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13-5.幸せ/篠崎 寧々

 朝、とても静かなピアノの音で目を覚ました。


 スッキリ目覚めるというよりは、暖かくて柔らかな微睡(まどろみ)の中から、優しくすくい上げられるような、そういう目覚めだった。


「悪い。起こしたか。寝てるヤツの目も覚めねえくらい、小さい音で弾けねえかと思ったんだが」

 勇吾くんはピアノを弾く手を休めずに、首だけこちらに向けてそう言った。


 それは実際、本当に小さな音だった。

 もっと即物的な言い方をするとすれば、壁の薄い集合住宅でも、苦情が来ないような。


「すごい。そんな小さな音で弾けるものなの?」

 こんな幸せな目覚め方が他にあるだろうか。私は甘い微睡の余韻に浸りながら、彼を見つめた。


「今はソフトペダルを踏んでる。グランドピアノだと、ハンマーが右にズレて、普段3本叩いてる弦を2本だけ叩くことで音が小さくなるんだ。

 これはアップライトだからまた仕組みが違って、ハンマーが押し上げられて弦との距離が近くなる。振れ幅を小さくして音を弱めてるってことだな。

 ノンペダルでこの音量が出せるといいんだが。音色が変わるしよ」

 そう言っている間も、彼はピアノを弾き続けている。


 とても素敵な曲だった。

 湖面のかすかな揺らぎを眺めるような、静かで素朴な音楽で、何よりメロディーが綺麗だった。


「聴いたことがあるような、ないような……」と誰に言うともなく呟いた。


「もしかすると、記憶にあるのはオケじゃないか?」


 オケというのは、オーケストラの略だ。勇吾くんと話すようになってから知った、数少ない音楽用語の1つだ。


 そのメロディーを、頭の中で弦楽器の音色に置き換えると、なるほどそうも思えた。


 柔らかく、しかし大きく膨らみながら押し寄せた音楽が、それからまた鎮まっていくと、低音が3回、弾力のある深い音で、文章の最後に句点を置くように鳴った。これは、コントラバスがそっと弦を弾く音だと思った。


 そして、勇吾くんは、周りから悪魔だ神だと言われ続けてもなお、こうやってピアノの表現、その可能性を、追い求め続けているのだと気付いた。


「何ていう曲?」


「マスカーニの書いた『カヴァレリア・ルスティカーナ』ってオペラの間奏曲だ。『1幕もの』っつって、短いオペラで、まあ、オペラだから物語があるんだけど、これがまた、しょうもねえ話なんだわ」


 呆れるような調子でそう言いながら、勇吾くんは椅子を滑り降りた。


 聞けば、こういう話だった。


 舞台はシチリア島のある村。主人公が兵役を終えて島に戻ると、恋人が他の男性と結婚してしまっていて、失意に暮れるも、彼女を忘れようと主人公は別の女性と婚約を結ぶ。

 ところが、結局主人公は元の恋人と不倫関係になり、それに気付いた婚約者が、元恋人の旦那さんに告げ口をして、その結果、主人公は決闘の末死んでしまう。


「それは……」

 何というか、少なくともこの美しい音楽には似合わないと思った。


「な? 愚にもつかねえ話だろ? オペラは結構こういうのが多いんだ。モーツァルトの『魔笛』なんか、もっと支離滅裂だしよ」


「でも、そういうものが、100年も200年も残った……」

 何故?


「音楽が美しいからだ。そこに壮麗な舞台装置なんかを付け加えてやりゃ、視覚と聴覚だけで観客は十分満足できる。意味なんかそこそこでいいのさ。どこかに強烈な感動さえあれば」


 起き上がると、カーペットの上で寝たせいで、その目覚めの心地よさに反して身体の節々が痛んだ。


「いたた……」と声を漏らす。


「敷布団が必要だよな。ナメてたぜ」と勇吾くんは言ったが、私は首を横に振った。


 そして、彼にくっ付きたいな、と歩み寄る途中で、足を止めた。

「お風呂……」


「シャワーが生きてる。お湯も出るぜ。勢いがちょっと弱えけどな。浴びてこいよ。俺は先に入った」


 先に……入った……?

 その事実を飲み込むのに、ちょっと時間がかかった。


 そういえば、昨日買った新しい服を着ている。私が寝ている間に?


 ひょんなことから1つ屋根の下で暮らすことになった2人。『男の子が上半身裸でお風呂から出て来ちゃってドキドキ!』という序盤の最重要ドキドキシーンを見逃したことに、私は落胆した。


 残念と絶望のちょうど中間くらいだ。


 かくなる上は……と私は昨日、ショッピングモールで買ってもらった着替えに目をやる。


 怖気付いてあまり攻めたものは買えなかったが、それでも刺繍が綺麗な、私にしては派手でビビッドな色合いの、上下お揃いの下着を買ったのだ。


 昨日はピアノを弾いて神童モードになった勇吾くんが、儚げで、尊くて、2人の間に侵しがたい穏やかな空気が流れ、そういう感じ(・・・・・・)にはならなかった。


 しかし、私の中の悪魔はささやく。

 「こちとら思春期ど真ん中の女子高生だぜ。

  ここらで一丁カマしてやらねえでどうするよ」


 「でも、彼って意外に純粋なところがあって、何か、悪いことのような……」

 

 すると、私の中の天使が現れて、私にこう言った。

 「愛から発した行為は尊く、美しいものです」


 「つまり、結論は……?」


 悪魔と天使は声を合わせる。

 「GO!」


 私はドキドキする側から、させる側に回るのだ。


 買い物袋から、買ったばかりの下着を出し、あえて部屋着は残して……いっそバスタオルも置いて行こう。「ごめぇん、勇吾くん、バスタオル取ってぇ」からの、バスルームのすりガラス越しに「ちょっ……お前、見えそうだって(ドキドキ)」と、こういう段取りだ。


 昨夜は神童モードだった勇吾くんも、これはいよいよビーストモードに変身待ったなし。

「誘って来たのはお前だぜ」

「えっ私、そんなつもりじゃ……」

 そして壁ドンからの……


(きゃー!)


 興奮しつつも、意を決して部屋を出た時、勇吾くんに慌てた調子で呼び止められた。


 振り向いた彼は、手にバスタオルとルームウェアを抱えていた。

「お前、すげえ色々忘れてるぞ。案外おっちょこちょいだなぁ」


「あ……はい、そうですね……」


 私の計略はあえなく頓挫した。


  ✳︎


 シャワーを浴びた後、ソーセージを焼いて、その間に勇吾くんがちぎってくれたレタスと一緒に食べた。


 遅めの朝食を食べ終わると、勇吾くんはまたピアノを弾き、その間、私は竹刀を振ったり、筋トレをしたりした。


 なんだかシュールな光景だったけど、お互い別々のことをしながら、同じ場所にいるのが心地よかった。


 彼はショパンのエチュードを弾いているようだった。


 ショパンは全部で27曲のエチュードを作曲していて、12曲のセットが2つ、3曲のセットが1つある。


 その中でも12曲セットを2つ弾くと、ショパンの曲はたいがい弾けるのだと勇吾くんは言った。


 彼はピアノを弾いている時、話しかけても普通に答えるくらい、平静な意識で弾いている時と、他のものは目にも耳にも入らないというくらい深く集中している時があるみたいだったけど、その区別が難しかった。


 必ずしも難しい曲を弾いている時に集中しているとも限らないようで、逆に素人目には簡単そうな曲でも、私がたてた物音にぴくりともしないという時もあった。


 いずれにしても、彼のピアノを弾く姿は美しかった。


 彼と知り合ってから、私はピアニストの演奏動画をいくつも見たけど、彼ほど動きの少ないピアニストはいなかった。


 鍵盤の上から覆いかぶさるように身を乗り出したり、自分の音楽にうっとりするように架空の一点を見上げたりというような動作が、勇吾くんにはないのだ。


 しかし、それがかえって、ピアニストとして極限まで洗練された機能的な美しさを作り出しているように、私には見えた。

 

 何か、ずっと見ていられるし、ずっと聴いていられるなぁ……と私が変にしみじみそう思ったころ、数えてはいないけど、ショパンのエチュードをおそらく24曲弾き終えたのだろう、一区切りついたように、ふうっと息を吐いて、勇吾くんはピアノの椅子から立ち上がった。


 昨日、彼もショッピングモールで着替えを一揃い買っていたわけだけど、その時の紙袋がピアノとは反対側の部屋の隅に置いてあって、勇吾くんはその袋の口を開けると、中をまさぐった。


 それから、少し迷うように、目を細めてから、黒の細長い箱を取り出して、私の前に差し出し、パカっと開けた。


 ネックレスだった。とても細いピンクゴールドのチェーンで、トップには雫の形をした、べっこう色の小さな石がついている。


「これは……?」


「琥珀だ。ポーランド名産らしい。俺は下着屋に入るのが恥ずかしかったから、お前が選んでる間に買ったんだ」


 あまり唐突なことで、どう聞いていいのか分からなかったが、少なくとも私が聞いたのはこのネックレスそのものの詳細や、これを買ったタイミングではなかった。

「だって私、服とかだって買ってもらって!」と、思わず語気が強まった。


「それは必要物資だろ。それとは別に、何か形のあるものを、お前に持っててほしかったんだ。

 あんまり気後(きおく)れしてほしくねえから言うけど、高いもんじゃねえ。

 正直、サプライズとか、ハズしたら寒いと思ったし、こういうもんは好みを聞いて買った方がいいとも思ったんだけど、お前、聞いたら遠慮するから」


 そう言って、彼は私の首に腕を回し、そのネックレスを着けてくれた。


 お店で一緒に選んだタートルネックの黒いニットの胸元に、ティア・ドロップの琥珀が揺れた。


 勇吾くんは満足そうに笑った。

「俺はあんまりお洒落には詳しくねえけど、似合うと思ったんだ。やっぱりそうだった」


「ありがとう……」


 それから、私たちは一緒にシチューを作った。


 鶏肉の筋を切ったり、脂を取ったり、少し下拵えにこだわった。


 軽く炒めた具材に水を加えて、ルーが溶け切ったころ、涙がまぶたからぽろりと零れた。


 勇吾くんは、それを指で優しくぬぐってくれた。


「幸せすぎる……」


 私が震える声でつぶやくと、勇吾くんは窓の外に顔を向けた。


「ああ。幸せだ」


 それが終わりの約束された幸せだということを、私たちは知っているのだ。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 実際、ユーゴ君レベルの演奏者さんは世界にどれくらいいるのかな、と想像してしまいました。私のように音楽に対する素養が無い者からすると、一定レベルを超えたらあとはもう「全員すごい」という語彙力…
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