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14-8.とても遠くへ響かせるように/篠崎 寧々

 受賞者コンサート最終日、日本時間では午前3時、勇吾くんの演奏は始まった。


 私はもう、連日泣きっぱなしだった。


 受賞者記念コンサートの1日目には、最初に授賞式があって、そこで賞状と記念品(画面ではよく分からなかったけど、後で本人に聞いたところによるとメダルだそうだ)を受け取り、すっきりした笑顔で客席から拍手を受けるところでまず一泣き、それから、協奏曲を演奏するオーケストラが、勇吾くんの入場する時、みんな親しげに親指を立てたり、拳を合わせたりして、指揮者ともじゃれ合うみたいに笑顔を交わしたりするところで一泣き、協奏曲の2楽章が切なくてまた一泣き、そしてアンコールではリストのハンガリー狂詩曲をノリノリで弾いてくれてボロ泣きだ。


 2日目にも、今度は特別賞の授賞式があって、勇吾くんは『最年少ファイナリスト賞』と『浜松市長賞(第1位受賞者に与えられる)』を受賞した。私はそこでまた一泣きして、別の協奏曲が用意されていたことに意味も分からず一泣き、アンコールではかつて音楽室で聴かせてくれた、ドビュッシーの『亜麻色の髪の乙女』を弾いてくれて、脱水症状になるのではないかというくらい泣いた。


 コンクールでは弾かなかった協奏曲の1番を弾いたことで、指揮者の人まで一緒に事務局から怒られたという話には笑ってしまったけど、ここまでくると、おかしなものでライバル意識みたいなものが芽生えてきて、もう絶対泣いてやるものかと息巻いていたのに、この最終日、目覚ましの音で目覚めてスマホにイヤホンを刺し、配信サイトの画面に勇吾くんが登場した途端、もう『パブロフの犬』みたいにほとんど条件反射的に泣いてしまって悔しい思いをした。


 だって、彼は、これまで苦しい思いをしてきたのだ。


 捨てられ、売られ、蔑まれ、独りぼっちで寄るべもなく、妬まれ、憎まれ、疎んじられて、それでも彼の人生に起きた、音楽というたった一つの強烈な感動を、人に分け与えながら生きてきたのだ。


 彼はまるで、私と出会ったことで音楽に心を込めることを知ったみたいに言うけれど、私は違うと思う。彼はこれまでも、彼なりの心をピアノに込めた。だからこそ、表舞台から姿を消してなお、その感動をもう一度味わいたい多くの人に求められ続けてきたのだ。


 嵐のような喝采の中を、勇吾くんはオーケストラの間を縫って、ピアノの前まで進む。


 そして正面を向いた時、カメラがぐっとズームして、彼の表情を捉えた。


 笑っている。口の端を吊り上げて、眉間には険しくシワを寄せ、睨むように笑っている。


 戦うつもりなのだ。コンクールが終わり、その勝ち名乗りとも言えるこのコンサートで、彼はまだ戦う。


──そこから始まった彼の音楽は、まさに『戦う人』の音楽だった。切なさや悲しみに抗う人の音楽だ。


 音楽における戦いとは、きっと相手を叩きのめして傷つけることではない。


 不条理に痛めつけられ膝を抱える人たちや、悲しみに打ちのめされ顔を伏せる人たち、恋に敗れ、絶望に立ちつくし、恐怖におののき、無力感に(さいな)まれ、巨大な運命の前に膝を折る人たちの心に深く刻まれた、あらゆる傷痕と、彼は戦う。


 時に寄り添い、時に慰め、時に励まし、その響きの中に彼らの悲しみや絶望を少しだけ溶かして、手の届かない彼方へ洗い流す。


 きっと音楽は戦争を止めないだろう。貧困を救わないだろう。あらゆる現実の不条理、物質的な不平等、あらゆる形のある悲劇に対して、無力で、無意味で、無価値だろう。


 けれども、彼の音楽は、そんな悲劇の真ん中にいる人たちの心を、直接救い得る。その一瞬、彼らは不幸ではないのだ。


 3楽章のきらびやかなピアノが最後のフレーズを歌った時、勇吾くんは跳ね上げた右手の人差し指を立て、聴衆はオーケストラの後奏も待たずに雷鳴のような拍手を浴びせた。


 総立ちのギャラリーから「ブラボー!」と「アンコール!」の叫びが入り乱れて、ほとんどデモみたいに騒然とする中を、勇吾くんと指揮者とヴァイオリンのリーダーみたいな人が3人並んで、子どものころから一緒にいたずらをしてきた友だち同士みたいに、拳を打ち合わせ、笑い合って、それから客席に頭を下げると、喧騒は一段と熱量を上げた。


 拍手の音が鳴り止まない。


 机の上から引き抜いて重ねたティッシュペーパーを破るような勢いで、私は鼻をかんだ。


 多くのピアニストから夢を刈り取り、おびただしい怨嗟(えんさ)と嘆きの声を一身に浴びながら生きてきた【ピアノの悪魔】は、その瞬間、世界から祝福されていた。


 自分の好きな人が、世界中から愛されている。


 私はとても幸せだった。


 勇吾くんは再び、鍵盤の前に座る。


 そしてそっと、とても大切なものを慈しむように、鍵盤に触れた。


 フランツ・リスト『愛の夢ー3つのノクターンS.541』より

  第3曲『O lieb so lang du lieben kannst』


 その美しい、夢のようなメロディーが、あの超絶技巧の悪魔のようなピアニスト、フランツ・リストによるものだということを知った時、私は驚いた。


 リストという人は、調べてみればみるほど、正体のよく分からない音楽家だった。


 彼は自分の超絶技巧を存分に注ぎ込み、今日でも音楽史上最高難度と言われるピアノ曲を多数書いたが、一方で、ショパンがピアノという楽器にしか興味を示さなかったのとは対照的に、オーケストラ作品でも『交響詩』という新しいジャンルを確立し、また実は多数の宗教曲も残しているという。


 そして、今勇吾くんの弾いている『愛の夢』も、元はリストの書いた歌曲を本人がピアノに書き換えたものだった。


 穏やかなメロディーが、夢のようにおぼろげな響きで、私の全身を優しく揺するように響いた。


 その歌は、彼の心から発して指先に伝わり、指先から鍵盤へ、鍵盤の動きに連なったハンマーに乗ってピアノの弦を叩き、ピアノという楽器全体に伝わってホールに満ちた空気を震わし、マイクの振動板から磁石とコイルによって電気信号へと変換されると、電子の海を泳ぎ、遥か8千5百キロの彼方から、大陸を越え、海を渡り、今、私の耳にはめた小さなイヤホンから私の鼓膜を震わして、やがて心に届いた。


『O lieb so lang du lieben kannst

(愛しなさい。あなたの愛し得る限り)』


O lieb, so lang du lieben kannst!

(愛しなさい。あなたが愛し得る限り)

O lieb, so lang du lieben magst!

(愛しなさい。あなたが愛を望む限り)

Die Stunde kommt, die Stunde kommt,

(その時は来る。その時は来るのだ)

Wo du an Grabern stehst und klagst!

(あなたが墓の前で嘆き悲しむその時が)


Und sorge, das dein Herze glüht

(心を尽くしなさい。あなたの心が燃え上がり)

Und Liebe hegt und Liebe trägt,

(愛を育み、愛を携えるように)

Solang ihm noch ein ander Herz

(愛によってもう一つの心臓が)

In Liebe warm entgegenschlägt!

(温かい鼓動を続ける限り)


Und wer dir seine Brust erschließt,

(あなたに心を開くものがあれば)

O tu ihm, was du kannst, zu lieb!

(愛のために尽くしなさい)

Und mach ihm jede Stunde froh,

(どんな時もその人を喜ばせ)

Und mach ihm keine Stunde trüb!

(どんな時も悲しませてはならない)────


 中間部を過ぎてやっと、リスト的な技巧を見せる部分に差し掛かり、彼は上体を揺らした。


 それは、彼にとってはとても珍しいことだった。身体の全てを使って、心をピアノに伝える。深い音で、とても遠くへ響かせるように。


 8千5百キロの彼方へ────


 演奏が終わって、勇吾くんに暖かい拍手が注がれている時、スマホにメッセージの通知があった。


 真樹さんからだった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 愛の夢をいくつか動画サイトで聴きながら読みました。てっきり最初からピアノと歌がセットかと思いきや、ピアノだけのものと歌のあるもの両方ありました。 ピアノは幻想的な音色でどこか夢の世界のよ…
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