15-4.その日、朝/篠崎 寧々
太ももの筋肉が、燃え上がるように熱かった。
全速力で横断歩道を渡り、白のレクサスに食い下がる。
車は速い。しかし、交通量も信号も多い街中の道路では、それほど差は開かないだろうと判断した瞬間に、私はそれ以上、何も考えず駆け出していた。
犬を連れたご夫婦が、驚いて道を開ける。
「ごめんなさいっ!」と短く詫びて、遙か後方へ抜き去った。
スカートを履いて来なくて正解だった。
こんなことになるような気がしたのだ。
進行方向の交差点で、信号が青になった。
目の前の歩道の角にはガードレールが、「少し左に横断歩道がありますから、そこから渡ってくださいね」と行手を阻んでいる。
私は跳んだ。
「最ッ短ッ! 距離ッ!」
10月の終わりの、少しだけ潮の香りのする冷たい空気が、頬を撫でていった。
突風のように横断歩道を駆け抜けて、再びガードレールを飛び越え歩道に降りたところで、レクサスは路肩に寄り、停まった。
スニーカーの靴底が焼き切れるのではと思うほど足の裏に力を込めて、止まる。
「アンタ、馬鹿じゃねえの? 追いつけると思ったのかよ」
助手席の窓が開ききる前に、真樹さんは言った。
「追いつきましたよ」
レクサスのドアに手をかける。
「アタシが停まったからだろ」
「違う。真樹さんなら停まってくれると、私が信じたからだ」
真樹さんはフロントガラスを見つめて、ため息をついた。
「ヤッベぇなアンタ」
「だって、真樹さんは、勇吾くんと話をすべきだから……」
私は息を切らしながら、途切れ途切れにそう言った。
「もう話したよ」
「もっと、もっと話すべきです。一つ一つの物事について、もっと、丁寧に。照れたり、変に気を使ったりしないで、本当の言葉で……」
「そこのパーキングに停めるから、どきな」と真樹さんは言う。
私は一瞬、このままどこかへ走り去るのではないかと心配したけど、真樹さんは本当に目の前のコインパーキングに車を停めた。
ドアから出てきた真樹さんは、キーをポケットに入れながら「まだ、走れるか?」と聞いた。
「ハイ! あと30本いけます!」
「勇吾が母親と接触した」
✳︎
砕くようにアスファルトを踏み、全身を前へ前へと押し出す。
「────勇吾くん!」
その背中を見つけ、叫ぶように呼ぶと、勇吾くんは肩をすくませて振り向いた。
「速っ……」
そこは、古い雑居ビルの間の、細い路地裏だった。
彼の肩越しに、女性の顔が見えた。この人が、そうだ。
深く息を吸い込んだ時、こういう気持ちを、『憎悪』というのだと気付いた。
「でっか……」その女は私を見上げて言った。
勇吾くんはもうその女の方を向いていて、表情が分からなかった。
「それ以上、彼女について、口を開くな。殺すぞ」
「え、何? 怖っ」悪びれる様子もなく、女はそう漏らす。
後ろから駆け寄る足音が聞こえて、それに続いて「ちょっ……速えよ!」と訴える声がした。真樹さんだ。
「よう、真樹。手間ぁかけさせやがって」と勇吾くんは笑う。
「そんなブーメラン、アボリジニでも投げるヤツいねえよ……」
真樹さんは肩で息をしながら吐き捨てる。
女はこちらの顔を一人一人見比べるようにしてから、うんざりしたように言った。
「ちょっと……何ですか? 私は自分の子どもに会おうとしただけなんですけど」
真樹さんが一歩を踏み出し、私の横を通った。次の一歩に、私はただならぬ殺気を感じて、真樹さんの肩を掴んだ。
振り向いてその様子を見た勇吾くんが、「真樹、ありがとう。俺は大丈夫だ」と優しい声で言った。
「勇吾、2人で話そうよ」と女は言う。
「いや、この2人が誰なのか、気になったりしねえのか?」
「片方は、あんたの会社の柴田さんでしょ? もう1人のデッカい子は知らないけど。別にいいわよ。あんたにはあんたの付き合いがあるんでしょ。でも、私はあんたと話したいのよ。15年ぶりの親子の再会に、他人は必要ないでしょ」
真樹さんが、私の手を振り払った。
それを勇吾くんが片手を挙げてなだめる。そして彼は、その女を挑発するように言った。
「あんたに後ろめたいことがねえなら、他人がいたって別に構わねえだろ」
「後ろめたくなんかなくても、トイレしてるとこ人に見られたくないでしょ」
「いい例えだな。あんたが俺を、どういうふうに産んだのかがよく分かる」
「そういう意味じゃないって」
不気味だった。本当に、何も後ろめたいことがないみたいだった。
私は黙って立ち尽くしたまま、彼女の顔を凝視していた。
平たく言えば、整った顔をしている。薄化粧の下にも、肌にはシミやくすみのようなものはない。白い、綺麗な肌をして、およそその年齢から想像される以上のシワもない。
顔のパーツ1つ1つをとっても、歪んだり、不格好だったりするところがなく、その配置にも間違ったところは1つもないみたいに見えた。
そして、それ以上のものが何もないのだ。
当たり前の人間なら何となく表情から滲み出てくる、頑固さだったり、愛嬌だったり、人の良さ、ズル賢さ、優しさ、卑屈さ、理屈っぽさ……そういう何ものも見当たらないのだ。
着ているものにしても、そうだ。ベージュのスカートに、グレーのコート、黒のストッキング、そういうものの一つ一つが、お洒落とも言えないし、みすぼらしくもない、新しくも古めかしくもない。何か徹底して個性というものを排除するような、そういう意図すら感じられた。
私は、そこで初めて彼女に対して言葉を発した。どうしても、聞かなければならないことだった。
「どうして、勇吾くんを捨てたんですか?」
彼女は顔をしかめた。しかし、そういう表情さえ、どこか演技じみていた。
「はぁ? 人聞き悪いわね。なんで他人にそんなこと言わなきゃなんないの?」
「俺にとっては、他人じゃねえからだよ」
勇吾くんは、深い地の底から響くような声でそう言った。
「なあ、アンタはそうやって人目を避けながら、コソコソ生きてきたんだな。
俺は違うよ。ツラも、技も、魂まで他人に晒して生きてきた。アンタのやり方に付き合うつもりはねえ。ここで喋る気がねえなら話はこれで終わりだ」
勇吾くんがそう言った時、初めて彼女の顔に、焦りとか苛立ちみたいなものが、本物らしく浮かんだ。
「ちょっと、何なのコレ。私を責める会?」
「そう思うなら、あんたは自分に責められるような落ち度がねえことを弁明しろよ」
勇吾くんは腕を組み、女を顎で指して、言い訳を聞かせてみろ、というふうに鼻を鳴らした。
女はまるで自分が被害者であるかのようにため息をつき、それから口を開いた。
「まず、捨てたって言うけどさ。別に捨ててないわよ。兄に預けただけ。あんたたち経験ないでしょ? 一人で子ども育てるって大変なのよ。すごく」
「それはなぁ! やり切った奴が言うことなんだよ!」
真樹さんが怒鳴った。彼女の押し潰したように低く、深い声は、狭い路地裏に反響した。
「ちょっと、大きい声出さないでよ。私だって1年やり切ったんだから。世の中には自分の子ども殺しちゃうような親だっているわけじゃない。それに比べりゃマシでしょ?
しょうがないじゃない。私、1人だったし。夫婦仲は置いといても取り敢えず2人いる家に預けるのは合理的ってヤツよ」
真樹さんは唸った。
「てめぇ……!」
「真樹……」
勇吾くんがそこで彼女を呼び止めなければ、真樹さんはもう掴みかかる寸前だった。それは、私もだ。同じ人間とは思えなかった。一体どうやったら、こんな手前勝手な人間が生まれるのだ?
「俺は、大丈夫だ」と勇吾くんは言った。
涙が出そうだった。彼は、ずっとそう言っていた。私にも、社長にも、真樹さんにも。
最も傷付くべき人が、最も気丈に振る舞っている。その精神の気高さが、私には直視できないほど眩しかった。
「あんたは、俺をこの世界に生み落とした。腹を痛めて。お陰で、俺は今、生きてる。大事な人たちや、気の良い奴らとも出会った」
勇吾くんがそう言うと、女は得意そうに笑った。
私は、その女の顔を、生涯許すことはないと決意した。
「やっぱり、実の息子ってそうよね。他人がどれだけ口を挟んでも。
本当に痛かったんだから。女って、損なのよ。同じ子ども作るにしても、男はいい思いするだけ。女だけがあんな苦しみを味わうんだからさ」
「なあ、俺は単純に疑問なんだが、そうやって腹ぁ痛めて産んだ子どもを、簡単に他人に渡せるもんなのか?」
女は、不思議そうな顔をした。耐えがたいことに、それは時々勇吾くんがする表情と似ていた。
「さぁ、人によるんじゃない? 私の場合は、なんか、思ってたのと違ったし」
涙がこぼれた。次の瞬間、私はその女に掴みかかっていた。ほとんど、意志などというものはなかった。握り締めた拳を振り上げて、その横っ面に叩きつけようという寸前に、勇吾くんは間に割り入って真正面から私を抱きしめた。
「寧々、俺は大丈夫だ」
「この女をッ! 許しちゃいけないッ!」
私は叫んだ。絶叫した。
「ああ、許さなくてもいい。だけど、お前は人を傷付けないでくれ」
奥歯を噛んで、私はうなった。女の襟を掴む手と、握り締めた拳の力を緩めるのに、とても時間がかかったように感じた。
そしてやっと緩んだ私の手を、女は迷惑そうに振り払った。
少し強張った顔で「何なのよ。最低……」と呟く。
その瞬間、路地裏に乾いた音が響いた。
勇吾くんが女の頬を平手で叩いたのだと気付いたのは、女が声を上げてからだった。
「痛いわね! 何すんのよ!」
「テメェが今息をしてられんのはな、俺の前にツラぁ見せたのが、寧々や真樹と出会った後だったからだよ。そうじゃなきゃ、殺してた」
「あんた、産んでやった恩を忘れたの?」
真樹さんが、私の腕を掴んだ。見下ろした彼女の唇から、一筋、血が滴っていた。
「勇吾、もういい。時間の無駄だ。分かっちゃいたことだが、生涯分り合うことはねえ。
クズが。一生クソ溜めで生きていけ」真樹さんはそう吐き捨て、背を向けた。
「まだだ!」勇吾くんが彼女を呼び止める。
それから、女に向かって、たずねた。
「なあ、今日が何の日か、知ってるか?」
「は? 何? 自分の産んだ子どもに会おうとしたら、寄ってたかって罵倒された日?」
ハハッ! と勇吾くんは乾いた声で笑った。それから、トートバッグの底に手を伸ばして、クリップで留めた紙束を取り出すと、真樹さんの見ている前で、それを地面に叩きつけた。
「拾えよ。賞金だ。少なく見えるか? 500ユーロ札80枚、4万ユーロだ。日本円に換算すれば470万にはなる」
「勇吾! その金はダメだ!」と真樹さんは声をあげた。
「アンタには関係ないでしょ!」女は叫びながら、慌ててそれを拾う。
それを見た時、私には途端に彼女が、とても憐れでみじめに思えた。この人は、それ以上のものを、何も持っていないのだ。誇りも、愛も、何も。
「勇吾、助かるわ、本当。生活苦しくてさぁ……」
猫なで声をあげる女を、勇吾くんは見下ろしていた。
「俺にそのツラぁ見せる時には、470万、耳揃えて持って来い。そうじゃねえなら、2度と俺の前に現れるな」
彼はそう吐き捨てると、その女に背を向けた。そして、私と真樹さんに交互に視線を投げて、微笑んだ。
「何よ、そんな言い方しなくたっていいじゃない。あ、もしかして、今日ってあんたの誕生日?」
「違うよ。ニコロ・パガニーニってヴァイオリニストの誕生日だ」
私も真樹さんも、彼と同じように、彼女に背を向け、路地を出た。
その一番後ろで、勇吾くんが一瞬振り向いたのが、気配で分かった。
「それでも俺は、顔も覚えてねえあんたのことを、ほんの少しだけ……愛していた」
彼はそう言った。





