15-2.別の手段を取り得るということ/篠崎 寧々
「地方局から中継で、呉島 勇吾さんにお越しいただいております」
土曜の朝、テレビに勇吾くんが映ってびっくりした。
勇吾くんは、テレビだとかラジオだとか雑誌の取材で本当にびっしり予定が詰まっていて、本人もちゃんと把握できていないらしかった。
「呉島さん、この度は、本当におめでとうございます!」とリポーターが言った。
学校に取材に来ていた、花森という可愛い感じのリポーターだ。
「ありがとうございます」という勇吾くんは、以前より少し慣れた様子だった。
「実は私ですね、現地の取材にも行かせていただきまして、直接お会いは出来なかったんですが、各審査の結果なんかを速報でお伝えしておりました」
「蟹江さんのインタビュー載せたり?」と勇吾くんが言うと、花森さんは笑った。
私は知らない人の名前が出てきて首を傾げたけど、この花森というリポーターが、蟹江という日本人の審査員にインタビューをした記事が、番組のホームページに載ったのだと画面の端に注釈が出た。
「さて、帰国されて一夜が明け、色々お忙しいとは思いますが、何かこれまでと変化はありましたか?」
「マネージャーがずっと誰かと電話してる。気付いたら1年先の予定とかが入ってて、ちょっとびっくりしてるよ。俺の方は、ワルシャワの指揮者とリモートで話してて、年明けにワルシャワ・フィルの日本公演でコンチェルトを弾くから、その話とか。
事務所の社長にバスの運転手の帽子を買ってもらったから、それかぶって出たいって言ったんだけど、ダメだって」
「バスの運転手?」
花森さんはこれに食いついて、バスの運転手について話を膨らませた。
後で知ったことだけど、勇吾くんのバスの運転手に対する憧れは、結構本気だった。
この話は私だけが知っている秘密みたいに思っていたところもあって、少し残念だったけど、きっとこれから彼は、そういう普通の男の子(?)みたいな一面も含めて、世界から愛されていくんだろうと思うと、胸の奥が暖かくなった。
──「寧々、あんた、部活遅れるよ!」
お母さんに声をかけられて、私は自分が長いことテレビの前に立ち止まっていたのに気付いた。
慌てて竹刀袋を引っ掴み、「行って来ます!」と玄関を飛び出す。
受賞者コンサートの最終日、真樹さんは、勇吾くんの実のお母さんから連絡があったことを私に伝えた。きっと真樹さんも、悩んで悩んで、私にそれを教えたのだと思う。
勇吾くんの母親を名乗る人物から事務所に初めて連絡があったのは、8月下旬のことだそうだ。
「アンタたち、ウチの子どもでいくら儲けてんのよ」
その人物はこう言った。
それは「人の子どもを金儲けに利用しやがって」と非難するようでもあり、「その金は私の懐に入るべきだ」と主張するようでもあったという。
勇吾くんが、過去と和解するのか、決別するのか、それは分からない。彼を捨てた母親に、本当に会うべきなのかも。
でも、彼は決断した。
彼には立ち止まるということがない。それこそが、彼の強さだと思う。
目の前に分かれ道があって、その先は霧に霞んで何も見えない。
どちらに進むのが正解なのか、それとも道なんてない藪の中を分け入って進むべきなのか。
そんな時、彼は悩むより前に、決めるのだ。決めるより前に、もう足を踏み出しているのだ。
だから、しょっちゅう何かにぶつかって、そのたびに傷つきながら、しかしそれでも一番前にいる。
そういう彼の生き様が、私に何度も力をくれた。
全国大会は目前に迫っている。
ここで3年生は引退し、私たちはバトンを受け継ぐことになる。
今回、団体戦のAチームに入らなかった2年生の先輩たちは団結して急速に勢いを増し、それに引っ張られるように他の1年生も私やマユに噛みつこうと無二無三に斬り結んでいる。
私はその中を突き進んで行く。
きっと勇吾くんみたいには出来ないと思う。でも、それでいい。私は私なりのやり方で、しっかりと前に進む。時々周りを見渡しながら、少しだけ丁寧に。
彼が私と違うことが、私に力をくれたように、私が彼と違うことが、彼を励まし、慰めたらいい。
対等で独立した2つのメロディーが、互いに調和するように。
✳︎
稽古中、顧問の先生に呼ばれて、格技室の隅へ走った。
ここのところ、すごく調子がいい。帰国してすぐの選考試合で全勝したのは、気合いが運を呼び込んだようなところもあったけど、それでもアヤカ先輩、ナオ先輩と五分五分くらいで稽古が出来ている。
「ちょっと、中段に戻して稽古してみるか」と顧問の先生は言った。
「中段ですか?」
「鍔迫り合いから離れる時、上段からの打突を躱された時、中段の技を持っているかいないかで行動の幅は大きく変わる。
先生は篠崎が一本気で剛直な戦い方をする選手だと思っていたが、ここのところ、立ち合いに柔軟さが出てきた。これはいい機会だと思う」
「ハイ!」と返事をしてから、なるほど、と思った。
鍔迫り合いから離れる時は、必ず中段を取る。両手を振りかぶった上段のまま、接触した状態から離れれば、引き胴を防ぎきれないからだ。
相手の心理を考えれば、上段の選手と対戦する時、引き技に対する警戒は薄い。そして、鍔迫り合いから離れた時、次は上段に構え直すのを待つような心の隙があるはずだ。
「ありがとうございます!」とお辞儀をして、稽古の列に戻った。
選択肢を増やすこと。
真樹さんは、勇吾くんを日本に帰す交渉が決裂した場合、ワルシャワで捕まえたピアニストを引き連れて新しく会社を立ち上げる用意をしていた。
常に別の手段をとり得るということ。
これもきっと、大人になるために、私が身につけるべきことの一つだ。
✳︎
部活から家に帰った時、勇吾くんから電話があった。珍しく、慌てた調子だった。
「寧々、悪い、この後収録で時間があんまりねえから用件だけになるんだけど、お前、明日って1日空いてる?」
「うん」
当然だ。勇吾くんのコンサートがあって、その前には彼の母親に会う。部活は元々休みだった。
「明日は、朝から1日付き合ってくれないか」
「もちろん。でも、どうしたの?」と事情を聞くと、電話口に遠く、「呉島さぁん! お願いします!」と声がした。
「ああ……悪い、後で説明する!」
そう言って、通話は切れた。
「えぇ……気になる……」と呟いて、スマホの画面をしばらく見つめた。
「どうした?」
お父さんがこちらをうかがう。
「勇吾くんから。忙しいみたい」
✳︎
彼が家に来たのは夜だった。何の前触れもなくて驚いた。
「こんばんは」
勇吾くんはぺこりと頭を下げた。1人で来たらしい。
家族がみんな玄関に出迎えて恥ずかしかった。
「会いに来てくれて嬉しい。でも、どうしたの?」
私がそう聞くと、勇吾くんは悩むようにうなった。
「ちょっと、相談したいことがあって……」それは、とても珍しいことだった。
「私の家族が聞いても大丈夫なこと?」
「もし、迷惑じゃなければ」と勇吾くんは答えた。「大人の人に聞いてもらった方がいいかもしれないとも思って……」
お父さんが「どうぞ」と家の中に招いて、勇吾くんは「お邪魔します」と丁寧にお辞儀をした。
リビングのソファに座り、私は彼が初めて家に来た時のことを思い出した。
「晩ご飯は食べた?」とお母さんが言う。
「あ、はい。弁当が出たので」
お母さんはちょっと残念そうな顔をして、キッチンでお茶を用意しだした。
「それで、相談というのは?」
お父さんが、彼の背中を押すように言った。
彼は小さな決意を固めたようにうなずいて、口を開いた。
「明日、俺の生みの親に会うことになっています。寧々さんは、一緒に行くと言ってくれました」
「そうだったのか?」お父さんは私を見つめる。
「うん」と私はうなずいた。
「行き帰りだけでも、一緒にいてくれたら心強いと思って。直接会うのは、俺と、それからマネージャーでするつもりでした」
「なるほど」と相づちを打って、お父さんは続きを促す。
「今年の夏、俺がテレビなんかで取り上げられるようになってからのことなんですが、俺の親から事務所に連絡があったらしいんです。
俺は未成年だから、仕事するにも色々手続き的なことがあったりして、事務所の社長は俺の親について調べてたみたいなんですが、どうも本人で間違いないそうで」
お母さんは、キッチンでご飯をよそったりしながら、それとなくこちらに耳を傾けていた。
「母親の用件というのは、実はよく分からないんです。
電話を取ったのは俺のマネージャーだったらしいんですが、あまり内容を話したがらなくて。俺が、直接その親に会うのを嫌がってるみたいでした。
俺は身の上が複雑なので、どうも、ちゃんと手続きしないことによって成り立ってる部分もあるみたいなんです。それをやろうとすると、金でモメるのが目に見えてるので。
はっきりそうは言いませんが、やっぱりロクでもない人間なのは間違いないみたいなんですね」
お母さんが、紅茶を運んで来てくれた。
「勇吾くん、続きは、ちょっと温まってからにしたら?」
「あ、すみません。ありがとうございます」と勇吾くんは言ってから、少し考えて、「でも、温まっちゃうと、逆に言いにくいかも……」と言い直して続けた。
「えっと、まあ、そういう母親なので、マネージャーはどうも、会えば俺が傷つくと思ってるみたいなんですね。
俺は、どんな形であれ、決着をつけなきゃスッキリすることはないので、マネージャーも連れて会うことにしたんです。大人の話の分かる人間が一人いた方がいいのかもしれないと思って。俺は当然彼女の車で行くものと思ってたんですが、それが今日になって、『先に電車で行っててくれ』って言い出したんです」
お父さんは目を細め、首を少し傾けた。
「一人で話をつけようとしている……?」
勇吾くんは鼻から息を吸って、わずかに顔を上げた。
「やっぱり、相談に来て良かった。お父さんも、そう思いますか? 憶測に過ぎなかったので……」
「とても断言はできませんが、僕の耳に入る限りでは……」
常に別の選択肢をとり得る。真樹さんは、そういう人だ。きっと、ギリギリまで、いや、おそらく今も迷っている。勇吾くんにとって何がいいことで、何が悪いことなのか。
もしかすると、そう悩む過程で、彼女は勇吾くんの意思より自分の感情を優先したのかもしれない。
勇吾くんを、傷つけたくない。そういう気持ちを。
「勇吾くんは、どうしたい?」と私は聞いた。
「俺はもう、腹を決めてる。だけど、真樹の気持ちにも報いたい。そのために何をするかは、もう決まってるんだ」
彼は力強くそう言った。





