13-6.夢から覚めて/呉島 勇吾
2人で作ったシチューを食べて、残りは鍋ごと冷蔵庫に入れ、食器を洗い、どちらが何を言うでもなく、部屋の隅に寄り添い合って座り、手をつないで、時々キスをした。
そうする内に日がまた暮れて、思い出したようにピアノを弾くと、その間に寧々はパスタを茹でてくれた。
茄子の入ったトマトソースのパスタと、野菜のたくさん入ったコンソメスープは、何か特別な食材や工程を加えたようにも思えなかったが、温かくて、骨にこたえるほど美味かった。
飯を食い終わった時、俺は、寧々の泣きはらして腫れぼったくなったまぶたの間の、潤んだ瞳を見据えた。
「日本に帰ったら、何か甘いもんを一緒に作って食いてえな」
「帰れるの?」
「必ず帰る。これは、嘘や慰めじゃねえ」
「『愛の夢』……」
寧々の口から零れるように、その曲の名前が出た時、俺は一瞬目を見開いて、それから細めた。
3曲のノクターンで、寧々の誕生日に送ったCDの最後に、俺はその第3曲を入れた。
寧々は、俺の右手を、両手で握った。それから、そこに刻まれた無数の傷痕を、一つ一つ丁寧に確かめるように、親指の先でなぞった。
「勇吾くんは、あのCDの最後に、【お前が俺を、忘れた時】って書いて、そして、消した。
勇吾くん、ずっと、そういうふうに思ってたの? いつか終わりがくるって、ずっと思ってたの?」
俺は静かに、深く息を吸って、「そうだ」と答えた。照れたりスカしたり、回りくど言い回しをするのはやめようと思った。
「俺は、ずっとそうだった。ガキのころから転々と、誰かを好いたり好かれたりする前に、どこかへ渡ってまたピアノを弾いた。音楽学校にいた頃も、周りは全員敵だったし、いい思い出なんか1つもねえ。だから、互いに互いを忘れようとしてたんじゃねえかな」
「だから私も、いつかそうなるって思ったの? 私がいつか、勇吾くんを嫌いになって、あなたのことを忘れるって?」
「人を好きだと思うのにはすげえ時間がかかるのに、嫌いになるのは一瞬だからな。
でも、不思議と、お前とはそうならねえように思った。それがかえって、お前にとっていいことなのか分からなかった。ただ……」と俺は言いかけて、言葉に詰まった。
寧々が、続く言葉を待つ。
それは俺にとって、舞台袖からステージに出るより、ずっと敷居の高い一言だった。
「俺のことを、忘れて欲しくなかったんだ」
寧々は、両腕を俺の首に回し、頭を胸に抱き抱えると、ほとんど破壊的ともいえる瞬発力で俺を押し倒した。
「忘れるわけないじゃん。どうして、普通にそう言ってくれないの?」
「多分、俺みたいに、こういうことを上手く言えねえ奴が、音楽家になるんだ。
俺はドイツ語もフランス語もハンガリー語もポーランド語も喋れるのに、こんな簡単なことがずっと言えなかった。俺と、ずっと一緒にいてくれ」
寧々は音が聞こえるほど大きく息を吸い込んで、俺の唇に自分の唇を押しつけた。
俺は仰向けに寝転んだままそれを受け入れ、寧々の髪を、背中をなでた。寧々も俺の耳や首や腰をさすりながら、俺の唇を長く、本当に長く……
「いや、死ぬ死ぬ! 息ができねえから!」
やっとのことで顔を背け、必死に訴える。
「ごめんなさい。いささか、興奮しておりまして」
強引に俺の顔を押さえつけて、寧々はまたそこにキスをする。いささかどころじゃない。すごい力だ。
しかし、俺が床に肘をつき身体をよじると、寧々は驚くほど簡単に床に転がった。俺は床に手をついて、彼女の上に覆いかぶさる。
「なあ、寧々。ここまで来たら、行き着く先は一つしかねえ。覚悟はいいか」
「とっくに出来てる」と寧々は言った。
「なら先に、やらなきゃいけねえことがあるよな」
この甘い夢から覚めて、現実に戻る。
そして現実の世界に、この夢の美しさを引きずり下ろすのだ。
寧々は強引に上体を起こし、俺の身体を抱きしめた。
「後でいいと思う……」
「いや駄目だ」
「どうして?」
俺は寧々の肩に手を置いた。
「一度始まっちまったら、もう止まらねえからだよ」
元より上気していた寧々の顔色が、さらに目に見えて紅潮していった。
寧々の腕の力が緩んだ隙に、俺は彼女の頬を、耳を、髪をなでて、名残り惜しさを振り切るように立ち上がった。
いつの間にかポケットから床に落ちていたスマホを拾い、電話をかける。
3回のコールの後で、相手は電話に出た。
俺はゆっくりと相手の名を呼んだ。
「よう、真樹」
「勇吾、てめぇどこにいる」憎々しげな言い方が、妙に懐かしく感じた。
「アンタ、寧々を俺より御しやすいと思ったんじゃねえのか? とんだ見当違いだぜ」
「質問に答えろよ。何がしてえんだ、てめぇは」
「『納得』だよ。それさえありゃ、俺は月にだって行ってやる。
ジジィは俺に、自分の夢を背負わせた。そして、それを世界中に吹聴して回るのが、あのジジィが今見てる夢だ。
じゃあ、アンタはどうだ? 俺の頭がブッ飛んで、アンタは寧々を連れて来てくれた。感謝はするよ。だが、それもある部分で利害が一致したからに過ぎねえ。
俺は日本に帰る。その部分で俺たちは協力し合えるはずだ。
だが、その後はどうする? 俺は日本であの高校を卒業するつもりだ。ピアノで金を稼ぎながら。この意思を、アンタはどれだけ叶えることが出来るのか、そしてそのつもりがあるのか、俺が聞きてえのはそういうことだよ」
真樹はおそらく、俺を日本で活動させるための地盤を整えようとしていた。しかし、真樹にとっては、俺を今後も高校に通わせるメリットは何もない。
電話の向こうで、真樹はため息をついた。
「珍しく連絡を寄越したかと思えば、そんな話かよ」
「他に何の話があるんだよ」
「あるだろうが、いくらでも。アタシの美貌を讃えるだとか、感謝の歌を詠むだとか」
「下らねえギャグに付き合ってる場合じゃねえんだよ。俺はアンタの腹積もりさえ分かりゃそれでいい」
「これがギャグに聞こえるかよ。まあいい。どっちにしても、電話口でするような話じゃねえ」
「直接会いてえなら、場所を指定しろ」
真樹は少し間を置いて、それから言った。
「いいだろう。一人で来い」
俺が答える前に、真樹は電話を切った。
スマホが鳴り、メッセージの受信を告げる。
寧々が不安げな顔で、俺を覗き込んでいた。
「真樹さんと?」
「ああ。一人で来いってよ」
「浮気をしたら……」寧々は据わった目で俺を見る。
「あり得ねえことだが、仮にそうしたら?」と冗談のつもりでたずねた。
「木刀で、頭をゴチンします」
「ゴチンじゃ済まねえだろソレ」と笑い飛ばしながら、くれぐれも気をつけようと胸に刻んだ。
✳︎
「行ってらっしゃい」と寧々は言った。
俺はこういう時、何と答えればいいのか知らなかったが、「行ってきます」と言うのだと彼女は教えてくれた。
タクシーの後部座席に街灯の光が差し込んでは、長く尾を引いて代わる代わる通り過ぎていった。
ワルシャワ中心部、コンクール事務局がコンテスタントに無償で提供するホテルの、ロータリーを挟んだ向かい側に、また別のホテルがあって、真樹が指定したのはその7階だった。
指定された部屋の前で、扉の横のチャイムを鳴らす。
程なくして、ドアが開いた。
「入れ」
真樹はワンサイズ小さいのではないかと疑うほどタイトなブラウスに身体を詰め込んでいて、今にも胸のボタンが弾けて顔に飛んでくるのではと警戒するほどだった。
間を空けてベッドが2つ並んだツインの部屋で、その1つは寧々のものだろう。彼女が防具を入れている大きなバッグがある。
「座れよ」と真樹は言った。
「いや、いい。長居するつもりはねえ」
この女には俺を押し倒した前科がある。
真樹はため息をついて、言った。
「なあ、勇吾、下らねえ話を聞かせてくれよ」
「下らねえ話?」
「ああ、そうさ。他愛もねえ話を」
何を意図しているのか分からないが、俺は少し考えて、口を開いた。
「アンタが東京に行ってる間、俺は初めて自分で掃除や洗濯をするようになった。
洗濯機に乾燥の機能までついてるって、俺はその時初めて知ったよ。
俺は洗濯が終わると、シワになっても困らねえようなもんだけ乾燥をかけるんだが、それをやると、パンツが裏返しになるんだ。
最初、俺は自分が裏返しで洗濯機に入れたのかと思ったが、どうもそうじゃねえ。そこで俺はピンときた。
つまり、こう、乾燥機が回って中のものをかき回す内に、ひっくり返るんだ。だから、逆に最初から裏返しにして入れたら、ちょうど元に戻るんじゃねえかって。
だから俺はパンツをわざと裏返しで洗濯して、それから乾燥を回したんだ。
そしたらな……裏返しなんだ」
「勇吾、違う」と真樹は言った。
「え、何が?」
「そこまで下らねえ話じゃねえよ。もうちょっと、こう、仕事や金と離れた、思い出話とか、そういうニュアンスだ」
「具合が難しい……」と俺は顔をしかめた。
「じゃあ、アタシがしよう。300万。これはアンタの親が、アンタを売った値段だ。そして、アンタが一晩で稼ぐ最低金額でもある」
「金の話じゃねえか」
しかも、俺にとってこの世で最も忌むべき金の。
「いいや、これは思い出話だ。
勇吾、アンタの親は、300万なんて端金で、アンタを売った。人の親ぁ悪く言う趣味はねえが、クソじゃねえか。
アタシはな、自分がピアノを辞めた時、これだけは譲らねえと決めたことがある。
アンタの親が、アンタを売った300万、アタシはアンタに、ソイツを一晩で稼がせる。
いつかアンタが自分の親に、地べたに札束叩きつけてこう言う日を夢見て。
『テメェらがガキまで売って拵えた金を、俺ぁ一晩で稼ぐんだ。ザマァねえぜクソったれ』
本物のピアニストの価値は、一括買い切り300万なんて甘っちょろいもんじゃねえ。
そいつを見せつけるのが、アタシの意地だった」
「だが、俺を売った義理の親は、すでに死んだ」
「言っただろ。思い出話なんだよ。だから、アタシには新しい理由が必要なんだ。勇吾、答えを聞きてえのはこっちなんだよ」
「俺も言ったはずだぜ。理由はアンタの手の中にある。俺じゃねえんだよ」
「アタシが聞いてんのはな、アンタにとって、アタシは何なんだってことだよ。それを理由に無茶をするのかしねえのか、ソイツを決めるのは、アタシ自身だ。ナメてんじゃねえ」
「アンタは俺のマネージャーだろ。ジジィがどんな横槍入れてもな」
真樹は「ふん」と鼻を鳴らす。
「そして、母ちゃんのようにも、姉ちゃんのようにも、タチの悪い女友だちみてえにも思ってたよ」
「そこまできて、恋人ではねえのかよ」
「正直、そう思ってた時もあった。だが、今はそうじゃねえ」
俺がそう答えると、真樹は天井を見上げ、長く深いため息をついて、ベッドに仰向けに身を投げた。
「一回抱いてけよ」
「ダメだ」
「彼女には、上手く言っといてやるよ。浮気は男の甲斐性とも言うぜ?」
「俺の価値は俺が決める。その手の嘘は吐かねえ。魂の価値が下がるからだ」
真樹は乾いた声で、ハハッと笑った。
「冗談だよ、バカ。
社長と、アタシと、アンタらと、決着をつけよう。今」





