14-6.あらゆる方向に、あらゆる価値が/篠崎 寧々
『ショパン国際ピアノコンクール優勝! 呉島 勇吾 史上最年少、日本人初』
10月20日(日本時間21日未明)ワルシャワでは華麗にして熾烈なデッドヒートを制し、呉島 勇吾が本コンクール史上最年少にして、日本人初の快挙を成し遂げた。
第XX回フレデリック・ショパン国際ピアノコンクール最終選考は、コンクールのホーム、ポーランドのピアニストにして生粋のショパニスト、ルドヴィカ・ゲレメク(17)と、【ピアノの悪魔】呉島 勇吾(15)、一騎討ちの様相を呈し、また、副賞のマズルカ賞、ポロネーズ賞、ソナタ賞、コンチェルト賞も、この2名で独占という形となった────
道着からジャージに着替え終わり、スマホでネットの記事を見つけると、ニヤニヤしてしまった。
「クソっ……こんなヤツに……」とマユが悔しそうにこぼす。
改めて行われた、団体戦出場枠を争う部内選考試合、私はこれを、全勝で終えた。
これは私が1週間稽古を抜けたために行われた試合なので、勝っても大将に上がるわけではなかったが、副将の地位を、文句なしで守ったことになる。
「たった1週間でここまで……ワルシャワで一体、どんな修行を……」
アヤカ先輩にそう聞かれたので、私は答えた。
「素振りをめちゃくちゃやりました。それから相当走り込んだし、木刀で机を叩いたり、ポーランドの男の人を2人引きずったり……」
しいて言うなら、そうだ。
素振りの回数自体は、多分あまり問題ではなかった。大きかったのは、その中で納得出来る振りを掴んだことだ。そして何より、心の中から迷いが消えた。
弱くても、足りなくても、それでもこの手に残っているわずかな力を全部注ぎ込んで戦う。全てはそこから始まるのだ。
急いで身支度を整えると、「お先に失礼します!」と部員たちに挨拶をして、格技室を駆け出した。
まずは、寝る。家に帰ったら急いで晩ご飯を食べて、お風呂に入り、すぐ寝る。
夜中の3時ころ、勇吾くんの入賞者コンサートを配信で聴くためだ。
私はファイナルの演奏をリアルタイムで聴くことが出来なかった。
というより、聴かないことを、勇吾くんと約束していた。
私は私の戦いに、全霊をもって臨まなければならなかったからだ。
しっかりと睡眠をとって、今日のこの試合に臨むことは、私と勇吾くんが闘志で繋がっていることの、一つの表現だった。
駆け込むように駅に着くと、電車を待つ間、勇吾くんにメッセージを打った。
「私も勝ったよ! 全勝!」
ワルシャワは、ちょうどお昼だ。
すぐに返信があった。
「流石! 日本に帰ったら、お前の試合を見に行く。
あと、もう少ししたら、俺はテレビに出るぞ」
✳︎
家に帰った時、真樹さんがいて驚いた。
「お邪魔してました」と彼女はスッキリした声で言ったが、目元が少し腫れぼったく見えた。
そして、口調が『よそ行きモード』だ。
聞けば、私の旅費を出してくれて色々面倒を見てもらったというので、両親が何かお礼をという話をしたところ、「いやいや、そんな」「いえ、こちらの気が済みませんので」といった大人特有のやり取りがこじれて、ウチでご飯を食べることになったそうだ。
しかしそのおかげで、私もまんまとお寿司の出前にありつくことになった。
テレビでは報道番組が流れていて、スタジオの男性キャスターが明るい声で言った。
「──さて、呉島 勇吾さんと、リモートで中継がつながっております」
あらためて、すごいことなのだと思った。
「真樹さんは、勇吾くんと話したんですか?」と聞いてみたが、彼女は、いいや、と否定して、それ以上は答えなかった。
テレビ画面に勇吾くんが映ると、思わず歓声をあげてしまった。
多分、パソコンのカメラからだろう。画像が荒い。部屋の壁の感じに見覚えがあった。コンクール事務局から提供されているという、彼のホテルだ。
白いタンクトップの上から茶色の薄いロングカーディガンを羽織ったラフな格好で、カーディガンとタンクトップの間から見える素肌が強烈にエロいと私は生唾を飲んだ。
「呉島さん、おめでとうございます。史上最年少、日本人初の快挙です」
キャスターが言った。
「ありがとうございます」少したどたどしく、勇吾くんは答えた。
「一夜明けて、今のお気持ちはいかがですか?」
「もうすぐ日本に帰れるので、それが楽しみです」
キャスターは少し驚いたようにたずねた。
「日本で生活されてから、半年くらいとうかがっていますが、帰りたいという気持ちがありますか」
「好きな人がいるので」
おおっ! とスタジオがどよめく。
顔が熱くなった。この人は、照れ屋さんかと思いきや、急にこういうことをサラッと言ったりする。
両親はあえて触れないように口を固く結んでいる。こちらはお茶の間ですので……
「それは、とても興味のあるお話ですが、コンクールのことを聞かないと怒られちゃうんですよ」
キャスターが慣れた調子でおどけると、勇吾くんは声を出さずに笑った。
「結果発表が、そちらではとても遅い時間だったと思いますが、どういうお気持ちで待っておられたのでしょうか」
勇吾くんは、一瞬不思議そうな顔をしてから答えた。
「俺は子どもなので、とても眠くて」
私の両親が、声を揃えて笑った。
可愛い。
「優勝が発表された時のお気持ちはいかがでしたか?」
勇吾くんはいよいよ戸惑ったというふうに、少し悩むようにうなってから答えた。
「こんなに、気持ちについて聞かれるとは思ってなかったから、逆に聞きたいんですが、音楽にはあまり興味がないですか?」
キャスターは意表を突かれたらしく、「いや、えー……」と、しどろもどろに言い淀んだ。
そこで勇吾くんは何かを察したように質問に答えた。
「優勝が発表された時は、安心したって感じでした。当然そのつもりだったけど、ルドヴィカがずっと良かったので」
「2位のルドヴィカ・ゲレメクさんですね。やはり注目されてましたか」
キャスターは話がレールに戻ったことにホッとした様子で言う。
「注目というか、ショパン弾きとして尊敬します。人間としても」
「なるほど……」キャスターは、この話を広げるか迷うような間を空けて、結局話題を変えた。「呉島さんと言えば、荒々しいキャラクターも話題になっていましたが、今日は大人しめですね」
多分この人は、勇吾くんのそういうところが話題を呼ぶのを期待したのだろう。
リビングに、ピリッとした空気が流れた。
「練習したんですよ」と勇吾くんは言った。「元々育ちが悪いので、俺が礼儀知らずなことを突つき回されることで、大事な人たちに迷惑がかからないように」
キャスターは慌てたように言い訳をする。
「ああ、いや、以前取材で『俺がナンバーワンだ!』と力強く仰っていたのが印象的で……」
つまり、勇吾くんは報道の過熱が自分だけじゃなく周囲へも迷惑になるということを遠回しに指摘したのだ。そしてキャスターの挑発も浮き彫りになる。
真樹さんが笑った。「社長の入れ知恵ね……」
(いや……「ね」?)という視線を真樹さんに送る。
彼女はそれに答えず続けた。
「今後はメディア対応が勇吾の課題になる。『下手につつくとしっぺ返しを食うぞ』っていう牽制なのよ」
(「なのよ」って言った?)とも思ったが、言われてみるとうなずける。
「じゃあ、最初から?」
真樹さんはうなずく。
「『音楽に興味はないのか?』ってつついたのも、相手の敵愾心を微妙に刺激するためでしょうね。そうすれば、勇吾がここまで敬語で喋ってきたことを、相手もつつきたくなる。あえてそこを突かせることで、『子どもの俺が、迷惑な取材から大事な人たちを守るために、あんたたちの流儀に合わせたんだ』っていうメッセージが効く」
意外だった。
「勇吾くんが、そういう指示に従ったんですか?」
「案外簡単なのよ。こう言えばいい。『次はメディアとの戦いだ』」
「ああ……なるほど」
それなら確かに、彼はノリノリで戦いに行く。相手が巨大であるほど。
テレビでは、キャスターが勇吾くんのこれまでの活動についてたずね、彼はそれを微妙にぼかしながら答えた。
「これからの活動については、どうお考えですか?」
「まず、3大コンクールを制覇します。今回ショパンは獲ったので、次はエリザベート王妃国際、そしてチャイコフスキー国際」
キャスターが、おおっ! と仰け反る。
「『したい』ではなく『します』なんですね」
「そうです。必ずやらなければならないことなので。
今まで、俺のピアノを聴いて音楽の道を諦めた人が沢山いたと聞いてます。俺はこれまで、そういうことに気が回らなかった。
だから、これからは俺がどういうふうにピアノを弾いてるか人に伝えて、俺のピアノでこの道を目指す人が増えるような活動をしていきたいと思っています。
そのためには、俺のピアノが、他人にとって教わる価値のあるものだと客観的に証明しなくちゃいけない」
「それは、ショパン・コンクールで十分にも聞こえますが……」
「ショパン国際は特殊なコンクールです。弾くのはショパンだけ。じゃあ、バッハは? モーツァルトは? ベートーヴェンは? 他のロマン派や現代音楽は弾けるのかという話になる」
「つまり、コンクールは音楽を教えるための手段ということでしょうか?」
「いえ、あくまで中心は演奏活動です。それに俺は戦うことが好きなので、他のコンクールも含めてガンガン戦いに出るつもりです」
「音楽に順位をつけることを疑問視する声もありますが」
「例えば……」勇吾くんはそこで言葉を探すように間をおいた。
「テニスの好きな人がいて、彼は、ボールを打った時グリップから手のひらに伝わる感触や、会話のようにラリーのやり取りをするという身体活動そのものを楽しんでいる。
そんな時、一方でウィンブルドンではトップ選手がガチガチに勝ち負けを争っていたとしたら、『テニスという体験』が彼の身体にもたらした純粋な喜びの価値は、損なわれると思いますか?」
「いえ、私個人としては……」と、キャスターは言い淀む。
「俺は、自分の彼女に、ちょっとだけピアノを教えました。彼女のピアノは下手くそです。でも俺は、その下手くそなピアノが可愛いと思った。
上下をつけるのが悪いんじゃない。悪いのは、上にしか価値を見出さないことです。
俺はどこかへ進むとしたら上に行く。でもそれはあくまで俺はそうするってだけの話で、上にも下にも、前後左右、あるいは『伝統』、あるいは『革新』、価値は4次元的に、果てしなく広がっている。ある方向を突き進めば、俺とは全く違う方向を向いた怪物が現れ得る」
「なるほど……」
キャスターが苦し紛れに相槌を打つ。
勇吾くんには目的があって、このキャスターは彼に利用されているのだと気付いた。
「そういう意味で、俺には注目しているピアニストがいます」
「ほう、それは?」
「柴田 真樹」
勇吾くんは言った。「俺とは違う、遅咲きで努力型のピアニストですが、彼女は天才です」
真樹さんがソファの背もたれに仰け反った。
「あいつ……」
「どうせ見てるだろうから、この場を借りて言います。
ピアノを弾け、真樹。俺と同じ方向を目指さなくていい。自分の弾きたい方へ向いて、アンタのピアノを弾いてくれ。アンタは、俺と同じ深さで呼吸ができる。俺が保証する」
「勇吾……」
そして、真樹さんはやっと、声を出して泣いた。





