15-5.KISS in the dark/呉島 勇吾
シャッターを上げ、地下へ続く階段を降りる。
寧々が甘えるように腕を組んでくるが、彼女の背が高いので、見ようによっては肩を極めているように見えるかもしれない。
そこは郊外の寂れた飲み屋街に、潰れたピアノ・バーを上屋ごと居抜きで買い取った、地上2階地下1階の建物で、『店』と呼ぶには必要な要件を備えていないようにも見えるし、『家』と呼ぶには余計なものが多すぎる。
入り口の防音扉を押し開けて、照明のスイッチを入れた。
ソファやテーブルが並び、左手には大きなバー・カウンターがある。
一番奥、ステージなどと呼ぶのはいささか恐縮な10センチほどの段差の上に、ヤマハのグランド・ピアノが2台、湾曲する部分を丁度組み合わせるように向かい合って並ぶ。
壁にかかった時計を見ると、まだ昼前だった。
──あの海沿いの街から、俺はてっきり真樹の車で帰るつもりでいたが、肝心の真樹は、俺たちが座席に乗り込んでから「悪い、電車で帰ってくれ」と言い出した。
「運転ムリだわこれ。涙が止まらねえ」
「真樹、俺がコンクールに出たのは金のためじゃねえ。あんなもん、くれてやって構わねえんだ。アンタがまた、稼がせてくれるから。だろ?」
「バカお前……後で、ケーキ買ってやるよ……」
俺があの女の目の前に叩きつけた金は、ショパン・コンクールの優勝賞金だった。
俺を捨てた親の前に、札束を叩きつける。
あれが俺から真樹に捧げる、精一杯の感謝の形だった。
そして、このクソったれの世界に、唾を吐き棄てるように俺を産み落としたあの女にも、俺は地べたに吐き棄てるような感謝の意を示した。
寧々と2人、手をつないで駅まで歩き、電車に乗って、ここへ来るまでの間、俺たちは一言も口をきかなかった。
寧々はずっと、頭を俺の肩に乗せたり、顔を胸に埋めたりして泣いていたが、やがて俺の膝を枕にして、少し眠った。俺はその間、猫を飼ったら多分そうするだろうというふうに、寧々の頭をなでた。
電車が終点に近付いたころ、寧々はまだ、静かな寝息を立てていた。その辺りでやっと、涙が一粒こぼれた──
「勇吾くん……」
俺の大好きな可愛い声で、寧々は俺の名前を呼ぶ。
「落ち着いたか?」
ペットボトルのお茶をグラスに注ぎ、寧々の前のテーブルに置いた。
寧々は小さくうなずく。
耳に痛いほどの静寂の中で、時計の秒針だけが場違いなくらいはっきりと聴こえた。
「お前も真樹も、俺なんかそっちのけでキレるし、泣くからよ。逆に俺は、なんか冷静だったな」
俺は沈黙を埋めるように並べてから、思い直して、こう言った。
「付いて来てくれて、ありがとう。悲しい思いをさせて、悪かったな」
寧々はうつむきがちに目を伏せた。
「今日、ずっと、言いたかったことがあって……でも何て言えば良いのか分からなくて、悩んでたんだけど……それが、やっと分かったので……」
「何だろう」と俺は首をかたむけた。
寧々は俺の目を真っ直ぐに見すえた。そして、心の深いところまで届くような、とても綺麗な、澄んだ声で、こう言った。
「生まれて来てくれて、ありがとう」
俺はほとんど掴みかかるような勢いで、寧々を抱きしめた。
テーブルに置いたグラスが、床に落ちて割れた。
それは、俺を捨てた女に会う日を「おめでとう」と祝う不謹慎さを避けるための、ある種の方便なのかもしれなかったし、あるいは俺を慰めるために彼女なりの修辞を尽くしたのかもしれなかった。
しかし、そんなことはどうでも良かった。
俺が生まれ、俺が存在することそのものを、肯定し、感謝してくれる人が、今目の前にいる。
その強烈な感動の前に、あらゆる疑義が、あらゆる怒りが、形をもったこの現実のあらゆる悲劇が、全く力を失って、ただその眩い感動の光の中に吸い込まれていった。
「誰かにとっては塵芥みてぇな命でも、俺はそいつを目一杯使って人を愛した。寧々、2年後の今日、俺と結婚してくれ。それ以上は、もう1秒も待てねえ」
寧々はその強靭な腕力を惜しみなく注いで、俺を抱き寄せた。
「私は今、今この時、もう1秒も待てないよ」
俺たちは互いの身体をむさぼるように、唇を重ねた。
「俺と出会ってくれて、ありがとう。こんなことを言うと、ガキの戯言だと大人は笑うかもしれねえが、お前を愛してる」
そして俺たちは、互いに抱く愛の形を、おそらく多くの男女がそうするのであろう、最も原始的な方法で確かめ合った。
とても丁寧に、長い時間をかけて────
✳︎
寧々と2人でまた電車に乗り、夕方5時過ぎ、学校に着いた。
まだ客の入っていない体育館の入り口に、祝花が並べられていて驚いた。
立て札で贈り主を確認する。
『株式会社 川久保音楽事務所
代表取締役 川久保 聡』
『学校法人 互恵院学園高等学校
校長 吉良 忠敬』
『互恵院学園高校1年A組
生徒一同』
『一般社団法人 日本フレデリック・ショパン協会
会長 蟹江 史子』
『ワルシャワ国立フィルハーモニー・オーケストラ
音楽監督 ラドスワフ・ノヴァコフスキ』
ワルシャワにいるラッドや、審査員だった蟹江から贈られていたことにも驚いたが、その後がより意外だった。
『クラブ・ド・マーレボルジェ
従業員一同』
俺が海沿いの町でピアノを弾いた、ホスト・クラブだ。
そしてその隣に一際大きい祝花が立てられていた。
『第XX回ショパン・コンクール1次選考
4日目前半出場者一同より 愛と闘志を込めて』
それと、その横に、手頃な台が無かったためだろう、教室の机が1つあって、その上にも花束が置かれていた。カードにはこうある。
『L.A.』
ロサンゼルス……? と首を捻ってから、いや、違うな、と思った。
その贈り主を想って、頬に浮かんだ微笑をそのまま寧々に向けると、彼女も同じような笑顔で返してくれた。
ステージは体育館の奥にあるが、その舞台袖から階段を登ると、ステージを見下ろすような形で放送室があって、控室として当てがわれていた。体育館全体を見下ろす窓には暗幕のカーテンが張られている。
放送室のドアがノックされた。
返事をすると、入ってきたのは、学校の職員に案内された真樹だった。
「ほら、着替えな」とステージ衣装を俺に寄越す。
寧々が思い出したように、あっ、と声をあげた。
「実は、お誕生日プレゼントがありまして……」
「マジで?」
寧々はバッグをまさぐり、小さな箱を取り出して、俺に渡した。
「早速、使ってもらえたら、嬉しいなって……」
手のひらにのるくらいの四角い紙箱を開けると、中にちょこんと収まっていたのは、カフスボタンだった。
濃いハチミツのような色の石が、蛍光灯の光を受けて淡く光った。琥珀だ。
俺はその1つをつまみ上げて、蛍光灯に透かした。「おそろいだ……」
「うん……」
寧々は恥ずかしそうにうつむいて、胸に提げた琥珀のネックレスを指す。
「嬉しいよ。すごく。ありがとう」と寧々にお礼を言ってから、「これ、後で付けて」と真樹に渡す。
寧々と真樹が部屋を出るのを待って、俺は服を着替えた。
白のシャツに、側章の入ったズボンをはいたところで、部屋のドアを開けた。
両手を広げると、真樹が俺の前に膝をつき、ズボンの上からカマーバンドを巻く。タイミングを見計らって、両腕を差し出す。真樹は立ち上がってそのシャツの袖に、寧々がくれた琥珀のカフスボタンを通す。
腕を下ろして顎を上げ、「ん」と喉を見せた時、そこに蝶タイを締めようとしていた真樹が手を止めた。
「この、エロガキどもが……」
そう吐き捨てて、化粧ポーチからコンシーラーを取り出し、指に少しとって首筋の一点に塗り、周囲の肌に馴染ませる。
寧々が「あっ……」と声を漏らして、顔を覆った。
「いや嘘つけお前。ワザとだろ」
真樹が寧々を問い詰める。
「いえ、本当に、そんなつもりはなくて……」
寧々が言い訳をするように言った時、俺はやっとその意味を理解した。
「どういう吸引力だよ……」
真樹は詰まらなそうに鼻を鳴らすと、蝶タイを手早く結んで、俺の背中に回り、タキシードを羽織らせた。
そして、この放送室からステージの頭越しに、体育館を見下ろす窓の暗幕を、音をたてて開け広げた。
窓に貼り付いて、客席を見下ろした。
パイプ椅子をありったけ集めて並べた席が、もうびっしりと埋まって、その後方に立ち見が出来ている。といっても、椅子自体はせいぜい500とかその程度、当然だが、コンサートホールのような数ではない。
一番後方にはテレビカメラも入って、角度か何かを調整している。
このリサイタルが決まったのがつい一昨日、それも学校のホームページと校内のチラシだけで、よくこれだけの人が集まったものだ。
客席を見渡すと、まず変に目立ってしまっているのは、スーツ姿に似合わずチャラついた髪型をした一団だった。『クラブ・ド・マーレボルジェ』のホストたち。
「あ、剣道部みんな来てる!」俺の隣で窓に貼りついていた寧々が言った。見ればマユや、他の部員たちにも見覚えがあった。
それから、酒井がまた笹森と一緒に来ているのが見えた。まだ付き合ってはいないらしいが、きっと時間の問題だと思う。
そして、後ろの方に、寧々の両親と姉が見えた。と、その近く、母親に手を引かれた子どもがいる。俺を買いとった教育大の教授、野呂の息子だ。まるでヒーローを待ちわびるような憧れにきらめく目で、ステージを見つめる。
「寧々や、アタシだけじゃねえ。これだけの人が、あんたの音楽を愛してる。
応えろよ。勇吾。あんたが愛する人だけじゃねえ。あんたを愛する人たちに、愛と音楽で応えろ」
真樹はそう言って、控室を出た。
俺は少し待って、それから寧々の手を引いて階段から舞台袖に降りた。
客席のざわめきと、期待を含んだ空気を肺に満たして呼吸する。
「勇吾くん、みんなのために弾いて。勇吾くんは、私だけじゃなく、世界中の、たくさんの人に愛されるピアニストだよ」
俺は寧々の大きな身体を抱き寄せた。
「俺は、この日のために生まれてきた……」
「そう思えるような出来事が、きっと、これからもたくさん起こるよ。でも、忘れないでね。あなたを愛するたくさんの人たちの中で、私が一番大好き」
客席の照明が落ちる。
元々ソレ用の施設ではない。舞台袖を遠慮がちに照らす、具合の良いライトなどというものはなかった。
俺と寧々は、舞台袖の暗闇の中で、キスをした。
開演のベルが鳴る────
10月27日
開場:17時30分
開演:18時00分
〜プログラム〜
・超絶技巧練習曲第4番『マゼッパ』
フランツ・リスト
・ピアノ・ソナタ『月光』より第3楽章
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
・ノクターン20番『レント・コン・グラン・エスプレッシオーネ』
フレデリック・ショパン
・前奏曲集 第1集より 8番『亜麻色の髪の乙女』
クロード・ドビュッシー
・ピアノ・ソナタ第7番『戦争ソナタ』より第3楽章
セルゲイ・プロコフィエフ
・舞踏組曲より第3曲『アレグロ・ヴィヴァーチェ』
バルトーク・ベーラ
・エチュード第4番『激流』
フレデリック・ショパン
・メフィスト・ワルツ第1番『村の居酒屋での踊り』
フランツ・リスト
・パガニーニによる超絶技巧練習曲第4番『ラ・カンパネラ』
フランツ・リスト
・イギリス組曲第3番より 第1曲『プレリュード』
ヨハン・セバスチャン・バッハ
・夜のガスパールより第1曲『オンディーヌ』
モーリス・ラヴェル
・亡き王女のためのパヴァーヌ
モーリス・ラヴェル
・スケルツォ・フォコーソ
シャルル・ヴァランタン・アルカン
── 休憩(10分間)──
・『ペトルーシュカ』からの3楽章より第1楽章『ロシアの踊り』
イーゴリ・ストラヴィンスキー
・エチュード作品25 第11番『木枯らし』
・ノクターン第13番
・舟歌
・ピアノ・ソナタ第2番『葬送行進曲付き』
・マズルカ作品59
フレデリック・ショパン
〜アンコール〜
・ハンガリー狂詩曲 第2番
・愛の夢より第3曲『愛しなさい。あなたが愛し得る限り』
フランツ・リスト





