14-3.ピアノ協奏曲第1番Op.11 pf.ルドヴィカ・ゲレメク/呉島 勇吾
フレデリック・ショパン国際ピアノコンクール最終日、俺は3階バルコニー席の最前列にいた。
目の前に巨大なシャンデリアが吊り下がって、ステージ奥のパイプオルガンさえ小さく見える。その前にはずらりと居並ぶオーケストラ。
15人の審査員が紹介されると、客席の期待が膨れ上がって、熱を持っていくのが無言の内に伝わった。
次いで紹介された、ワルシャワ国立フィルハーモニーオーケストラは、立ち上がって拍手を受ける。
中央前面に無人のピアノが置かれ、向かって左の手前に第1ヴァイオリン、その1つ奥に第2ヴァイオリンが並ぶ。右手前面にはヴィオラ、その後ろにコントラバスが並び、中央にはチェロ。
チェロの後ろには中央から左へ向かってオーボエ、フルート、ホルンと並び、その後列にファゴット、クラリネット。最後列中央にティンパニが置かれて、そこから右に向かってトランペットとバストロンボーン。
コンサート・マスターの第1ヴァイオリンが立ち上がり、ステージ中央でA音を弾く。
それに応えて、オーケストラは短い間、調律をした。
ロングトーンやスケールが小さく鳴り、間も無く静まっていくにつれ、反比例するように客席の熱量が増していく。
そしてアナウンスはついに、彼女の名を呼んだ。
「『ピアノ協奏曲第1番 ホ短調 作品11』
使用ピアノはスタインウェイ479。
本日、最初の奏者です。
ルドヴィカ・ゲレメク。ポーランド」
待ちわびた観客が、狂ったような歓声をあげる。
今大会最大にして最強のライバルで、俺は録音も含めて、彼女以上のショパンを聴いたことがない。
ショパンの祖国であるポーランドは、国の威信をかけて開催するこのコンクールにおいて、この数十年ポーランド人の優勝者を出していない。彼女はその期待を一身に背負っているのだ。
しかし舞台奥の扉が開いて、そこからちょこんと姿を現した女には、そういう気負いは微塵も見当たらなかった。
大好きな弟の音楽を、みんなと一緒に楽しみたい。早くそうしたくてたまらない。それしかない。
彼女はずっとそうだった。
ピアノを弾いていると、何か音楽自体に生命が宿っているように感じる時がある。
ルドヴィカ・ゲレメクというのは、そういう音楽そのものの生命が、ふとした拍子に肉体を持って、この物質の世界にちょんと降りて来てしまったような、そんな雰囲気を持っていた。
ショパンの音楽特有の、長い旋律の美しさだとか、移り気に揺蕩う和声の不鮮明さだとか、そういうものが、音楽の神様みたいなヤツのちょっとした手元の狂いで、ひょっこり形を持ってしまったような。
他人の目から見れば、あるいは俺もそうなのかもしれないと思った。
音楽の長調的要素の顕現がルドヴィカだとすれば、俺は短調的要素の顕現だというように。
口元が緩んだ。「ふふっ……」と声さえ漏れた。
冗談じゃねえよな。俺もあんたも、欲や、愛や、心を持った人間だ。
それでもそうやって、何にも知らないふうでただ好きなものを好きだとピアノに言わせ続けてきたルドヴィカ・ゲレメクというピアニストを、俺は尊敬した。
ポーランドの民族衣装だろうか、袖の膨らんだ白いブラウスや、黒いフェルト地のチョッキに赤い花の刺繍がふんだんに縫い込まれて、緑や青の縦縞が鮮やかなスカート、編み込んだ髪に花冠をかぶって、ピアノの前に立つと、にっこりと微笑み、嬉しそうに会場を見渡す。
まるで、これからとっておきのいたずらをするみたいだ。
「くそっ、可愛いなこいつ……」と思わず小声に漏らす。
幼い少女のようなのだ。
ピアノの椅子にちょこんと尻を乗せて、ルドヴィカは指揮者に微笑みかけた。
指揮者のラドスワフ・ノヴァコフスキは、俺の時とはまるで違う、孫にでも向けるような視線でそれに応えると、力強く指揮棒を振り下ろした。
『ピアノ協奏曲第1番 ホ短調Op.11』
ショパンのピアノ協奏曲は2曲あるが、第1番、第2番のナンバリングは出版順に振られたもので、作曲されたタイミングは1番の方が後になる。
ピアノ以外の楽器にはほとんど興味を示さなかったショパンが、オーケストラ付きの協奏曲を書いた動機は明らかだ。
ピアノ単独でのリサイタルという形は、リストが1830年代後半に始めたのが最初で、それ以前は人前で自分の書いた曲を披露するにはオーケストラ付きの協奏曲を書く必要があった。
すでにワルシャワでピアニストとしての腕を認められていたショパンは、1928年から活躍の場を広げ、やがて作曲家としての成功を求めてワルシャワを出る決心をする。
第1楽章『Allegro maestoso』の前奏が、その決意を示すように力強く響く。
メロディーをフルート、ファゴットと引き継ぎながら、またそれに弦が応え、優雅なヴァイオリンに旋律を移す。
その間、ルドヴィカは天井を見上げ、目を凝らすと、口を動かしているのが分かった。歌っているのだ。
……にしても、長えな。
分かっていたことながら、俺は改めてそう思った。前奏が4分以上あるのだ。
緩急をつけながら、やがてオーケストラが静まっていくと、ルドヴィカは鍵盤の上に、そっと手を置いた。
(来るぞ……)と身構える。
低音が腹に響くような深い響きでズンと鳴る。
ワルシャワの夜、深い森の上に星が落ちてくるように、高音からの下降音形が応えた。
思わず、息を飲んだ。
鮮烈だ。
しかし、彼女の本領はこの後にある。
穏やかな長調に移ってからの、音色の暖かさ。
俺が、寧々の家で彼女の家族と交わした会話のように、彼女のピアノはオーケストラとその温かさを分け合って、愛情を共有していた。
これは、歌だ。
ただただ、愛しているということを、そのままに歌う、愛の歌だ。
人間の声域には限りがあるから、彼女は代わりにピアノを使って歌うのだ。
俺は、正直、この第1番はルドヴィカには合わないと考えていた。英雄的な前奏から始まり、オーケストラ主題は力強く男性的なフレーズが多い。
しかし、ピアノ部分だけ抜き出してみれば、なるほど、彼女の温かい音色と弱音美を魅せる場面が俄然多いことに気付く。
音楽は徐々に膨らんで、1楽章終盤のヴィルトゥオーゾ・パッセージに入っていく。
彼女の演奏にはこういう部分でも英雄ごっこをする男の子を愛でるような温かみ、そして何より、彼女の表情には、これが楽しくて仕方がないという全身から発する喜びがあるのだ。
重厚なオーケストラがホールを飲み込むように楽章を締め括る。
客席は、もうその世界に深く沈み込んでいた。
第2楽章『Romanze Larghetto』ホ長調
弱音器を付けた弦楽器による瞑想的な序奏が、俺と寧々がノボドボリで過ごした、ほんの泡沫の時を想起させた。
── 新作のコンチェルトのアダージョ(この2楽章の初稿は、冒頭の速度表記が“Larghetto”ではなく“Adagio”だった)はホ長調だ。これはことさら効果を狙ってのものではなく、むしろロマンツェ風の、静かで、憂いがちな、それでいて懐かしいさまざまな思い出を呼び起こすようなある場所を、心を込めて、じっと見つめているようなイメージを与えようとしたものなのだ。美しい春の夜の、月光を浴びながら瞑想する、そのようなものでもある──
ショパンは1830年の5月、友人への手紙にそう書いた。
ルドヴィカのピアノが鳴り始めると、俺は椅子の背もたれに沈み込んで、目を閉じた。
寧々とノボドボリで過ごしたあの日、俺はあのまま時を止めて、あの美しい閉じた世界に、永遠に沈み込んでしまいたかった。
静かで、肌寒くて、2人肩を寄せ合ってはじめて世界が成り立つような、しかしだからこそ互いの体温を強く求め合うような、滅びの匂いのする脆く儚い幸せの中に。
ルドヴィカが、最後の高音をそっと、よく響く音で鳴らした時、俺はそうした不完全な、しかし不完全であるが故に完成された美が、指の間をこぼれ落ちていく悲しさを、奥歯を食いしばって噛み殺した。
これでいい。
俺たちは、あの閉じた楽園を放棄して、この混沌として果てしなく広い、薄汚れた世界で生きていく。
たとえそこがクソみたいな出来事で溢れかえっても、たった一つ、強烈な感動さえあれば、そこに生きていく価値はあるから。
俺にとってそれが、寧々との出会い、そして彼女と過ごした日々だった。
第3楽章『Rondo Vivace』ホ長調
オーケストラの鋭い序奏に、ポーランドの民族舞踊『クラコヴィアク』を基にした華やかなピアノが続く。
3階席から見下ろすと、豆粒みたいに小さく見える彼女が、笑っているのが分かった。鍵盤の上を、はしゃいで跳ね回る。
「楽しい!」
彼女はそのことを、表現してさえいなかった。ただ事実そうなのだ。
次々に現れる楽想が自由に展開して、オーケストラと掛け合っていく。
オーケストラは跳ね回る彼女が転ばないよう、そっと寄り添って見守り、時に声をかけ、時に手を繋ぎ、そして時には一緒に跳ね回る。
優しさと愛はホールに満ち満ちて、やがて溢れた。
舞踊主題とユニゾン主題の前後を技巧的なパッセージがつなぎ、音階と分散和音が目まぐるしく駆け巡る終結部の最後、半音階を駆け昇ったルドヴィカが右手を跳ね上げる。
それは、叫びだった。
「私はこの音楽が大好き! この音楽が好きでここに集まったみんなが大好き! 愛してる!」
オーケストラは祝祭的な終始の和音をかき鳴らし、待ちわびた観客が拍手を打ち鳴らす。
俺は立ち上がり、その和音が切れる瞬間を待って、叫んだ。
「BRAVO!」
素晴らしい! 素晴らし過ぎる! お前が、お前こそが、最強のショパン弾きだ!
そして俺は、その上をいくぞルドヴィカ!──





