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13-7.未来の話をしよう/篠崎 寧々

 勇吾くんが私を迎えに来たのは、彼があのマンションを出てから1時間も経たないころだった。


 迎えのタクシーの助手席に真樹さんが座っていたことに、私はチクッと胸に痛むものを感じたが、移動と打ち合わせを合わせて1時間弱というスピード感は、余計な疑いを払拭するのに十分なものだった。


 川久保音楽事務所の社長、川久保 聡が、2次審査で意識の混濁した勇吾くんを隠し、(かくま)っていた屋敷の応接間。


 私と勇吾くんは隣り合って手前のソファに座り、テーブルを挟んでその奥、一人がけのソファに腰を下ろした川久保と対峙する。


 私は、勇吾くんの手を握った。


 決着をつけるのだ。今。


 真樹さんは、大きな旅行鞄を重々しく抱えて部屋に入ると、私たちの右手に立って、言った。


「当初、今後の方針についてはコンクールが終わった後、その結果やそれに対する関係各社の反応を見てから決定する予定でした。しかし、ご存知の通り、我々の思惑はそれぞれ別の方向を指し、それぞれの意思が大きく乖離(かいり)し始めています。従いまして……」


 勇吾くんがテーブルの上に音を立てて脚を乗せた。太々しさを絵に描いたような態度だ。

「前置きはいい。早え話、俺は日本に帰ると決めた。それが叶わねえならアンタと契約を続けるつもりはねえ。ファイナルが終われば、俺んところに名刺を持ってくる奴も1人や2人はいるだろう。そん中から見繕うさ。あるいは、全く別の選択肢も考えている」


「別の選択肢?」川久保は首を傾げた。表情は読めない。

 その時私は唐突に、彼が屋内でも濃い色のサングラスをかけているのは、斜視を隠すためではなく、表情を隠すためだと気付いた。


「ああ。俺はバスの運転手になる」


「バスの運転手?」真樹さんと川久保が声を揃えた。


 それは、確かに突飛だった。「ピアニストでなければ、バスの運転手になりたかった」ということをつい昨日聞いたばかりの私にさえ。


「ああ。俺は少しだけ、日本にいたガキのころを覚えてる。俺は義理の母親と、時々バスに乗った。帽子がカッコいいから、俺はバスの運転手になりたかった。

 アンタらの最大の失策は、俺に稼がせ過ぎたことだ。俺はこの商売から足を洗ったとしても、高校を出られるだけの貯えはある。そして、バスの運転手ってのは高卒でもなれるそうだ。免許さえ取れば」


 真樹さんと川久保の2人は、それを聞くと少しの間沈黙したが、やがて川久保が真樹さんに向かって言った。

「ネットとかで売ってない? 帽子」


 真樹さんはスマホを取り出して検索を始め、すぐに答えた。

「ありますね」


「勇吾、帽子は買ってあげるよ」


 勇吾くんは顔をしかめる。

「いや、そういうことじゃねえんだわ。実際にバスを運転する男があれをかぶるからカッコいいんであって……」


「じゃあ、要らない?」と川久保は言った。


「いや、それは要る」


(要るんだ……)と、多分そこにいる全員が思った。


 私は試合場の白線を跨ぐように、小さく息を吐いて、それから言った。

「つまり、勇吾くんにとって一番重要なのは、誰と、どこで生きていくかということなんです。それって、どうしても音楽とは両立できないことですか?」


 川久保は、一拍間を置いて、それから私に真っ直ぐ顔を向けた。

()は勇吾の活動について、アメリカと中国をメインの候補に考えている。いずれも、日本を活動の拠点とした場合と比較して、利益に年間で億単位の差が開くと試算されている。その差を埋めることができる?」


 なるほど、こうやって、勇吾くんを言いくるめてきたのだ。

 勇吾くんは強引で粗野に見えて、実は人の負担だとか都合だとかについて、よく考える人だ。「君にこうしてあげるから、僕にも儲けさせてくれ」と言えば、おそらく彼は首を縦に振る。少なくとも、今までは。


 私は川久保を睨む。

「それは、試算が間違っています。勇吾くんは、活動の拠点を日本に置くと決め、それが叶わないならそちらとの契約をこれ以上は続けない。アメリカや中国を拠点にする場合、そちらの利益はゼロです」


 川久保は愉快そうに微笑んで、それに答える。

「学生らしい、素直な考えだ。しかし、我々の重要な仕事の一つは交渉だよ。交渉というのはね、『NO』と言っている相手に、『条件付きでOK』と言わせることだ。

 我々はその道ではプロだよ。0か1かの話をしている間は、まだまだ我々には及ばない」


 パンパンと手を叩く音がした。真樹さんだった。

「社長、やめましょうよ。若い子をイジメるのは」


「いや、いいじゃない彼女。ガッツと度胸がある。外国語がいくつか出来ればモノになると思わない?」


「どうでしょうね。本題に戻りましょう」と真樹さんは軽く受け流した。

「ピアニスト、呉島 勇吾の最大の強みは、『稼働率』です。その気になれば365日、全て違う楽曲でフル稼働できる。もちろん、実際には適当な休暇休日を挟むことにはなるでしょうが、とにかく、他のピアニストとは比較にならない数の公演を組むことが出来る」


 川久保はそれを聞くと、ゆっくりとうなずいた。

「その通り。そして、その収益を最大化するためには、チケットと協賛企業広告の単価を最大化しなければならない。それを期待出来るのは、少なくとも日本ではない」


「ええ。ところが一つ、我々が頭を悩ませている問題がありますよね。供給過剰による価値の下落です。

『たくさん演奏出来ることによってお金を稼げる』はずが、『たくさん演奏することによって儲からない』という自己矛盾に陥ることになる」


「それを解消するために、勇吾はより広い範囲で活動しなければならない。その中でも、単価の高い地域でより多く活動するということだ。日本などという、どこからも遠い島国に拠点を置くメリットは──」


「おい」

 勇吾くんはテーブルに組んだ足を乗せてソファにふんぞり返ったまま、真樹さんと川久保を交互に睨んだ。

「勝手にごちゃごちゃ並べてんじゃねえぞ。これは俺の話だ」


「黙るのはテメェだ勇吾」

 真樹さんがピシャリと言った。


「いや、でもこれ、実際勇吾くんの話じゃ……」と私が口を挟むのを、真樹さんは、唇の前に人差し指を立てて遮った。


「いいか、大人になるってのはな、自分で出来ることと出来ねえことを見極めて、他人と協力する術を身につけることだ。

 勇吾、アンタはピアノのプロだ。それと同じようにな、アタシは交渉事のプロなんだよ。そしてアンタには知らないことがある。この仕事はな、面白いんだよ」


 勇吾くんはその言葉を咀嚼(そしゃく)するように間を置くと、テーブルに置いた足を床に下ろした。

「任せた」


 真樹さんはうなずいた。


 2人が一瞬交わし合った視線に、私はひどく嫉妬した。

 この瞬間、真樹さんと勇吾くんは、互いを完全に信頼していた。


 真樹さんは大きな旅行鞄の口を開き、中身を取り出した。それは、A4の用紙の束で、その一番上には、太字でタイトルが書かれていた。


『呉島 勇吾と新しい音楽の夕べ』


「いや、ダッサ!」と勇吾くんが声をあげた。


 私は思わず風を切るような速さで勇吾くんに顔を向ける。


 真樹さんは、その上から紙束を積み、さらにその上から紙束を積み、さらにその上に……と、分厚い辞書の2冊分くらいになったところで手を止めた。

「これは、ある女子高生が、呉島 勇吾を日本で活動させるために書いた企画書です。

 残念ながら、センスはレトロというより考古学的というくらいの古臭さで、しょうもないものも多い。だけど社長、呉島 勇吾にはこれだけのことが出来るってことなんですよ」


 私はハッとした。この人は、このために私に企画を考えさせたのだ。この交渉の小道具として……


 川久保は目を細めて、ソファの背もたれに沈み込んだ。

「なるほど。その労力は認めるよ。それだけの量の企画書を用意するというのは並大抵のことではない。しかし、君も、この仕事をやっていれば分かるだろう。読む側にとって一番困るのは、無駄な企画書を大量に持って来られることだ」


「流石に、これを読めとは言いませんよ。目にも頭にも悪い。ですが社長、アタシらはプロだ。愚にもつかないもんだろうと、素人がこれだけのものを用意した。こっちにも、プライドってもんがあるでしょう」


「君は、自分のプライドのために、呉島 勇吾という才能をあの島国に閉じ込めるつもりかね」


「そうじゃない。社長。『未来の話をしよう』ってことなんですよ」


「ほう」

 川久保は身を乗り出した。私にはその時初めて彼が興味を示したように見えた。


「アタシらは、『呉島 勇吾』という途方もない才能を前にして、いささか視野狭窄に陥っていた。勇吾をどこに連れて行くか、勇吾に何を弾かせるか……一見世界を見ているようで、実際にはコイツの才能に目を眩ましていただけだ。

 社長、アタシらのやるべきことは、勇吾1人の上前をハネることじゃねえはずだ」


 私は、社長に向かってその口調でいいのかな、と疑問に思ったが、川久保は気にするふうでもなく、口元に薄笑いを浮かべた。


「なるほど、そこまで言うからには、あるんだろうね。その先の話が」


 真樹さんは、襟を正して態度を改め、そして言った。

「9人のピアニストが、当社と新規に契約を結び、日本を拠点に活動することを合意しています。

 イタリアのレオポルド・ランベルティーニ

 フランスのニナ・ラブレ

 韓国のリー・ソア

 カナダのノア・ルブラン

 中国の() 梦蝶(モンディエ)

 ロシアのナターリヤ・ラヴロフスカヤ

 香港の(リュウ) 皓然(ハオラン)

 イギリスのライリー・リー

 そして、ポーランドのルドヴィカ・ゲレメク──」


 社長が片眉を跳ね上げた。

「ルドヴィカを、獲ったのか……!」


「ルドヴィカはもちろん、他の8人も、1次敗退はしましたが、実力は確かです。他ならぬ、勇吾がそう認めている。最初は『獲れりゃいいか』くらいのテンションでしたが、これは、掘り出しもんですよ。社長。

 アタシらのやるべきことは、勇吾1人の上前をハネることじゃない。もっとたくさんのピアニストから上前をハネることだ」


 何て言い草だ、と私は憤慨しかけたが、まだ話には続きがあった。


「全て、起点は『呉島 勇吾』です。世界中の聴衆やピアニストのために、勇吾が世界を駆けずり回るんじゃない。世界中の聴衆やピアニストが、勇吾のために日本に来るんだ。

 そして社長、話はこれで終わりじゃない。

 ある家族が、勇吾にピアノのレッスンを受けた。知ってましたか?」


 私の家族のことだ……


 川久保は、サングラス越しにも分かるほど顔をしかめた。

「いや、初耳だ」


「バッハのインヴェンション。ピアノを弾くならイロハのイだ。時間にして、1時間やそこら。彼らは、その1時間でインヴェンションの1番が弾けるようになった。ピアノを触ったことはおろか、バッハのインヴェンションを初めて聴いた人たちが」


 川久保が手で口元を覆って考え込むのを見下ろしながら、真樹さんは続ける。


「つまり、勇吾はもう、自分のテクニックを言語化して人に伝えることが出来るということですよ。そして、より高いレベルのピアニストのために教材を書くことも出来る」


 そう言って、真樹さんは川久保に一冊の楽譜を手渡した。


 表紙にはこうある。

『天才ではなかった人たちのための24の練習曲』

 私が真樹さんの部屋で見たものだ。


「勇吾、君が書いたのか?」

 社長は首を回して、大きく外を向いた右目をサングラスの隙間から勇吾くんに向けた。


「ああ。真樹がまた、ピアノを弾けるように」と勇吾くんは答えた。


「タイトルがクソムカつくから、改題は必要でしょう。ですが、忌々しいことに、効果は私がお見せできる。

 社長、【ピアノの悪魔】が音楽の世界を変える。それは、こういう形であるべきでは?」


「つまり、君は、勇吾をピアノ教師にすべきだと?」

 川久保は腕を組んで、天井を見上げた。


「いえ、ピアノを弾き、教え、曲を書き……音楽の全てを味わい尽くすべきだということです」


 川久保はサングラスを外し、テーブルの上に放ると、大きな声で笑った。

「真樹ちゃん、乗った」


「そのためには、勇吾にクラスメイトの陰毛一本分くらいの社会性は身につけてもらわなければなりません。引き続き、高校に通わせます」


 川久保はそれに答えて端的に言った。

「その間の収益はきちんと確保すること」


「もちろん。馬車馬のように働かせますよ」


「ハハッ……!」と勇吾くんは笑った。「参ったな……」


「そしてもう一つ、条件がある。勇吾、勝て」


「ああ」

 勇吾くんはたった一言、そう答えた。しかし、その声は今まで彼の口から聞いたどの言葉より、力強かった。


 じゃあ、私のすべきことは、何だ?

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[良い点] 本当に、大事なシーンへの突入がテンポよくて、回りくどく無い。かといって唐突さはなく「今から大事なシーンだぞ」と力強く引き込んでくる。物語の完成度もさることながら、小説としての構成もお手本に…
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