14-7.「私はたった一人に聴かせるために弾くのだ」/呉島 勇吾
『花森 咲子のショパコン突撃インタビュー!』
発表直後の審査員、蟹江 史子先生にお話をうかがいました!
──長い審査お疲れ様でした。そして、日本人としては、本当に嬉しい結果となりました。
そうですね。1位の呉島 勇吾さん、2位のルドヴィカ・ゲレメクさん、共に素晴らしい演奏でした。もちろん、それ以外のファイナリストも素晴らしい演奏を披露してくれましたが、やはり今回は、この2人が飛び抜けていました。おそらく、ほとんどの審査員が呉島さんとゲレメクさんの間で、悩みに悩んだ結果、呉島さんを1位に挙げたのではないでしょうか。
──審査員の間で、優勝についての意見は一致したのでしょうか。
正直に申し上げて、ここの順位は意見が割れるのではと思っていたのです。上位2名は、呉島 勇吾、ルドヴィカ・ゲレメクで決まりとして、ではどっちがどっちなんだと。しかし、蓋を開けてみると、ほとんどの審査員が私と同じように、迷った挙句、呉島さんを推しました。
ですから、意外にこの上位2名はすんなりと決まったのです。
──決め手というのは、どこだったんでしょうか。
どちらの奏者も、素晴らしかったのは、ショパンの様式というものを、完璧と言っていいほど遵守していたことです。若い方が聞くと、こういう言い方は古臭くて詰まらないと感じるかもしれませんが、彼らの演奏を聴いて分かる通り、その音楽は古臭くもつまらなくもない。
昨今では、聴衆を沸かせるためには楽譜のテキストにないことをやったり、斬新を通り越してオリジナルと言ってもいいような解釈で音楽を捉えたりということが、ある意味まかり通っていて、審査員も半ば諦めのような気持ちで「私たちの頃とは時代が違うんだ」というように、若い方の感性を認めようという方向に傾きかけていたのです。
そんな中、今回上位入賞のお2人は、「ショパンが書いたことだけで、十分聴衆を感動させられる」ということをあらためて訴えて下さいました。本当に素晴らしかった。
ですから、私も大いに迷いました。
自分の審査員人生で、こんなことを言う日がくるとは思いもしませんでしたが、勝敗を分けたのは、テクニックです。
──「テクニック」が勝敗を分ける……それは、当たり前のようで、意外に珍しいことですよね。
このコンクールでは特に、「素晴らしいピアニストではあるが、ショパニストではない」という文句が、常套句のように使われてきました。
正直に申し上げて、呉島 勇吾さんというのはそのタイプだと思っていたのです。これは私以外の審査員の口からも、前評判の時点で度々聞こえてきたことで、実際、予備予選の演奏にはそれに近いものがありました。
ですから、本戦もおそらく「リストのように弾くんだろうな」という、一種の侮りがあったように思うのです。
「素晴らしいテクニックを持っているけれども、ショパンではない」という理由で、2次か3次あたりで落選するような。
──しかし、蓋を開けてみると……
お聴きの通りです。何か、人生に発見があったのかしら。
例えば、好きな子ができたとか(笑)
お2人の演奏は、疑いようもなくショパンでした。これに表現や解釈という観点で優劣をつけるとすれば、もうショパンご本人にお越しいただくしかない。
しいて言えば、呉島さんのコンチェルトは、今まで聴いたこともないような演奏でした。しかしこれも、その作曲の背景や、ショパンという人の生涯を思えば、「ああ、確かにそういうところもあるはずよね」と。
そして、ゲレメクさんのコンチェルトも素晴らしかった。愛に溢れて、可愛らしくて、あの小さな身体いっぱいに「ショパンが好き!」って言うような。
──そこで、勝敗を分けたのは『テクニック』だったわけですね。
そうですね。1次からファイナルまで、全くブレない安定感と、音色や奏法の多彩さ、音の粒立ちと伸び。『ショパンの様式』という枠の中で、あれだけ聴衆を沸かせられる。
私は、誰の心にも人を感動させられる何かが眠っているはずだと信じていますが、それを芸術という形で出力するのは、結局のところテクニックなんですね。
──呉島さんといえば、コンチェルトでの、指揮者との睨み合いが印象的でした。
そう! ボクシングの試合前みたいな(笑) それから拳を打ち合わせて。
3次審査の直前、指揮者のノヴァコフスキさんとお話しする機会があったのですが、「彼はとんでもないソリストだ。あんな奴見たことない」みたいに仰ってて。
呉島さんといえば、やんちゃだっていうお話も聞いていたので、「これはイヤな揉め方をしたかな」と心配していたんですが、いざ始まってみれば、オーケストラを全部巻き込んで、じゃれ合うみたいに楽しんでる。あれはもう、他の誰にもできません。まだ15歳でしょ? 不思議な子ですよね。
✳︎
俺は赤面した。
蟹江 史子というのは何十年だか前のショパン・コンクール入賞者で、以来長いこと、このコンクールの審査員を務めているのだそうだ。
その婆さんが、今俺の目の前にいて、自分のインタビューが音楽雑誌のホームページに載ったから見ろと言うのだ。
そして、「どう? 良いこと言ってるでしょ?」と無邪気に笑う。
「ああ……ありがとう」
俺はやや引き気味に返事をした。
「それで、どうかしら。もう少しワルシャワに残って、ショパンを研究してみない?」
俺の目を覗き込むようにして、蟹江は言った。若い女に見えるわけではないが、どう見ても70近いとは思われない。50代前半くらいに見えることを若々しいと言うべきなのか分からないが、とにかくそのくらいに見えた。
「実は、ラッドにも言われたんだけど、俺は日本に帰るよ。決めてたんだ」
「ラッドって、指揮者の?」
「ああ。ラドスワフ・ノヴァコフスキ。『お前は指揮者になるべきだ』って」
「それって、すごいことだわ。興味ないの?」
「俺は曲も書くから、必要があれば振る。でも一番大事なのは、友だちとか、彼女と過ごすことだ」
「あなたは、周りの人をとても大切にするのね」
「俺は家族に恵まれなかったから、愛情をたっぷり持て余してるんだ」
俺が笑ってそう言うと、蟹江は口元を押さえて、それから人差し指の関節で目尻をぬぐった。ピアニストの指だった。
ノックの音が鳴って、控室のドアが開いた。
「お時間です」ドアの隙間から入ってきた若いスタッフが言った。
「勇吾くん、最終日、楽しんじゃえ!」蟹江はガッツポーズを見せる。
「蟹江さん、ありがとう」とお礼を言った。
俺には大きな誤算があって、3日間行われる受賞者コンサートでは毎回アンコールが弾けるものと思っていたのが、通例アンコールは最終日だけだというのだ。
俺は社長に相談したが、こういう時には本当に役に立たない男で、事務局には一切コネがないので無理だと言う。
そこで俺は、コンサート初日の授賞式を終えた後、声をかけてきたこの蟹江に、ちょっとした口利きをしてもらおうというくらいの了見で、アンコールを弾かせてくれと交渉してみたのだ。
3日間同じ客が入る訳でもあるまいし不公平だとか、協奏曲の2番は1番より10分は短いのだから時間が余るはずだとか。
すると意外にも、「弾いちゃえばいいじゃない」とこともなげに言う。
そればかりか、初日のコンチェルトを弾き終わると、この蟹江が客席から叫んでくれたのだ。
「アンコォォォオオル!」
客席がドッと沸いて、お祭り騒ぎのような雰囲気になったので、俺は寧々が気に入ってくれた、リストの『ハンガリー狂詩曲 S.244 第2番 嬰ハ短調』を弾いた。
後で聞いたが、なかなか評判は良かったらしい。
✳︎
控室を出ると、指揮者のラドスワフ・ノヴァコフスキは、睨むのと笑うのと半々くらいの感じで俺を出迎えた。
「悪童、気は変わらんか?」
「指揮者の話?」
「ああ。ピアノという楽器は、お前には小さすぎる」
この男は、よほど俺を指揮者にしたいらしい。ファイナルの演奏が終わってから毎日これだった。
「指揮は勉強してえけど、日本に帰る方が優先だからな」
「ワルシャワでなくとも、ヨーロッパで学ぶべきだ。恋も大事だろうが、西洋音楽の歴史と伝統を呼吸できるのは、間違いなくこの地だ」
「伝統ったって、バッハで3百何十年だろ。地球の生物が初めて有性生殖をしたのは5億6500万年前だぜ。恋の伝統に比べれば屁でもねえわ」
ラッドは深みのある低い声で笑った。
慣れてしまえば、ノリの良い男だった。
受賞以来、俺はもう何件か数えるのも億劫になるほどのインタビューを受け、そのほとんどで協奏曲について質問された。ショパンの2曲の協奏曲のうち、2番は圧倒的少数派で、これで優勝したのは過去に2人しかいなかったからだ。
選曲の理由について、俺は「前奏が短いから」と答えたが、そのうちいくつかのメディアで「オケが良かった」という意味のことを言ったので、ラッドは一層気を良くしたらしい。
コンサート2日目、ちょっとしたサプライズを提案すると、ラッドは引くほどノリノリでステージへ上がり、協奏曲の1番を振った。
自分が本戦で弾かなかった方を受賞者コンサートで弾くというのは前代未聞だそうだ。
その日のアンコールは、ドビュッシーの『前奏曲集第1集』より、8番『亜麻色の髪の乙女』を弾いた。
──「行こうか、悪童」
ラッドは俺の肩をたたく。
「ああ。勝負だ」
「よく言う。お前、全く別のところを見ているだろう。聴衆でも、我々でもない、全く別の方向を」
俺は喉の奥で笑った。
「ショパンって男は、俺にとってあまり共感できない音楽家だった。でもやっぱり人間同士だから、通じ合うところもあるんだよな。
『彼は何千人に聴かせるように弾くが、私はたった一人に聴かせるために弾くのだ』」
「よそ見をしていられるのも今の内だ。お前はこのたった3日間で、私のオーケストラを1段も2段も上の段階へ引き上げてしまった。これからもそうだろう。お前と出会った音楽家たちは、お前の音楽を通して次のステージへ引き上げられ、そしてやがて、お前自身を脅かすぞ」
「そいつは楽しみだ」
ステージへ続く扉が開いた。
俺はたった一人、寧々のために弾く。
ホールにいる聴衆たちは、その反響板なのだ。彼らの心に強く響くほど、きっと寧々にも俺の音は強く響く。
「さあ、最後のステージだ。沸かすぜ、悪童!」
「ああ、ブチアゲようぜ、マエストロ!」────





