15-1.母/呉島 勇吾
空港に着いたのは、金曜の昼ころだった。
社長とは羽田で別れ、俺は、一人でこの街に帰ってきた。
機内の窮屈で乾燥した空気にはうんざりしていて、もうこの先しばらく飛行機には乗りたくないと思ったが、どうもそういうわけにはいかなそうだった。
インタビューだの会見だのというのに加えて全国ツアーが組まれ、今までのような金持ちのサロンからのご指名も殺到してスケジュールはびっしり埋まっていた。
高校を卒業したいという俺の希望で平日の日中を空けてもらったのはいいものの、毎週末あっちこっちへ飛び回ることになる。
海(国内の海峡を除く)を跨がない分、移動時間が短いことは救いだが、ゆっくり寧々と過ごす時間というのは、まだ当分お預けになる見通しだった。
トートバッグひとつを抱えて、到着ロビーに出た時、そこに待っていた背の高い女の人影を見て俺は足を止めた。
向こうも俺を見つけ、駆け寄ってくる。制服のスカートの裾が揺れた。
「勇吾くん!」
両手を広げた。
体の大きな彼女は、俺に覆いかぶさるように抱きしめる。
「ただいま」という声が震えた。
「お帰り……」
彼女は少し背を屈めて、俺の肩に顎を乗せる。
ああ、俺は、この人が好きだな、と思った。会うたびに、小さな感動があるのだ。
寧々の肩の向こうに、彼女の母親の姿が見えて、俺は少し気まずくなった。
「えと、ご心配をおかけしました」と頭を下げると、寧々の母親は笑った。
「優勝おめでとう。とても感動した」と母親は言ってくれた。
それから、空港のレストランに移動して、昼食を取りながら話した。
俺はトートバッグから包みを取り出して、寧々の母親に渡した。
「これ、お土産です。気に入ってもらえるといいんですが」
旧市街の雑貨屋で買った、陶器の皿だった。花柄の模様がとても綺麗だったので、家族で使ってもらえたらいいと思ったのだ。
寧々の母は、とても喜んでくれたように見えた。
ワルシャワの街並みについてや、コンクールの裏話などについて興味があるようで、そういった話を面白そうに聞いてくれた。
寧々はこの日、学校を中抜けして来てくれて、この後また学校へ戻る。
俺はその車に乗せてもらって一緒に学校へ行き、校長に凱旋報告をすることにしていた。
空港を出ると、俺と寧々は車の後部座席に並んで座り、手を繋いだ。そこから伝わってくる体温や、かすかな鼓動は、俺にとってかけがえのないものだった。
学校に着くと、寧々の母親に短くお礼を言って、車を降りた。
俺はそこでの時間割がどんなだったか記憶が曖昧だったが、学校ではまだ午後の授業がやっているようだった。
校庭は時間が止まったみたいに静まり返って、グラウンドから聞こえるボールの弾む音や、掛け声なんかが、柔らかい膜で隔てられたように遠く聞こえた。
玄関に入る直前で、寧々は口を開いた。
「勇吾くん、お母さんに会うの?」
「なんで、そのこと……」と漏らしてから、思いあたった。「真樹か」
寧々はうなずく。
「ねえ、本当に、会わなくちゃいけない?」
「どうだろうな。こういうことって、正解がねえから。だけど、何か一区切りつくっていうか、そういう期待をしてるんだ」
俺がそう言うと、寧々は俯いて、しばらくおし黙った。
俺は、彼女が何か深く考え込んでいるのを、何も言わず待った。
やがて寧々は顔を上げ、短くこう言った。
「私も、一緒に行く」
俺は少し迷った。両手で口元を覆い、自分の呼吸の感触を確かめて、それから、答えた。
「俺は正直、少し心細かった。多分、ロクでもない人間だと思う。ここのところ、どういうわけか気の良い奴に囲まれてきたから、クズに対する免疫が落ちてんじゃねえかって不安だったんだ。お前は優しい奴だから、もしかしたら俺より傷つくかもしれない。それでもいいなら、一緒に来てくれ」
寧々は力強く頷いて、俺の首に両腕を回した。
「あなたが傷つく時は、私がそばにいる」
「ああ、それなら俺は、無敵だ」
そう答えながら、俺は彼女の与えてくれたものの大きさに、少し怯んだ。
✳︎
校長は、俺の優勝を思いの外喜んでくれたようだった。
校長室には、彼の妻がこの界隈で最高だと太鼓判を押すケーキ屋のモンブランが用意してあって、温かい無糖の紅茶と一緒に出してくれた。
そこで俺は、敬意についての話をした。
俺はワルシャワ・フィルと共演した時、彼らが俺に全力で挑みかかってきてくれたことに、上手いとか下手だとかいうことを超えた──とはいえ彼らはプロ中のプロだから、当然上手いのだが──強烈な敬意を感じた。
彼らは、リハーサルで俺が挑発を始めた時、直ちにその意図を読み取った。そしてそれが、俺にとってはもちろん、彼らにとってもリスクのあるやり方だということを即座に理解し、その上で、俺に向かってきてくれた。
俺はあの協奏曲がたとえ、その途中から木っ端微塵に吹き飛んだとしても、彼らに対する敬意は損なわれないだろうと思った。
それは能力や成果ではなく、その精神の気高さに対する敬意だからだ。そう思い返せば俺は、寧々の優しさや、真樹のしたたかさというようなものにも敬意を感じたことがあったはずだと、そういう意味のことを言った。
「正直、あんたみたいに、人間がただ一人の人間として生きてるってだけで敬意を払うっていうようなことは、俺にはまだ出来そうにない。でも、俺がまだ気付いていなかった価値が、この世にはあるんだっていうことは、何となく分かった」
校長は、穏やかにうなずいた。
「君が私と同じものの感じ方や、考え方をしなければならないとしたら、それは私の考える敬意とはもっとも遠いものだ。このたった半年が、君にとってこれほど実り多いものになったことを、私は嬉しく思うよ」
「だけどよ……」俺は、言葉に詰まった。が、思い切ってこう聞いた。「敬意に値する何ものも、どれだけ目を凝らしても見あたらねえような奴と出会った時、俺は一体どうしたらいいだろう」
「君はこれまで、そういう人たちと戦ってきた」
「ああ。でも、そういう奴らには、まだ探せば何かあったはずだと今は思ってる。ただ、どう探しても何も見つからねえような奴が、それどころか、憎しみばっかり湧いてくるような奴が、俺の人生に深く関わってくるとしたら……」
「そういう時はね、人に助けてもらったらいい」
校長は、こともなげに言った。
俺の腹の底に固くしこりを作っていた何かが、不意に溶けて消えた。
「ああ……そうだったのか……」
「ところで、どうだろう? どこかでピアノを聴かせてもらうワケには……」
「2時間のリサイタルをやるよ。ここの体育館でいいなら」と俺は即答して、スケジュールを頭の中に思い浮かべた。空いているところが1つしかなかった。くしくも、それは俺の誕生日だった。「明後日の、日曜。10月27日」
校長は慌てたように椅子から腰を上げた。
「急いでビラを作ろう! 帰りのホームルームに間に合うように!」
その告知は、学校のホームページにも当日中に掲示された。
✳︎
校舎を出た時、校門のすぐ外には白のレクサスが停まっていた。
助手席の窓が開いて、そこから真樹が顔を出した。
「よう、悪ガキ。乗れよ」
後部座席のドアを開け、乗り込む。
「27日、学校で弾くことになった」と報告した。
「だろうな。そこしか空いてない」
「18時から2時間」
「ああ」
真樹は言葉を探すように視線を泳がしたが、どうやら続く言葉はどこにも見当たらなかったらしい。諦めたようにエンジンをかけた。
「その日の昼間、母親に会うよ」と俺は言った。
「アタシもね、日本に着いてから親に会ってきたよ。元々、反対押し切って海外行ったくせに、結局こうだ。合わす顔がなくてさ。もう何年ぶりかも数えてないけど、ずっと会ってなかったんだ。
だけどいざ会ってみたら、何か、話すことなくてさ。共通の話題ってやつがねえから。気まずくて、すぐ帰ってきたよ。……勇吾、そんなもんだよ」
真樹はフロントガラスの向こうを睨んだまま言った。
こいつは、俺が親に会うことを、遠回しに引き留めているのだろうと思った。
「真樹、ありがとう。あんたの親は、元気だったか?」
「どうだかね。特にどっか悪そうでもなかったけど」
「そうか。じゃあ、多分どこも悪くねえんだな。良かったな、真樹」
それからしばらく、真樹は黙ったまま車を北へと走らせ、俺も窓の外をぼんやり眺めた。
そして右手に大きな公園を囲む植え込みが見えたころ、真樹は思い出したように再び口を開いた。
「この世に起きる全ての問題が、真っ正面からぶつかって抜本的に解決しなくちゃいけないわけじゃないし、そうすることが可能なわけでもないんだよ。
勇吾……傷つきに行かなくていいんだよ」
俺は頭を垂れて、それからたずねた。
「やっぱり、そういう感じだったんだな。あんたが電話取ったのか?」
「ああ」前を向いたまま、真樹は言った。どういう顔をしているのか分からなかった。
「アタシが本社にいることなんかほとんどねえのにさ。ピンポイントだよ。参っちゃうね、ホント……」
「俺は、もう逃げることもできると思うよ。下らねえ争いに巻き込まれねえように、適当に距離をおいてやり過ごしたりとか、そういうことも、多分もう、俺は出来ると思う。
でも、こればっかりは逃げちゃいけねえって時がやっぱりあって、俺にとっては、ここがそうなんだ。こういう時、俺は逃げねえんだよ。傷つくことから逃げねえ」
真樹は一瞬、目尻を拭ったように見えた。だがそれは、たまたまそこに付いたホコリを払っただけなのか、それとも他の何かだったのか、俺には見分けがつかなかった。
「アタシも行くよ。勇吾」
「ありがとう」と言ってから、俺は思い直した。「いや、いいわ。来なくて」
「知ってるよ。寧々も行くんだろ? 何アンタ、妻と愛人がバッティングするみたいに思ってんの?」
「いや、勝手に変なポジションにハマって来んじゃねえよ」
「冗談だよ、バカ。勇吾、アタシはもう、アンタみたいには戦えない。でも、ピアノは弾くよ。アタシなりに、弾き続ける。あんな公共の電波で名前出しやがって。
アンタ、アタシのこと、母ちゃんや姉ちゃんみたいに思ってたって言ったよな」
「ああ」
「本当はさ、それで十分だったんだよ」
家に着いて、真樹と別れると、俺はシャワーを浴びて、泣いた。だが、自分が何について泣いているのか、自分でもはっきりとは分からなかった。





