15-3.その日、朝/呉島 勇吾
10月27日、朝。
俺と寧々は、電車に乗っていた。
日曜の朝、それも県の中心から海沿いの町へ向かう電車は空いていて、何駅か過ぎたころには、同じ車両に俺たち以外の客はいなかった。
2人がけの座席に並んで座り、俺の肩に乗った寧々の頭に頬を寄せた。
電車は同じリズムを執拗に繰り返しながら、車窓に映るあらゆる景色を置き去りにして、よどみなく駆け抜けていく。
昨日の夜、寧々の家から帰ると、俺は社長に連絡をして事情を話し、母親について聞いた。
俺の産みの母というのは、かつては水商売をしてそれなりに派手な交友関係を持っていたそうだが、今はそうしたものからも足を洗い、その海沿いの町で、小さな会社の事務員をしているということだった。
年齢は36歳。つまり、20歳で俺を産んだことになる。
社長に報告をする真樹の冷ややかな声には、俺より歳の近いその女に対するかつてない怒りが現れていたという。
社長が聞いた限り、その女から事務所に対して具体的にされた要求は、「勇吾に会わせろ」という一点だけだった。
その前後には、事務所が俺を使って金を稼いでいることへの非難が含まれてもいたそうだが、直接金銭のやり取りを要求するようなことはなかった。
だが、真樹がそれだけの怒りを顕にしたからには、そうするだけの理由があったはずだ。
「朝だ」と社長は言った。
母親と連絡が取れるのは真樹だけだ。彼女は俺たちより先に母親と会い、1人で話をつけようとしている。
そして後からひょっこり現れて、待ち合わせ場所として俺に伝えた運河の橋で一緒に時間を潰し、「やっぱり、来なかったな」と話をそこで終わらせるつもりなのだ。
俺は、自分の戦いに横槍が入ることを好まない。
だが、真樹がしようとしていることは、きっと、俺への想いから出たものなのだということが、今の俺には分かるのだ。
俺は寧々の手を握った。彼女は俺の手を、両手で包み込んでくれた。
そのことだけで、俺はどれだけ忌まわしく、どれだけおぞましい物事にも立ち向かっていけると思った。
車掌のアナウンスが、間も無く目的の駅へ到着することを告げた。
「寧々、俺は大丈夫だ」
俺は自分に言い聞かせるように寧々にそう言うと、腹に抱えたトートバッグの重さを感じながらそれを肩にかけ、立ち上がった。
✳︎
駅に着くと、俺は社長に電話をした。
ワイヤレスイヤホンの片方を寧々の耳につけた。
コールが5回鳴って、通話がつながると、そこからまた一息ついて、社長は「はい」と返事をした。
「駅に着いた」
「よし。それでは、駅の東口から街に出て、そのまま東へ。白のレクサスに注意して、動きながら聞いてくれ。特にコインパーキングだ」
「分かった」と俺は答えて、駅の掲示板で東口を探す。寧々がこっち、と手を引いた。
「今までの話から考えて、真樹ちゃんが意思を決めたのは早くて一昨日、まずそこに異論はあるか?」
白のレクサスが車道に現れないか目を配りながら、自分なりに真樹の意思を考えて、社長の言う通り東へ、特にコインパーキングが……あまり考えがまとまらない。
「多分……ないと思う」
「結構。昨日は日中、君の仕事について回って、収録にも同行している。会社のシステムで彼女のスケジュールは大まかに把握出来るが、夜はそちらの地方局の役員数名と会食をした。これが実際に行われたことは確認が取れている」
「そうか……」と、とりあえずの返事をする。
「話は一昨日に戻るが──」
「ちょっ……戻るなよ」
「いや、大事な確認だ。一昨日の金曜、真樹ちゃんと別れたのは15時より前、夕飯は作っていかなかった。合ってる?」
「ああ。2時半とか、そんなもん。何で?」
「銀行の窓口が閉まるからだ。真樹ちゃんが君の母親に会おうとしているのは、おそらく間違いない」
「銀行?」
いまいち、話が見えなかった。
「勇吾、動きながら聞いてくれ」念を押すように社長は言った。
その時俺は、ああ、社長は、そうすれば俺の気が紛れると思っているのだ、と気付いた。
「金か……」
「そうだ。ATMじゃおろせない金額。おそらく300万。テーブルにそれを叩きつけて、こう言うつもりだ。
『どの道会わせるつもりはない。おとなしくコイツを持って帰るか、無駄な電話代をかけ続けるか選べ』
そうやって現ナマの迫力で相手の判断力を奪う。私ならそうする」
俺は足を止めた。
「アイツはそのために、自分の金を……?」
「彼女も、下手クソなんだよ。人を愛することが。ところで勇吾、歩いてるか?」
社長も元はピアニストだ。通話の背景に聞こえる物音から、立ち止まったことに気付いたのだろう。
寧々がそっと、俺の背中を抱きしめてくれた。
「社長、俺は大丈夫だよ。パーキングを探せばいいんだな」
俺たちは再び歩き出す。
社長は少しの間沈黙して、それから答えた。
「ああ。喫茶店で出来るような話じゃないし、料亭を取るような相手でもない。この時間じゃホテルもチェックイン出来ない。となれば、おそらくレンタル・オフィスのようなところだ。その街じゃ大した数もない。車を見つけたら、その近くで目星をつけられるだろう」
「分かった。でも、8月に電話が来て、なんで今になって?」
「コンクールが終われば、君は日本を去るはずだった。あの母親に、海外から君を見つけ出す能力はない。無視していれば良かった」
「もう話が終わってるってことは?」
「彼女は必ず車で移動する。東京とそっちの行き来も車でするくらいだ。だが悪いことに昨夜は会食があった。飲酒運転なんかでフイにしたくはないはずだ。お酒が抜けてすぐに出たとしてもそっちに着くのは今頃だ」
「そもそも、俺の想像が外れてるって可能性は?」
「真樹ちゃんには本当に別の用事があって、それから待ち合わせに向かうつもりだったのだとしたら、それはそれで構わない。君らはそのまま約束の時間に、待ち合わせ場所へ行けばいい」
「その待ち合わせの時間ってのは昼過ぎだ。今、まだ9時前だぜ。なんだってそんな早く──」と俺が言うのを、社長はフッと笑った。
「勇吾、まだまだ分かってないね。女性というものを」
「何だよ」
「まぶたを冷やして、化粧を直すためだよ」
なるほど……全然分からん。
「アンタは、この件をどう思ってるんだ? どうして俺に協力してる? アンタらの利害を考えれば、真樹に協力して俺の知らねえところで話をつけた方がマシに見える」と俺は話題を変えた。
「君の過去との決着は、それが和解にせよ、決別にせよ、君自身の意志と感性に拠らなければならない。
だけど、それを私が言ってもダメなんだな。彼女の心にそれを響かせられるのは、勇吾、君だけだ」
寧々は俺の肩を掴んで、唇を耳元に寄せた。
「川久保さん」俺のイヤホンに内蔵されたマイクで、寧々は社長を呼ぶ。
「ああ、剣士ちゃん」明るい声で社長は答える。
「こういう問題って……つまり、勇吾くんとお母さん、それから真樹さんと勇吾くん、あなたはきっと、彼らの間にあった問題について、もっと早く気付いていたはずですよね」
「言いたいことは分かる。要するに、『お前はもっと前に、こうした問題を解決できなかったのか』ってことだろう?」
「乱暴に言えば」
「結論から言えば、出来なかった。残念なことに人間というのは、然るべき時に、然るべき衝突や軋轢を経て、然るべき傷を負った時に初めて、然るべき学びを得るものなんだよ。傷付いたことのない人間が薄っぺらなのはそのせいだ。
仮に僕が、勇吾や真樹ちゃんに『あらゆる不条理は、あなた達が愛を知るための試練なのです。隣人を愛しなさい。ほら、早速、君ら隣同士』こんなことを言ったとして、勇吾と真樹ちゃんが素直に言うことを聞くと思うかい?」
「そんなの……言い方じゃないですか。変な宗教みたいな……」
「宗教というのは、案外多くの真実を伝えている。間違えているのは、彼らがその真実について著作権を有していて、布施という印税を徴収するのが正当だと思っていることだ。
僕はしがない音楽事務所の社長だよ。そういう勘違いをしなくて済む代わりに、人の愛や幸せのために出来ることは、とても少ない」
「だとしたら、あなたは……」
「寧々、耳がくすぐったい」俺はずっと我慢していたが、いよいよたまらなくなってそう訴えた。
「あ……ごめん……」と寧々は顔を赤らめる。
「今僕に出来ることは、不幸や誤解や軋轢を、ひと所に集約して、一気に衝突させることだ。
勇吾、今日、この半日、目一杯傷つきなさい。そして夕方にはそれをピアノで吐き出せばいい。明日からは忙しくなるぞ。今日の悲しみが詰まらなく思えるくらい、目まぐるしい日々が君を待ってる」
「……また、連絡する」俺はそう言って通話を切った。
その時だった。
「あっ……!」と寧々が声を上げ、駅前を東に伸びる通りを指す。
白のレクサスが、1丁先の交差点を、右から左に横切った。運転席の女は、間違いなく、俺のマネージャー柴田 真樹だった。
「おいおい、奇跡だろ……」俺は思わず呟く。
「私が追うッ!」寧々は驚くべき瞬発力で駆け出した。
俺も後を追うが、彼女は凄まじい健脚で、その差はどんどん離れて行く。
おそらく真樹は、こちらに気付かなかった。
だが、歩道上を全速力で猛追する身長180センチの女は目立つだろう。
間も無く真樹は寧々に気付く。
その時真樹はどうする? 寧々を説得するか、それともまくか……
なら、レンタル・オフィスだ。寧々が真樹を足止めし、あるいは追い散らしている隙に、直接母親を押さえる。
社長からメールが届いていた。
マップが添付されている。
俺は駆け出し、いくつかの角を曲がり、うらぶれた路地のしみったれた雑居ビルの前で立ち止まった時、不意に声をかけられた。
「勇吾……勇吾なの?」
女だった。歳より老けて見える若い女、という風情だ。
俺はスマホを取り出して、電話をかけた。
通話はすぐにつながった。
「真樹、俺の勝ちだ」





