14-5.あなたのために、アンコールを/篠崎 寧々
1週間ぶりの学校は、なんだか居心地が悪かった。
土曜日の早朝に家を出て、ワルシャワへ飛び、1週間を回って帰って来たのが日曜の夕方、学校を休んだのはその間の平日5日間だけだったが、どうやら私はワルシャワへ『愛の逃避行』を断行したことになっていて、どうも「悪い男に染められた」みたいな印象がついてしまっているようなのだ。
剣道部のみんなには、一応事情を(『勇吾くんがピンチ』くらいのものだけど)を話していて、彼女たちが普通に接してくれたのが救いだったけど、遠巻きにヒソヒソやられている感じが落ち着かなかった。
もうちょっと、ゆっくりめに教室に入るべきだったかな……と思い始めたころ、隣のクラスのマユがズカズカ教室に入って来て、私の机に両手を叩きつけた。
「YoYoYo! 覚悟は出来てんだろうな!」
「ラッパー?」
「うるせえわ。この大事な時期に1週間も稽古空けやがって」
「応援してくれていると、解釈していたのですが……」
「ソレとコレとは話が別だぜBad girl! アタシは今日、アンタを叩きのめして天辺へ昇る!」
何そのテンション……と思わないでもなかったけど、私も、覚悟は出来ていた。
ワルシャワへ発つと決めた時、私はその代償に、Aチーム副将の地位を賭けたのだ。帰国後最初の稽古で、再び選考試合を行う。
私はそこで証明するのだ。
「上等だよマユ。かかって来い」
マユが「ふふん」と笑った。
不意に教室のスピーカーがじりじりした音を立てて、放送が流れた。校長先生の声だ。
──「これより、臨時の全校集会を行います。全校生徒は、体育館へ集まってください」──
(来た……!)
私は胸の前に拳を、いや、正確には、制服のブラウスの中に提げている琥珀のペンダントを握った。
✳︎
「今日の朝方3時半ころ、本校の生徒、呉島 勇吾くんが、『フレデリック・ショパン国際ピアノコンクール』最終選考の演奏を終えました。そして、これより、結果発表が行われるとの報道がありましたので、皆さんでこの瞬間を見守りたいと思い、お集まり頂いたわけです」
壇上で、校長先生が言った。
ステージの奥のスクリーンには、見覚えのある内装が映し出されていた。
人がごった返して印象が違うけど、ワルシャワ国立フィルハーモニーホールのロビーにある螺旋階段だ。
報道陣と、一般の人もいるのだろうか、そのうちの何人かが、必死に手を伸ばして、まだ誰もいない螺旋階段を、前の人の頭越しにスマホで撮影したりしている。
螺旋階段の途中には、スタンドマイクが2本立てられていた。
校長先生はスクリーンを遮らないようにその傍に立ち、横目で映像を確認しながら続ける。
「こうした世界最高峰のコンクールにおいて、最終選考まで残るということ自体が、途方もないことではありますが、これまで日本人の最高順位は2位が2名、仮に優勝ということになれば、我が国の音楽史を塗り替える快挙となります。
私は配信で彼の演奏を視聴しましたが──」
と、そこで、スクリーンに映る螺旋階段の上からスーツ姿の、いずれも少し年配の男女がひと塊り、もったいつけた調子で段を降りて、その途中、少し裾の広くなった辺りで止まった。
音声がざわざわして、続いて拍手が起こった。
スタンド・マイクの前に立った、紺色のスーツを着た男の人が、何か言った。しかし、そこにいる人混みから聴こえるざわめきと反響がすごくて、それが英語なのかポーランド語なのかも定かでなかった。
ステージの下から、英語の先生が駆け寄って、校長に何か言った。
一言二言相談すると、校長先生がこちらに向かって言った。
「今、コンクール事務局が動画サイトで配信している動画を映していますが、どうも……こちらのテレビでも中継されているみたいですね。実況が聴けると思いますから、今……映像を切り替えます」
映像が一度切れて、それから再び映った。同じような角度だったが、少し画像が鮮明だった。
「今回のコンクールは……非常に高い水準の……ショパンの音楽を、非常に高い水準で、かつ、正統的な解釈を──」
途切れ途切れに日本語を話すのは同時通訳だろう。
「──200年の時を超えて、フレデリック・ショパンの音楽が、こうして若い世代へと、時代時代の光をあてながら継承されていくことを、我々は大変誇らしく思います」
私はスクリーンに映る人ごみの中に、勇吾くんの姿を探した。が、人混みに遮られてか、画面の外にいるのか、どれだけ目を凝らしても、見つけられなかった。
「──それでは発表します」
通訳のたどたどしい声がそう言った時、心臓が一拍強く打った。
カメラが向きを変えて、スポンサーのロゴが並ぶ白いボードの前に並んだコンテスタントを映したのだ。
思わず声を上げそうになって口を押さえた。
10人の男女の中に、勇吾くんがいる!
ステージ衣装とはまた別の、薄いグレーのスーツ、ジャケットの中に白いシャツを着ている。
とてもスッキリした顔をしていた。が、私は少し、モヤっとしたものを感じないでもなかった。
隣にルドヴィカちゃんがいて、勇吾くんと何か話している。しかも、すごく親しげだ。
きっとポーランドの民族衣装だろう、花の刺繍が入ったスカートをはいている。お人形さんみたいだ。すごく可愛い。
「第6位──」
拍手とざわめき、カメラのフラッシュの音が響く。
何か、名前を言ったはずだが、もう、「呉島 勇吾」以外の言葉を受け付けないみたいに、頭に入ってこなかった。
ファイナリストは10名。内6位までが入賞となる。
同じ順位に複数名が選ばれることもあれば、1位なしということもあるのだと、スタジオにいる解説みたいな人が言った。
6位から逆順に、一人ずつ名前が呼ばれるたびに、体育館では安堵と焦燥の混じったようなどよめきが起きる。
この順位でなくてよかった。でも入賞を逃すかもしれない。そういう意味合いのため息で、体育館が満たされる。
この学校で、クラシックやこのコンクールに最初から関心のあった人なんて、きっと、半分どころか、3分の1もいないだろう。私もそうだ。
有名になると知人が増えるというのは、こういう感じなのかもしれない。
「副賞が出ませんね……」と解説が言った。
このコンクールには1位から6位の入賞の他に、マズルカ賞、ポロネーズ賞、ソナタ賞、コンチェルト賞という副賞があって、通常名前が呼ばれた時に、その人が獲った副賞も発表されるのだそうだ。
「第2位……」と聴こえた時、琥珀のペンダントを握る手に力がこもった。緊張で、クラクラする。
「──ルドヴィカ・ゲレメク。ポーランド」
スタジオの解説が、「おおっ!」と声をあげた。その歓声の意味するところは、私にも明らかだった。
続いて、同時通訳がこう続ける。
「ポロネーズ演奏最優秀賞、マズルカ演奏最優秀賞、ルドヴィカ・ゲレメク」
そう言われると、スクリーンの中のルドヴィカちゃんが、ニコニコしながら手を挙げて、その歓声に応えた。
その隣で、勇吾くんが天井を仰ぐ。口元が動いた。
私には、彼が何と言ったか、はっきりと分かった。
「クソっ……!」に違いない。
「優勝……」
もう私は、確信を持っていた。
通訳を待つまでもなかった。
「Mr.Yugo Kureshima from Japan」
体育館の中にも、この放送を流しているスピーカーからも、拍手と歓声がけたたましく鳴って、空間を埋め尽くした。
リポーターが興奮気味にまくし立てる
「優勝です! 呉島 勇吾さん優勝! 日本人初、そして史上最年少記録も大幅に塗り替え、フレデリック・ショパン国際ピアノコンクール優勝です!──」
と、それから、「あ、副賞がありますね……」と興奮を抑えて声を低める。
「ソナタ演奏最優秀賞、コンチェルト演奏最優秀賞……ユーゴ・クレシマ」
スクリーンの中で、ロビーを埋めていた人混みが勇吾くんに殺到した。
勇吾くんはいつも通り、目つきの鋭い不機嫌そうな顔で、そういう人たちが浴びせかけてくる質問に、答えているのかいないのか、何か一言二言言って、それから手のひらで遮るようなジェスチャーをすると、ポケットからスマホを取り出し、画面を触って、それから耳にあてた。
通話アプリの着信音が鳴った。
──私のポケットから。
「あっ……! ごめんなさい……」
スマホの音をOFFにしていなかったことを、誰にともなく詫びて、ポケットからスマホを取り出す。
勇吾くんからだ。
ハハッ! と、壇上で、校長が笑った。「どうぞ、出てあげなさい」
全校の視線が集まって、顔が真っ赤になるのがそこに帯びていく熱で分かった。
通話ボタンを押す。
「よう、寧々。勝ったぜ。約束通り」
「うん……おめでとう……」と言った途端に声が震えて涙がこぼれた。
恥ずかしくなって、列から体育館の後ろへ急ぎ足に抜ける。
「いや、めでたくはねえんだわ。マズルカとポロネーズを奪られた。副賞も総取りのつもりだったのによ」
「もう……欲張りすぎだよ」
「そうか。まあ、これで目的が果たせる」
「目的?」
そういえば、彼は前にも「目的はその後だ」というようなことを言っていた。
「俺は最初から──ああ、最初ってのは、お前と出会ってからってことだが──この後の入賞者コンサートのために、コンクールを戦ってた」
「そんな人……いる?」
祝勝会のために頑張るみたいな……そう考えると、なくもないのだろうか?
「優勝者だけに許された特権があるんだよ。アンコールを弾くことだ。ショパンじゃなくてもいい。そこで俺は、『お前が好きだ』ってことを弾きたかった。俺がこのコンクールを戦い抜いたのは、そのためだ」
「私のために……?」
「ああ、『お前に聴いて欲しい』って意味ではお前のためだが、聴いて欲しいのは俺だから、そういう意味じゃ俺のためだな」
「前にも、同じこと言ってた」と私が笑うと、彼も電話口で、恥ずかしそうに笑った。
体育館がどよめいていた。
後で知ったことだけど、どうやら中継のマイクがかすかに彼の声を拾っていたらしかった。





