞台上にブチ建てた美術スタッフ、そして、この舞台にそれらの人々をかき集めた音楽監督ラドスワフ・ノヴァコフスキ。
彼らは、一人一人が紛れもなく、それぞれの分野のヴィルトゥオーゾだった。
1週間に渡る公演の千秋楽、繰り返されるカーテンコールに応えて、俺たちは何度も舞台上で頭を下げた。
そしてその足で日本に帰り、10月の27日、17歳になった俺は、寧々との婚約を願い出た。
その日は月曜で、週の頭にこのような話に付き合ってもらうのは申し訳なかったが、寧々の両親は快く俺を家に招いてくれた。
俺はそのオペラの全公演の動画(日本語字幕つき)を持っていて、そこから抜粋して要所のアリア(ソリストががっつり歌う部分)や、舞台の写真などを見てもらうつもりだったが、彼らは3幕で2時間のオペラを丸々観てくれた。
俺はこれの日本語版を上演するための準備をしていることや、他の仕事の進捗などについて話した。
寧々の父親は天井を見上げて、それから言った。
「不思議な感じですよ。僕は、しがない会社員で、妻も、娘も──まあ、剣道は少々強いにせよ──普通の家の普通の家族です。
そういう娘の彼氏が結婚のために語る未来像としては、天文学的スケールだ」
「これが出来たのは、本当に、たくさんの人たちの助けがあってのことでした。本当にたくさんの人たちです。『もっと明るい内容のオペラにしなよ』とはみんな言ってましたけど」
寧々の父は、ふふっ……と寂しそうに笑って、それから、言った。
「結婚するには若すぎると思います。だけど、あなたより歳をとった人が、あなたより立派だとはとても思えないし、自分の娘にここまでの情熱を注いでくれるとも思えない。もう、反論の余地がない。
あなたの勝ちです。勇吾くん。娘を、宜しくお願いします」
俺は思わず両手で顔を覆った。寧々が背中を撫でてくれた。
全ては、このためだった。
そしてまた、うかつにもこう思ってしまった。
「俺は、この日のために生まれてきた……」





