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14-4.ヴィルトゥオーゾ/呉島 勇吾

「準備はいいか?」と社長が言った。


 俺は控え室のソファを立ち上がる。


「あんた、本物の拳銃持ってたら、俺を殺してたろ」


「どうかな。あるいは。

 モーツァルトは35歳で、ショパンは39歳で、シューベルトは31歳でこの世を去った。夭折の天才というのは、夭折であるということそのものに美があるね。

 呉島 勇吾という天才も、ここで死んだらどれだけ美しいだろうと夢想しなかったことはない。

 だが、君の物語というのは案外コメディ・タッチだ。最近になって、そのことに気付いてしまった。長生きしても、それなりにサマになるさ。目の覚めるようなピアノを弾く偏屈な爺さん。面白いキャラクターじゃないか?

 勇吾、音楽に潜るのは、もうやめなさい。あれは、どう考えても健康に悪い。夭折の天才が夭折だった理由は、ああいう過度な集中力と引き換えに、寿命を支払ったんだと思うよ。君にはもう、必要ない。君の心を弾きさえすれば」


「ああ」と俺はうなずいた。「俺には、失いたくない記憶が増えすぎた」


 控室を出る。


 通路から、扉1つ隔てて、ステージへつながっている。


 その扉の前で、ワルシャワ国立フィルハーモニーオーケストラ指揮者、ラドスワフ・ノヴァコフスキが待っていた。


「あのやり方で、後悔はないんだな」とノヴァコフスキは言った。


「逆に聞くが、毎回同じやり方で後悔はねえのか?」


 一瞬顔をしかめてから、指揮者は平静を装うように居住まいを正した。

「カメラが見てるぞ、神童」


 動画配信は、この舞台裏の通路から始まっている。


「ああ、俺らがどれだけ仲良しか見せてやろうぜ、ラッド」と俺はわざと馴れ馴れしく指揮者を呼ぶ。「俺はこれで、結構本を読むんだ。ロマン派以降は避けて通れねえからな。あんた読んだか?『ツァラトゥストラ』」


「もちろん」

 何の話だ? と(いぶか)るように、指揮者は眉をひそめる。


「『人間とは、動物と超人の間に張り渡された一本の綱である。彼方へ向かって進むも危うく、途上にあるも危うく、後ろを振り返るも危うく、慄いて立ちすくむも危うい』だけどその先に、見たこともねえ何かがあるはずだ。

 ギリッギリのキワキワを攻めようぜ。俺とあんたで、超人に向かって」


 ノヴァコフスキは仰反るように天井を仰ぐと、声を上げて笑った。


 それから、ほとんど頭突きに近い勢いで、俺の額に自分の額を押し当てた。

「ひねり潰してやるよ、クソ餓鬼が」


「やってみろ」


 アナウンスが流れる。


「いよいよ、本コンクール最後の奏者です。

『ピアノ協奏曲第2番ヘ短調 作品21』

 使用ピアノはファツィオリF278。

 ユーゴ・クレシマ、日本」──


 ドアが空いた。


 目の前はステージにつながる階段で、もう隔てるものはなにもない。


 一歩を踏み出す。


 俺の後ろでノヴァコフスキは言った。

「今日の客はラッキーだ。【ピアノの悪魔】が、この伝統あるオーケストラと共に、木っ端微塵に消し飛ぶところが見られる。あるいは……」


 俺は口の端を吊り上げて笑う。

「新しい、音楽の世界を」


 ラドスワフ・ノヴァコフスキは、俺の肩を叩いた。

「さあ、ギャラリーを沸かすぞ。悪童(Bad boy)!」


  ✳︎


 第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンの間を抜けて、ピアノへ向かう。


 客席からは、怒号に近い歓声と拍手が、叩きつけるように浴びせられる。


 ピアノの前に着くと、俺はまず、こちらを憎々しげに睨んでいるコンサートマスターに向かって人差し指を曲げ、「かかって来いよ」とジェスチャーで挑発する。


 それからオーケストラ全員に向かって、親指を自分の胸に突き立てた。


──俺の心臓はここだ! 殺してみろ! この【ピアノの悪魔】を!──


 後をついてきた指揮者のノヴァコフスキは、俺のすぐそばで立ち止まると、上から見下ろすように睨みつけた。俺も下から睨み上げる。


 普通、握手だとか会釈だとかをするべきところで、指揮者とピアニストが睨み合う異様な光景に、客席がどよめき始めたところで、ノヴァコフスキは客席を向いた。


 俺もそれにならって、客席を見渡す。


 一体、何が始まるんだ……? という疑問符を頭の上に浮かべている観客を前に、俺と、おそらくノヴァコフスキも、揃って笑った。


 拍手を受けて、ピアノの方へ向きを変えた時、ノヴァコフスキは俺に向かって拳をつきだした。俺はその拳に、自分の拳を打ち合わせる。


 その瞬間、俺たちは宿敵であり、親友だった。


 指揮台に乗り、胸の前に両手を構えて、指揮者ラドスワフ・ノヴァコフスキは俺に視線を投げた。

 ──覚悟はいいか?──


 ──とっくに、出来てんだよ──


 指揮棒が、ゆらりと軌跡を描いて振り上げられた。


 第1楽章『Maestoso(堂々と)』ヘ短調

 第1ヴァイオリンが震えるような旋律を、長く尾を引くように伸ばして、揺らす。


 それに沿って、伴奏の弦楽合奏は緩やかに下降しながら和音を広げると、急に低音を強く鳴らし、高音がそれに応える。


 肩や首の力を抜いて、項垂(うなだ)れるように目を瞑り、耳を傾けた。


 旋律が力強さを増すにつれ、客席がどよめいた。


 俺は俯いたまま、口元に笑みを浮かべる。


 全員が、我先にこの俺を喰おうと牙を剥く。


 しかし……長えな……


 こちらの協奏曲の前奏も、3分以上ある。


 やがてレガート(滑らか)な甘い主題に移りながらも、オーケストラは俺を挑発するように装飾音符を引っ掛ける。


 顔を上げた。


 オーケストラは、道を空けるように、静まっていく。

──さぁ、見せてみろ。大口叩くだけの価値が、てめえにあるのか見てやるよ──


 高音域のレ♯、両手オクターブのユニゾンで、切り裂くように指を落とす。


 鮮烈に。

 ショパンは、当時のピアノで最高音域に近いレ♯のユニゾン、これに作曲家としてのデビューを賭けた。和音はない。ただ高いオクターブのレ♯を鮮烈に。


 そこから5オクターブを雪崩落ちるように下降して、低音のトリルをかき鳴らし、さらに下降してふわりと浮かぶ。


 第1ヴァイオリンが弾いた冒頭の切ない主題が、装飾音符や細かい連符、トリルといった即興的な変奏を加えながら繰り返されていく。


 歌うように。


 ピアノという楽器は、一度鍵盤を叩けば後は減衰していくしかない。


 一度出した音を次の音に向かって強めることも、滑らかに移行することも、伸ばした音にビブラートをかけることもできない。


 トリルや連符は、技巧をひけらかすためではなく、このような楽器の音が、それでも『歌』であるために存在する。しかし、そうした細かな音符を『歌』に出来るのは、確かな技巧を持った者だけだ。


 5連符、7連符、19連符という割り切れない連符を挟みながら、技巧的に、しかし歌うように音楽は流れて、その途中、夢見るような旋律にかかると、俺は寧々の横顔や、俺の肩に頭を乗せた彼女の温もりを思い出す。


 しかしそれも束の間のことで、やがて悲壮な決意を固めて駆け出すように、速く、力強く折り重なって、俺を飲み込もうと襲いかかるオーケストラに、重音トリルで抗う。


 俺はもう少しで16歳になる。


 たったそれだけの短い人生にさえ、掻きむしりたくなるような苦悩があった。だがそれでも、幸せというものの影を、俺は確かに見たのだ。


 その美しさに打ち震えるような幸せの影を。


 だから俺がこの人生を何度繰り返して、その度にクソみたいな出来事が降りかかったとしても、俺はその先へ挑みかかっていける。


「そうか。人生とはこういうものか。なら、もう一度かかって来い!」

 そう声を荒げて────


  ✳︎


 俺は寧々と出会ってから、こういう曲を弾くことに、少し抵抗を覚えるようになっていた。


 第2楽章『Larghetto(ややゆったりと)


 ショパンはこの協奏曲を、この2楽章から書いた。

 ワルシャワ音楽院で出会ったソプラノ歌手、コンスタンツィア・グワドコフスカを想って書いたのだと、ショパンは親友への手紙に(つづ)っている。


──僕は悲しいかな、僕の理想を発見したようだ。この半年間、 僕は、心の中で彼女に忠実につかえてきたが、まだ一言も口をきいていない。僕は、彼女のことを夢に見、彼女のことを想いながら、僕のコンチェルトのアダージョを書いた──


 こういうところが嫌なのだ。ウジウジしやがって、みっともねえ。好きなら「お前が好きだ」とはっきり言えよ。


 だが、何より一番嫌なのは、そんな短い言葉ではとても伝えきれない想いが、「人を好きだ」という言葉の内包する膨大な心の情報が、音楽を通して俺の中にもある同じ部分に響き合い、俺の言葉としてピアノを鳴らすことだ。


 そして、こう思うのだ。


 ああ、音楽とはこういうものか。自分の心臓を抜き出して、聴衆の前に晒すのだ。

「見ろ。これが俺の『心』だ」と。


 俺はこの旋律に、寧々のぷっくりして赤みのさした頬や、まつ毛の長いくりんとした目や、大の男を2人も引きずり回すパワフルな四肢を想う。

 彼女と眺めた水平線に沈む夕陽や、真っ暗な岩山から見上げた花火や、ヴィスワ川のほとりから見渡した街の灯り、何もかもが不十分な狭い部屋に2人、肩を寄せ合って過ごした静かな時間を。


──伝えたいことはたくさんあるが、私はそれを、全部ピアノに言わせるのだ──


  ✳︎


 2楽章の最後の響きがまだホールの天井に残っている。


 その残響の中に、俺は3楽章の冒頭を重ねた。


 第3楽章『Allegro vivace』ヘ短調〜ヘ長調


 ショパンの代名詞とも言えるマズルカのリズムを軽快に連ねて、挑発するように腕を跳ね上げると、オーケストラはそれに怒号で応え、ストリートのダンスバトルみたいに「ハッ! そんなもんか?」と急きたてる。


 俺はそれを鼻で笑い、マズルカのリズムに乗って、細かい連符や跳躍で装飾の施された同じ主題を繰り返し、鍵盤の上を上下に駆け回る。


 オーケストラは激しさを増しながらまたそれに応えると、「お遊びはここまでだ」とばかりに序盤の終わりを告げる力強い終止を見せる。


 高音域に鋭く指を突き立て、中間部の幕を切って落とす。

 勝負はここからだ。


 ショパンの協奏曲(コンチェルト)は、オーケストラ部分が貧弱だと言われる。

 ショパンがピアノ以外の楽器に興味を示さなかったためだとも、それがために別の人間に依頼して書かせたのだとも、あくまでピアノ音楽の伴奏に過ぎず、これで十分なのだともいうが、俺はまた別の可能性を考えていた。


 オーケストラのプレイヤーが全員ソリストのつもりで弾けば、十分な厚みを持ったコンチェルトになり得るのではないか。


 リハーサルからオケを挑発し続けたのはそのためだ。


 ハナっから大勢の中の1人みたいに弾くんじゃねえ。闘志を見せろ。魂を燃やせ!


 これは踊りだ。


 アレグロ・ヴィヴァーチェの速いテンポに乗せて、互いの肉体が宿す力を競い合い、そこから生まれる美を讃え合う踊りなのだ。舞踏の原始的欲求に帰って。


 澱みない3連符のピアノに、クラリネットやフルートが揺蕩(たゆた)うように流れると、続いてヴァイオリンが弓の木の部分で弦を叩く。『コル・レーニョ』奏法というものだ。それに乗せて、両手ユニゾンの、より民族的なフレーズに入る。


 やがてひと時の休息のように音楽が静まると、最初の主題に帰り、徐々にテンションを上げながらオーケストラが叫び、夜明けを告げるようにホルンが声をあげる。


 その時、指揮者のラドスワフ・ノヴァコフスキは、俺を見て、笑った。


 人差し指を立てて、彼を指す。


──それな。俺も思った──


 客席がどよめく。


 高音からの高速3連符で鍵盤の上を駆け回る。


 クッソ楽しい! マジで、最高だぜ!


 ショパンだって、いつもしかめ面で悲しんでいたわけじゃない。

 祖国のために戦おうとしたし、パーティー・アニマルな一面もあった。


 そうじゃなきゃ、この音楽は、こうはならねえはずだ。


 繊細で、弱々しい、死にかけの病人なんて勝手なイメージに押し込めてんじゃねえ。この最高にハイな音楽を聴けよ。


 オーケストラが唸りを上げ、ピアノの静かなフレーズに入る直前、俺は唐突に理解した。


 ああ、これが、『敬意』か。


 そして、小さな声で呟いた。不思議なことに、日本語だった。

「ありがとう……」


 鍵盤の端から端まで、駆け下り、駆け上がって、右手を高く掲げる。人差し指を立てた。


 ワルシャワ国立フィルハーモニー・オーケストラと、【ピアノの悪魔】呉島 勇吾。


 俺たちが、『ヴィルトゥオーゾ』だ!

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― 新着の感想 ―
[良い点] 「夭折の天才」と聞くと、私は「虐殺器官」の著者である伊藤計劃さんを思い浮かべます。確かに、彼等のような「天才」は、寿命を引き換えに常人では思いつかない傑作を世に送り出すなぁと思います。そん…
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