13-8.時間/呉島 勇吾
「アンタ、ずっと準備してたのか?」
社長の屋敷を出て、劉から借りた部屋に寄り、荷物を積み込んだタクシーで、俺は真樹にたずねた。
「まあな」
「クソ、今度はアンタの手のひらの上かよ」
俺がそう吐き捨てると、さらにその上から吐き捨てるように真樹は言った。
「寧々だよ」
「私?」後部座席で俺の隣に座っている寧々が、目を丸くした。
「ああ。この世の終わりみたいなセンスだが、寧々の企画には共通する理念があった。勇吾が、人と関わって生きるってことだ。
勇吾と関わりのあるピアニストを引き入れたのも、教育的な視点でものを見たのも、元を辿れば寧々のアイデアだ」
そうか……と俺は納得した。
ただピアノを弾いて帰る。それしか出来ないと思っていた俺に、彼女は新しい価値を付け加えた。
人と関わって生きること。
「寧々。お前はすごい奴だ……」
俺は心からそう言った。
寧々は顔を綻ばせたが、すぐ恥ずかしそうに話を逸らした。
「でも、真樹さんは結局、どうして勇吾くんを日本に帰そうとしてたんですか?」
確かに、真樹の行動は前後がちぐはぐだった。
元々俺を日本の高校に通わせることには反対だったにもかかわらず、実際そうなると途端にせっせとそこで活動する地盤を整え始めた。
もちろん、必要に迫られたと捉えることも出来る。しかし、俺には真樹の行動が、そういう付け焼き刃のものではないように思えた。
「決まってんだろ。ビザの申請をするのがクソ面倒くせえからだよ」と真樹は答えた。
それはおそらく真実だった。しかし、膨大な真実の中の、ごく限られた一部分に過ぎないことが、声の響きで分かった。
しかし俺も寧々も、それ以上は追及しなかった。
少しずつ増えていく街灯が通り過ぎて行くのを見送りながら、真樹は深くため息を吐いた。
「寧々、明日帰るぞ」
「それは、真樹さんも?」と寧々がたずねた。
「そうだ。今回新しく契約したピアニストが9人もいるからな。受け入れの準備をしなきゃいけない」
それは何となく、予感していたことだった。
「はい」
寧々は静かに、しかし、踏みしめるような重さで答えた。
シートに背中を預けて、ため息をついた。
「やっぱり、ファイナルまではいられねえか……」
「私には、私の戦いがあるから」寧々は俺の手を握った。「対等で独立したメロディーが、互いに調和するように」
「鍵はアタシから返しておく」と真樹が言うので、俺は助手席に手を伸ばして劉の部屋の鍵を差し出したが、真樹は途中で思い直したらしく、受け取ろうとした手を引っ込めた。「やっぱ、自分で返せ」
「なあ、真樹、俺たちにもう一晩時間をくれよ」
「バカかよ。アタシにこれ以上、不純異性交遊の片棒かつげってのか?」そう言って、真樹は膝の上に抱えた鍋に目をやった。俺と寧々が、2人で作ったシチューだ。
「取り敢えずロータリーで降ろすから、勇吾は事務局の用意したホテルに、寧々はアタシらの部屋に帰んな。アタシはジジィにコイツを食わして、まあ、一杯付き合うさ。12時には帰る」
「真樹」
俺は本当の気持ちを、本当の言葉で言った。
「ありがとう」
「遅えわバカ。つーか、シチューかよ。どんな酒にも合わねえだろうが」
真樹は俺から目を逸らして、窓の外に向けた。ガラスに映った彼女の顔は、過去に見たどんな表情より穏やかだった。
✳︎
ホテルの前でタクシーを降りた時、まだ夜の10時にもなっていないことに、俺は少し驚いた。
「勇吾、寧々を大事にしな。金さえありゃ責任取れるってもんじゃないからね。寧々も、親御さんの顔忘れんじゃないよ」
その言葉の意味を消化するのに、少し時間がかかった。
「まぁ、確かにな……」
通りを曲がって行く車を見送りながら、俺が呟くと、寧々は俺の腰に手を回して抱き寄せた。
「勇吾くん、意外に聞き分けがいいですね」
「俺は、何をおいてもお前を大事にすると決めた。それに何より、お前と未来の話がしたいんだ」
寧々は俺の腰に回していた腕を解いて、片手で俺の髪をゆっくりなでた。
「勇吾くん、あなたが悪魔なら、私は一緒に地獄に堕ちたっていいよ」
俺も、寧々の頭に手を伸ばす。
「俺はピアノ弾きどもの悪魔だ。だけどお前にとって、そうありたくはねえんだよ」
とはいえ、寧々がワルシャワで過ごす最後の夜に、離れ離れなんてまっぴらだったし、他に行く場所もなかった。
俺は寧々の手を引いて、チェックイン以来全く使っていなかった、そのホテルに入ると、カウンターで部屋番号を告げた。
鍵を受け取り、乗り込んだエレベーターの扉が閉まった時、心臓が大きく脈を打った。
(やべえなコレ……)
俺は、あまり理性的な人間とは言えない。
期待と、焦燥と、それから他にも何か名前の分からない雑多な感情が渦巻いて、心の焦点を上手く定められなかった。
このドアが再び開いて、自分の部屋に吸い込まれ、広いベッドを前にした時、寧々を愛しているということを、俺はもう止められない。
エレベーターの階数表示が、目的のフロアへ辿り着いたことを告げた。
ドアが、開く。
怒鳴り声が耳孔に跳び込んだ。
「パーティーのォ! 始まりだぜぇ!!」
間髪入れずに、「Foooooooooo!」と歓声が上がる。
開き切ったエレベーターの前で待ち受けていたのは、劉 皓然だった。
それだけではない。レオポルド・ランベルティーニ、ニナ・ラブレ、リー・ソア、ノア・ルブラン、李 梦蝶、ライリー・リー、ナターリヤ・ラヴロフスカヤ……
酒の瓶だの袋菓子だのを携えて、気色満面こちらに視線を集めている。
「うぉぉおおお! クソがぁぁあああ!」
俺は叫んだ。
真樹だ。アイツがこの負け犬どもに指示を出して、この階に待機させた。
タイミングの良さから言って、通りの角を曲がったところですぐに車を降り、こっそり俺たちの後をつけてエレベーターに乗るタイミングまで連絡したのに違いない。
陰険すぎる。
「2人っきりでイチャつこうったって、そうはいかないぞエロガキが!」
得意そうに言い放つ劉を無視して、俺は一歩後ろで手を握っていた寧々に目をやった。彼女は驚きのあまりか、ただでさえ丸く大きな目を丸く見開いて、石になる呪いにでもかかったように立ち尽くしている。
俺は少し冷静さを取り戻した。構わなければいいのだ。
「じゃあ、お疲れ」
劉の肩を叩いてその横を通り、ライリーとルブランの間を抜けた。
「いや待て待て呉島 勇吾」と劉は追いすがる。
「ああ、部屋の鍵な。ありがとう。返すわ」俺はアパルトマンの鍵を手渡した。
「そうじゃなくて、俺、『パーティーの始まりだ』って、言ったよな」
あまり俺がすげなくあしらうので、自分が本当にそう言ったのか自信がなくなってきたらしく、「言ったよな、な、俺、言ったよな」と劉は周りの連中に確認した。
「言った」「結構大きい声で言ってた」と連中はうなずく。
「そういうワケだ。パーティーをしようぜ勇吾。見ろホラ、お菓子とかもあるし」
「いや、俺はいいや。楽しんでくれ」
目的の部屋のカードキーを挿し、ドアノブをひねる。
開いたドアの隙間に身体を強引に差し込んだのは、レオポルド・ランベルティーニ(愛称はレオ)だった。
「俺はイタリア人だ。女性と過ごす夜が、男にとっていかに尊いかということを知っている。だが、君には少し早いな」
「俺は寧々と、大事な話がある」
「だろうな。愛についてだろ? しかし、その話は言葉によって交わされるとは限らない」
「ああ。それと、未来について」
俺がそう言うと、レオは目を細めた。
「30分付き合え。そしたら、彼らとシバタさんは俺が言いくるめるよ」
連中は俺の部屋に雪崩れ込むと、菓子を広げて酒を飲み、スマホでバシバシ俺たちの写真を撮った。
寧々は連中の言葉がなにも通じていないのに、どういうわけかそれなりに楽しんでいるようだった。
「レオさんは、何て?」と寧々が聞く。
「音楽をやるなら、みんなイタリア語を覚えるべきだって。音楽用語はほとんどイタリア語だから」
するとそこに劉が割って入った。
「お前だけ、恋人と過ごしてズルいんだよ。俺には彼女もいないし、ナターシャ(ロシアのナターリヤ・ラブロフスカヤ)なんて、予備予選の間に彼氏が浮気してたんだぞ!」
パン! と音が鳴った。
ハエを叩き落とすように、ナターシャが劉の頭を叩いたのだ。
劉は叩かれた頭をさすりながら、つまらなそうに言った。
「腹は決まったかよ」
「何の?」
「何だっていいさ。他人から背負わされたものなんか全部かなぐり捨てて、自分が背負うと決めたものだけちゃんと背負って生きていく覚悟が出来たのかって聞いたんだ」
お前に俺の何が分かるんだ、という反感がないわけではなかった。
しかし、それ以上に、表現しにくい何かがあった。
「とっくに出来てんだよ。俺たちは、みんなそうだろ?」
「ああ。俺だって、世界中のピアニストから選ばれた80人の中の1人だ」
「なら俺は、その中からさらに選ばれるたった1人のピアニストだ。お前らが今年叶えられなかった夢は、俺が天辺まで連れて行く」
「勝てよクソが」
劉が罵るようにそう言うと、他の連中もそれぞれの言語で似たような意味のことを言った。
彼らが溜飲を下げて出て行った時、レオが言った30分はとっくに過ぎていた。
「嵐みたいな人たちだよね」
寧々がベッドに腰を下ろして言った。
「ああ。望んでもねえのに来るって意味じゃあな」
俺もその隣に座る。
「勇吾くん、愛されてるよね」
俺は少し驚いて反論しようとしたが、肺を出発した空気が声帯に届く直前で、ぐいっと方向を変えるように、「ああ、不思議だ」と答えた。
「不思議?」
「嫌いだと思ってた奴の中にも、少しだけ愛すべき部分があった。鬱陶しいとは思いながら、俺も、アイツらのことがちょっとだけ好きだ。ちょっとだけな」
それから俺たちは、日本に帰ったら、どこへ行きたいか、何をしたいか、住むならどんな部屋で、その部屋のどこに何を置いて、家事をどういうふうに分担するか、そんな話をした。
枕元のデジタル時計は、もう12時を打とうとしていた。
「なんか色んなことがあって、時間の感覚が狂っちゃうね」
寧々は名残惜しそうに言うと、ベッドの端から立ち上がった。
俺はその手首を掴む。
「俺はずっと、メトロノームってやつを使ってない。音楽はああいうふうに、カチカチ均等に流れるわけじゃないから。人の心もきっとそうだろ。
クソみてえな時だけやたら長くて、幸せな時は短すぎる。狂ってるのは時間の方だ」
「うん。きっと、そう……」
立ち上がって寧々を抱きしめ、そのままベッドに押し倒……押し……たお……
「いや、強えな! 体幹が!」
大地に根を張る巨木のように、寧々はビクとも動かない。
「勇吾くん、勝って。そして、私のところに帰って来て。空港まで、迎えに行くから」
「お前は、俺に勝って欲しいんだな?」
寧々はうなずく。
「ピアニストじゃなくても、私は勇吾くんが好き。
でも、ピアニストの勇吾くんが、もっと好き」
彼女の目から溢れた涙を、俺はぬぐった。
「お前がそう望むなら、俺は誰にも負けねえ」
チャイムが鳴った。





