14-1.Concertare(協調する、競い合う)/呉島 勇吾
その連絡がメールで来たのは、寧々が日本へ発った、コンクールファイナル2日目の夜で、つまり俺の出番の前日だった。
当日の朝、オーケストラ合わせのスケジュールについて。
ショパン・コンクールの事務局というのは案外ユルいそうで、過去には審査の採点方法が途中で変わったり、プログラムの曲順が違ったりということが、実際たびたびあるという。
そして、そのユルさは、コンテスタントへの連絡という面で顕著に現れていた。
とにかく、遅い。
何番目に弾くから何時に待機、とかいった連絡がことごとく前日の夜、ランダムな時間に届くのだ。
俺は自己管理能力がゴミなので、朝は社長のジジィが迎えに来たが、この先はこういう能力も身につけていかなければいけないな、と少し先のことについて考えた。
「審査員が2人、決勝の審査を辞退した。3次までの審査点もろとも取り下げるそうだ」
タクシーの助手席からそう言って、ジジィは辞退した審査員の名前を出した。
いずれもショパン・コンクールの過去の入賞者で、同じ派閥に属していた。
そしてその内の1人は、当時6歳かそこらの俺を自分のコンサートに前座として招いた。派閥に引き込むためだろう。
「いいものを持ってる。ウチで勉強するといい」とか言って。
別に悪いことではない。悪かったのは、そいつのピアノが俺より下手だったことと、「アンタはそうでもねえな」と言った6歳の俺だ。
顔をしかめながらジジィにたずねた。
「アンタが手を回したのか?」
俺は自分の戦いに、横槍が入ることを好まない。
「僕は必要さえあれば汚い手も平気で使うし、むしろ好きだが、保身と誇りのためにある程度の線引きをする。今回は僕じゃない」
「だとしたら何だ? 俺が先に進んだことに対する抗議の辞退か?」
「まさか。そういう時こそ審査員の地位に噛り付くタイプだ。
彼ら、君のステージに細工をしたのさ。それで怖い人たちに目をつけられた」
「もしかして、照明が落ちたことか?」
ステージの細工といえばそれしか思いつかなかったが、それは全くの無意味だった。世の中には全盲のピアニストもいるのだ。俺に弾けない道理はない。
「弾けるにしても、普通は乱れるんだよ。少なくともびっくりはする。君が腹を立ててステージで暴れたりしたら、彼らにとっては最高だったろうね。
ショパン・コンクールはどの審査員がどのコンテスタントに何点入れたか公表されるから、点数を操作すれば、それが衆目に触れる。そこで、彼らはよりシンプルな方法をとることにしたのさ。あれは明らかに人為的なものだった。落ちたのは照明だけ。
ところが、そうした不正を飯の種にしているような連中が、会場に紛れ込んでいるのを彼らは知らなかった」
「いや、だから誰」
「僕も詳しくは知らない。だが、漏れ聞こえるところではどうやらイタリアのマフィアだという話だ。こういう不正を予期していたか、意外に文化的なマフィオーゾだったのか、とにかく、欲や保身のために不正をはたらいたカタギの金持ちなんてのは、彼らの大好物だ」
「つまり、勝手に自滅したってことでいいのか?」
「その通り。点数操作だけなら感性と良心を疑われるだけで済んだ。だが、物理的な工作には物理的な証拠が残る。彼らはそこを突かれた。まぁ、あくまで噂だけどね」
「呆れを通り越して同情するな」
「しかし、このことは必ずしも君の有利にはならないだろう。残ったのは、根っからのショパン信者だ。そして、ルドヴィカ・ゲレメクがいる」
俺は、声をあげて笑った。
審査はフェアだ。
単純にピアノの腕だけで勝負をする場に、今まで聴いたこともないような最高のショパンを弾く最高の敵が立ちはだかっている。
恨みつらみは何もない。ただただ、どっちのピアノが良いか。
「最高だ」
✳︎
前日から弾き通しだったために、控え室のソファに座って少しウトウトし始めたころ、係員が俺を呼び出し、ホールへ案内した。
ちょうど通路を曲がった先に、背の低い、腰まで伸びた縮れ髪の女が、俺を見つけて手を振った。
俺は片手でそれに応える。
「よう、ルドヴィカ。ありがとう、色々……」
ルドヴィカは、ふふっと笑って、「楽しみね」と言った。
俺はうなずいた。「あぁ楽しみだ。本当に」
今までにない感覚で、自分でも少し戸惑った。
確かにこれは勝負の場で、俺は戦って勝つことが大好きだ。と言うより、負けることが大嫌いで、それがためにこれまで生きてきたようなものだった。理不尽や、不条理や、クソみたいな運命に、負けたくないがために。
けれど、今はまた少し違う感じだ。
戦いたいし、勝ちたいのだが、俺がいつも抱えていた、腹の底に重く沈んでグラグラと煮えたぎるようなものがない。もっと、クリアだ。
ルドヴィカは足をジタバタと踏んだ。
「あぁー、早く始まらないかなぁ! 私ね、みんなの演奏を聴いてるのよ。みんな、とっても素敵」
俺より1つ歳上なのに、全然そうとは思えなかった。
「流石に、ここまで来ればヘタクソはいねえわな」
「下手でもいいのよ。フレド(彼女はショパンをそう呼ぶ)の音楽が好きで、気持ちをいっぱい込めて弾いてくれたら、それだけで素敵」
俺は寧々やその家族が、レッスンで弾いたバッハを思い出した。
「あぁ、そうかもな」
係員が、早くしろと催促する。俺はそれに短く答えて、ルドヴィカと別れた。
そして、口の中に小さく呟いた。
「勝つのは俺だ」
✳︎
舞台裏からステージに出る。
奏者たちが楽器を抱えたまま、拍手の代わりに片手で膝を叩いたり、弓で譜面台を打ったりする。その間を抜けると、指揮台の横に立った男が、俺に向かって英語で言いながら、手を差し出した。
50歳手前か、あるいは少し過ぎたか、人生の辛酸を目尻口元のシワに刻み、しかしだいぶ身体を鍛えていると見え、肩は広くがっしりとして背筋がピンと伸びた、ハンサムな男だった。成熟して深みはあるが、まだ衰えはないという、『男』として最高の状態にあるように見えた。
「ファイナル進出、おめでとう」
ワルシャワ国立フィルハーモニーオーケストラの指揮者で、音楽監督のラドスワフ・ノヴァコフスキ。
俺はポーランド語で答え、その手を握る。
「ありがとう」
どうだ、俺はもう、ちゃんとお礼が言えるのだ。
「あまり時間がないから、早速始めようか。何か言いたいことは?」
「合わせてみないと分からない。通しで」
そう答えてピアノの前に座った。
俺はもう何年もコンクールを受けていなかったし、主戦場は金持ちのサロンだった。
オーケストラとの共演自体、何年振りかも数えていない。
指揮者はうなずいて、指揮台に乗る。
そして、俺と目を合わせた。
指揮棒が、揺れる。
ヴァイオリンの旋律が切なく響いた。
流石、世界で最もショパンの協奏曲を弾いているオーケストラというだけのことはある。が、俺は気に入らなかった。
1楽章の途中で、弾くのをやめた。
指揮者が演奏を止める。
「どうした、何か、意見があるかね?」
少し考えてから、口を開いた。俺は、自分の想いを、他人にきちんと言葉で伝えられるようにならなければならないのだ。
「あんたらは、世界で一番ショパンを弾いてるオーケストラだ。5大陸で年間140公演に加えて、日本の映画やドラマ、ゲームの音楽もやってると聞いた。
だけどよ、慣れきったふうに弾くのはやめてくれよ。
これは『コンチェルト』だろ。
語源はイタリア語の『コンチェルターレ』、意味は〈協調する〉そして、〈競い合う〉だ。『釈迦に説法』って言葉をこっちじゃ何て言うのか知らねえが、これはショパンが作曲家として勝負に打って出るっていう野心作でもあった。
コンチェルトは、戦いだろ。俺はもっと、ぶつかり合って火花を散らすような『美』を弾きてえんだよ」
後ろでガタッと音がして、コンサートマスターのヴァイオリニストが言った。
頭の禿げ上がった初老の男で、声には独特の奥行きがある。
「つまり、『自分と勝負しろ』と?」
俺は、オーケストラの奏者一人一人を指しながら言った。
「このオケの入団倍率がどんなもんかは知らねえが、下手すりゃこのコンクールよりシビアなオーディションを戦い抜いて、今そこに座ってんじゃねえのかよ。
隣のあんたは思わねえのか?『は? 何でコンマスがこいつなんだよ。耳腐ってんじゃねえのか? 俺だろ!』
ヴィオラのあんたも、ヴァイオリンがデケえツラしてムカついてんじゃねえのかよ」
俺がたまたま指したヴィオラ弾きの女は、「私、彼がヴァイオリン弾きだから」と答えた。
「ああ、それはしょうがねえな」
俺がトーンを落とすと、指揮者が顔をしかめて俺を見下ろした。
「これは、ショパンだぞ」
「つまり、こう言いてえのか? ショパンは人生の半分くらいは病気で死にかけだったんだから、死にかけみたいに弾くべきだって? 冗談じゃねえぜ。
ショパンは開けっぴろげに内面を晒す人間じゃないし、恋愛観はカマくせぇが、弱い人間じゃない。
ワルシャワで11月蜂起が起こったのはこれが書かれた翌年だが、火種はそこら中で燻ってたはずだ。ショパンはこの蜂起に参加するか迷った末に芸術家として生きる道を選んだ。
『戦うこと』はショパンの選択肢にあったし、実際戦うことを選んだんだ。その戦場が、ワルシャワじゃなくて音楽の世界だったってだけだろ。ショパンは『戦う男』だ。
あんたらだってそうだろ? 戦ってきただろ。蹴落としてきたんだろうが。
俺たちはみんなそうだ。並居るライバルを蹴散らしてその椅子を勝ち取った『ヴィルトゥオーゾ』だろ。戦おうぜ、兄弟」
客席を煽るようにオーケストラに言い放つと、彼らは無言で、しかし一団の殺気を込めて、楽器を構えた。
「このオーケストラを、バラバラにするつもりかね」
指揮者はいつの間にか指揮台から降りて、俺のすぐそばまで詰め寄っていた。
「それをねじ伏せてまとめるのが、あんたの仕事じゃねえのかよ。
『俺こそがNo.1だ!』って競い合う奏者を1つの音楽に調和させる。まさかとは思うが、出来ねえのか?」
俺が口の端を吊り上げると、指揮者はほとんど接触するくらい額を寄せて言った。
「調子乗ってんじゃねえぞ、クソガキが」
俺は笑った。
「かかって来いや、マエストロ」
そして再び指揮者は指揮台に乗り、両手を振り上げる。
オーケストラは、唸りをあげた。





