14-2.貨幣とアスファルトの世界に足をつけて/篠崎 寧々
空港に着いたのは夕方だった。
手荷物を受け取って到着ロビーに出ると、両親が首を長くして待っているのをすぐに見つけた。
私は手を振って駆け寄る。
「お土産を買ってきたよ」
「また、呑気なこと言って……」
お母さんが呆れたように目尻を下げた。
懐かしい匂いがして、その時やっと、ワルシャワの冷たく乾いた空気が肺から抜けるように思えた。
お父さんは、私がきちんと実体として存在することを確認するみたいに、何も言わず肩や腕に触ってから、その肩越しに向こうを見た。
振り向くと、真樹さんが深く頭を下げていた。
「非常識なお願いを聞き入れて下さいまして、本当に、有難うございました。
お陰様で、呉島は無事ファイナルに臨めます」
「彼も、無事なんですね」
お父さんは、そこでやっと安心したみたいだった。
「はい。そして、日本に帰って来られることになりました。少なくとも、今の高校に卒業まで通うことが出来ます。その後も、活動は日本を拠点として行うことで、会社とは合意しています」
お父さんは、頭を下げた。
「有難うございました。先日は、失礼なことを言って申し訳ありません」
真樹さんは一瞬目を見開いて、口元を固く引き結んだ。それから、何か潮が引くのを待つような間を空けて、答えた。声が、わずかに震えていた。
「勇吾は、人間として、本当に成長しました。まだまだ、礼儀も世間も知らない子どもではありますが、人を想い、未来を考えるようになりました。
日本に来て以来、色々な出会いがあってのこととは思いますが、彼の変化の中心には、娘さんとご家族の存在がありました。それまでの勇吾を知る者から見れば、それは、本当に驚くべきことです」
「あんなに素直な良い子はいませんよ。きっと、あなたが彼をそう育てた」
お父さんがそう言った時、真樹さんの目から真珠みたいな涙の粒が、1つぽろりと零れた。
お母さんが彼女に駆け寄るようにして、肩を抱き、背中をさすった。
「若いのに、仕事をしながら親のいない子を一人で育てて、大変だったでしょう。やり方なんて誰も教えてくれない中で、あんな元気に、立派に勇吾くんを育てて、あなたはすごい人だねぇ……」
真樹さんは両手で顔を覆い、肩を震わし、そしてとうとうその場にうずくまってしまった。
それを見た途端、私はとてつもない自責の念に駆られて、真樹さんのそばにしゃがみ込み、何か詫びようと口を開きかけて、やめた。
私にも、私の理があった。それは、戦わなければ通せなかったし、戦わずにいることを私の魂が許さない、そういう激しさをもっていた。
私は私自身の愛と信念のために戦ったのだ。
その過程にあるいくつかの局面において、彼女との衝突を避けられなかった。
しかし、声も出さずに泣き崩れる真樹さんを見ると、こうも思うのだ。
勇吾くんのライバルにもなれず、仕事相手と割り切ることもできず、母親や姉になりきることも、恋人になることもできなかった一方で、歪で、不完全に、しかし少しずつそれらの全てだったということを、もしかすると、この人は、今、初めて他人から認められたのではないだろうか。
それを最初に認めるべきだったのは、もしかして私ではなかっただろうか?
やがてよろよろと立ち上がり、近くのベンチにかけた真樹さんは、ゆっくりと、呼吸を整えるように言った。
「不思議と、それほど辛くはなかったんです。私はあいつと、下らないことでわぁわぁ言い合っているのが、本当は楽しかった」
「そういうことが、勇吾くんにも伝わっていたんでしょう。彼は、彼なりに一生懸命、丁寧に、我々と関わろうとしてくれました。そういうことというのも、誰かに大事にされた経験のない人間には、そう出来ることじゃない。
それに、少なくとももうしばらくは、続いていくんじゃないですか? 彼は日本に帰ってくるのでしょう」
お父さんは、優しく、でも何というか、微妙な距離感で真樹さんにそう言った。お母さんが真樹さんの肩に手をあてたまま、その続きみたいに言う。
「これからも、大変ね。彼は今まで以上に、あちこち飛び回るんでしょうし」
真樹さんはうなずいて、微笑んだ。
「そうですね。あいつはこっちが用意してやらなくちゃ、同じものばっかり食べるので」
その口元に浮かんだシワの角度は、私のお母さんのそれと等しかった。
✳︎
「ただいま……」
家に着いて玄関を通ると、そこを離れていたのが1週間そこそこというのが信じられないくらいの懐かしさと安心感で、膝の力が抜けた。
「疲れただろう。今日は休んで、明日にでも、ゆっくり話そう」とお父さんは言ってくれたけど、私は首を左右に振った。
「今、話す」
そう言って、リビングに入ると、食卓の椅子に座っていたお姉ちゃんにも「ただいま」を言って、ソファに座る。
その向かいに、お父さんとお母さんが並んで座ると、私は、まず頭を下げた。
「あの、今回は、無茶なことを言って、学校も休んじゃって、ごめんなさい」
お父さんは、言葉の並べ方を考えるように少し時間をとって、それから口を開いた。
「許可したのはお父さんだ。我々は大人だから、当然その責任を負うつもりでそうした。
確かに、寧々がここに行くと決めて通ってる学校は、休まず通うべきだけど、当然優先順位というものがある。例えば体調のことだったり、それから、人生の重要な節目だ。
今回はきっと、寧々にとって、そういう重要な節目なんじゃないかと考えたから、お父さんは行きなさいと言ったんだ。
だから寧々。そこで何を感じて、どんなことを考えたのか、我々はそういうことを聞きたい」
私は、真剣に話さなければならないと思った。
「周りの人が、すごい人たちばっかりだった。みんな、自分のやることに覚悟があって、そのためには手段を選ばない、そういう人たちばっかりだった」
「なるほど。世界トップクラスのピアノコンクールに出るような人たちだからね」
「うん……」と私はうなずいた。「その中で、私だけが子どもだった。私は勇吾くんを何としても取り戻したくて、そのためには、やっぱり常識的じゃない手段も使わなくちゃいけなかった。でもそうやって、目的を遂げた時、私が何か『常識の殻を破った!』みたいに興奮してる横で、真樹さんはもう常識の世界に帰る段取りを考えてた」
お父さんは、ソファに深く腰を沈めて、ため息をついた。
「彼女は、とんでもなくタフでクールだね。大きい仕事をする人というのは、たいがいそうだ。寧々にああいうふうになって欲しいとは思わないけれど、ああいう世界を見てきたことは、きっと勉強になったと思うよ」
「うん。そして、勇吾くんも、私なんかよりずっと大人だった。自分に出来ることや、やらなくちゃいけないことが、ちゃんと分かってて、その上で、私に付き合ってくれてたんだ。
私は、大人にならなくちゃいけない。でも、その前に、まずは自分がまだ子どもだってことを、ちゃんと自覚しなくちゃいけなかった。
私には、できないことや分からないことがまだたくさんあって、そういうことを、ひとつひとつ、ちゃんと解決していかなくちゃ、彼のいる世界では、きっと渡っていけない」
私がそう言うと、お父さんはお母さんの腕にすがって、弱りきった声を出した。
「お母さぁん、寧々が大人になっちゃうぅ……」
「なに言ってんのこの人! 娘が大人になろうとしてるのを、喜んでやらなくてどうするの!」
「だって、あんな小さかったのに──いや、あんな小さい子の中ではだいぶ大きい方ではあったけども──なんかソクラテスみたいなこと言い出しちゃってるよ!
だいたい、このくらいの子って、自分が大人だと思ってるのが可愛いんじゃん。お姉ちゃんときも、そうだったじゃん」
「勇吾くんが、寧々を大人にしちゃったんだねぇ……」
お母さんがしみじみ言うのに、お父さんは必死に抵抗した。
「その言い方やめて!」
✳︎
自分の部屋に入って、嗅ぎ慣れた空気を肺いっぱいに満たすと、部屋着に着替えて机の前に座った。
机の上には数学の問題集と、演奏会のアイデアを書き連ねたルーズリーフ、シャーペンと消しゴムが出しっぱなしだった。問題集を棚にしまい、ルーズリーフを束ねて脇によけ、私は新しい紙を1枚引っ張り出して、そこに、自分がこれからやるべきことを書き連ねた。
・素振り(面・小手・胴・突き、実戦的な動作で。100本ずつ!)
・1週間分の授業の確認
・料理をたくさん覚える(栄養バランスとかを考えて……)
・英語の勉強(発音! ネイティブの言い方)
・小粋なジョークを考える→英語に訳
・進路を決める(12月までに)
私にはずっと勇吾くんの隣にいたかったという気持ちと、早くここに帰って来たかったという気持ちの両方があって、その自己矛盾は解決できそうもなかったし、する必要もないのだと思えたが、この調子では、将来彼のお嫁さんになって海外公演について回るなんて話になった時、強烈なホームシックで彼に迷惑をかけるかもしれない。
それに、私がワルシャワで抱えた緊張感と疲労感は、元を辿れば、言葉が通じないということからきた部分も大きかった。彼のお嫁さんになった時、「こちらが俺のワイフです」と勇吾くんに紹介させておいて、気の利いた挨拶の一つも出来なくては、彼に恥をかかせることになってしまうだろう。
お嫁さんになっても経済的に依存したくはないし、何よりやっぱり、生きがいみたいに感じられる仕事がしたいっていう気持ちもある。
とにかく、まず私がすべきことは、自分を高めることだ。
そして、自分を高めることというのは、目の前のことを一つずつこなしていくことの先にあるはずだ。
音楽は美しい。恋は楽しい。夢は愉快だ。
でも、私たちはこの世界に生きている。
この世界に生きている私たちが、そうした美や感動を引きずり下ろして味わい尽くすのに必要なのは、この貨幣とアスファルトの世界に、しかと足をつけて踏ん張ることだ。
私たちは、化学繊維のドレスとタキシードに身を包み、鉄筋コンクリートのチャペルで誓いのキスをする。
誰にも文句は言わせない。





