13-4.ふたりのおうち/呉島 勇吾
スマホや携帯のGPSを切って、タクシーに乗り込むと、劉 皓然から送られて来た地図を運転手に見せた。
ワルシャワの中央を南北に貫くヴィスワ川を東に渡り、川沿いに北上していくと、ワルシャワ市の北限、ビアウォウェンカという地区の中にノボドボリという住宅街があって、劉 皓然の押さえていたアパルトマンというのはそこだった。
集合住宅が並んでいるが、日本と違い、面積に対して人口が稠密ではないので、建物の間には用途の分からない緑地が広がっていたり、少し向こうに森があったりする。
市の中心部から幾分離れたことにはなるが、そもそもワルシャワという市は東京の区部よりも少し小さいくらいの面積で、ノボドボリは市を真ん中から東西に二分するヴィスワ川の河畔であり、そう不便な立地でもなかった。
タクシーでそこに停まった時、ちょうど建物の前で劉は待っていた。
古くひび割れたコンクリートの5階建、無骨な造りのアパルトマンで、楽器を弾いてもいいように建てられたというよりは、家賃を抑えるためにはあらゆることが我慢できる人間が住む建物という風情だった。
買い物袋を両手に抱え、タクシーを降りると、劉は両手を広げ、俺を睨みながら笑った。
「久しぶりだなクソ野郎」
「そうでもねえだろ雑魚」
俺と劉はひとしきり罵り合い、掴み合いになる寸前に、寧々が割って入った。
「喧嘩しちゃダメ。劉さん、さんきゅう・べりー・まっち」
「Anytime(いつでも言ってよ)!」と劉は明るく返事をする。
やはり、寧々には人と打ち解けるというか、自然と力になりたいと思わせるような才能があるように、俺には思えた。
「とにかく、部屋に案内してくれ」
劉は鼻をフンと鳴らして、不承不承に俺たちを中へと招いた。
「お前はどうでもいいが、ネネさんが寒い思いをするからな」
「劉さん、何て?」
劉の英語が聴き取れなかったらしく、寧々は通訳を求める。
「俺たちを、とても歓迎しているそうだ」
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階段を5階まで昇った角の部屋が、劉の部屋だった。ワンルームだが、不自由ないくらいの広さだった。壁際に、少し離してカワイのアップライトピアノがあり、キッチンにはガスコンロが備えられている。
「ベッドとか、そういうもんは?」
俺がそうたずねると、劉はあれこれと指差して、説明した。
どうやらここは、家主が買い取ったは良いものの、仕事でクラクフに行かなければならなくなり、半端に残した家電ごと貸し出しているそうだ。
玄関を入ると廊下の右手に風呂場、左手にトイレがあり、その奥がこの部屋だ。
掃除機や冷蔵庫、洗濯機などといったものはあるが、テレビはない。食器や調理器具、カーペットはあるが、ベッドや椅子、テーブルはない。
「夜はホテルに戻ってたからな。ここは日中ピアノ弾くだけの部屋だよ。お前みたいに、この時期のワルシャワでスタジオ押さえてくれる優秀なマネージャーはそうそういるもんじゃない。お前、シバタさんに感謝しろよ」
余計なお世話だと突っかかる直前で、俺は言葉を飲み込んだ。
「ああ、してるよ。だが、意見が食い違うことはある。価値観や利害がぶつかったりな」
「まあ、それはな。でも話し合わなきゃ、食い違ったままだぞ」
「分かってる。ただ、有利な条件でヤツらを交渉のテーブルにつかせるためには、俺たちがこういう選択肢も取り得るということを示す必要があると思うんだ。そして何より、俺は前ほど、自分がピアノ弾きであることにこだわってない」
俺がそう言うと、劉は一瞬目を見開いて、口を開きかけたが、思い直したように言った。
「俺はみんなをここに呼んで、面白おかしく事情を聞くことで家賃代わりにでもしようと思ったが、大して面白くもなさそうだ。別の条件を出すよ。どうだ?」
「その条件を聞く前に、どうもこうもあるかよ」
劉は奥歯を噛んで、顔をしかめ、それから俺の目を真っ直ぐに見据えた。
「勝て。呉島 勇吾。それだけだ」
俺は目をつむり、その言葉を反芻して、それからうなずいた。
「言われるまでもねえんだよ」
劉はまだ何か言いかけたが、途中でそれを引っ込め、「柴田さんには、言わないでおいてやるよ。お前、ネネさんのこと、大事にしろよ」と部屋の鍵を投げて寄越した。
「ああ」
劉が玄関を出て行くと、寧々がゆっくりと包み込むように、俺の背中に抱きついた。
「彼、何て?」
「お前を、大事にすると約束した」
✳︎
ありがたいことに、アパルトマンの近くには、ホームセンターやスーパーが歩いて行ける距離にあって、俺たちはそこで日用品や食材を買い込んだ。
買い物を終えてスーパーを出たころには、もう陽は暮れかけていた。
俺たちは2人で食材を抱えながら、寧々の希望で少し遠回りして、ブナやイチョウが黄色く染まって葉を落としている遊歩道を歩いた。
落葉の積み重なった歩道は、ふかふかして柔らかかった。
聞いた端から忘れてしまうような、とりとめのない話をしながら、俺たちは、2人の家に帰った。
ポーランドでは、日本と同じように家では靴を脱ぐのが一般的だそうだ。
玄関を抜けると床は綺麗だったが、俺たちは買ってきた食材を冷蔵庫に詰めると、念のため掃除をした。
寧々はホームセンターで買ったハタキを振って埃を落とし、俺は床に掃除機をかけた。
それから寧々が卵とベーコンをバターで焼いてくれる間、俺はピアノを弾いた。
バッハの『平均律クラヴィーア曲集』から何曲か弾くと、寧々に呼ばれてカーペットの上に座り、2人でパンと一緒に、その簡素な料理を食べた。
「今日は、バタバタしたから簡単に済ましちゃったけど、明日はシチューとか、色々作るね」
食器を洗いながら、寧々は言った。
「ああ。俺にも作り方を教えてくれよ。一緒に作ろう」
「うん」
ポーランドではセントラルヒーティングが常識だと聞いていたが、この物件はいささか古くて、それが上手く働いていないらしかった。
代わりに細長くて背の高い電気ストーブが1つ置かれていたが、部屋の広さに対して出力が全然足りていなかった。
寧々はそれを、ピアノの前に座る俺に向けた。
「いや、俺は大丈夫だよ。お前があたれ」
「私も大丈夫。勇吾くんの手が冷えたら困るから」
「じゃあ、俺の隣に座ってくれ」
俺はベンチタイプのピアノ椅子を横にずらして、その端に座り、隣を手のひらで叩いた。
寧々はそこに恐る恐るというふうに座って、俺の肩に頭を乗せた。
「何か、聴きたい曲はあるか?」
「私の頭が肩に乗ってても大丈夫なやつ」と寧々は言った。
俺は少し考えて、鍵盤に指を乗せた。
「乗り心地を保証出来るとまでは言えないが……」
ジャン・シベリウス『樹の組曲Op.75』より
第1曲「ピヒラヤの咲くとき」
小さな白い花びらに、朝露が光るように一瞬、高音の16分音符が鳴って、鈴なりに花を咲かせた細い枝が垂れ下がるように、穏やかに和音が下降していく。
4分の4拍子から2拍子、3拍子へと1小節単位で目まぐるしく拍子が変化しながらも、音楽は自然に流れていく。
連符が煌めきながら上昇しては、またゆっくりと垂れ下がり、半ばで4分の2拍子に落ち着くと、13連符が駆け上がった余韻の中に、アンニュイな旋律が現れ、最後のワンフレーズだけが、ふわりと香るように長調に変容して、穏やかに終わる。
2分にも満たない、その短い音楽を弾き終え、肩に乗った寧々の頭に頬を寄せた。
古い蛍光灯の薄ぼけた光の中で、寧々は、つぼみがゆっくりと花弁を開くような極めて緩慢な速度で、傾けていた首を伸ばすと、俺の頬にキスをしてくれた。
俺は、自分のピアノがこれほど報いられたことが、かつてあっただろうかと思った。
それは俺の演奏の報酬として、多くも少なくもなく、寸分違わず釣り合っていた。
それから俺たちは、部屋の隅に身を寄せ合って1枚の毛布に包まり、話をした。
「もし、ピアニストじゃなかったとしたら、何になりたい?」と寧々は聞いた。
「バスの運転手」
俺は迷わずそう答えた。
「初耳すぎる」
「誰にも話したことがない。帽子がカッコいいから。お前は?」
「ずっと剣道を続けていきたいとは思うんだけど、お仕事は全然イメージ出来なくて……」
「何かになるって、別に仕事をするってことじゃねえと思うけどな」
「あ、確かに……そういうアレで言うと……」と、寧々はそこで言い淀んだ。
「何?」
「お嫁さんになりたいです。勇吾くんの」
寧々はそう言って、顔を伏せた。
「お前の、お父さんとお母さんみたいにか」
「うん」
俺は大きなバスで街を転がし、日が暮れたら、とてもよく水の出るホースで車を洗って、家に帰る。
そこには寧々がシチューを作って待っていてくれて、一緒にそれを食ったら、食器は俺が洗う。
もしかすると、俺は土日に仕事で、平日が休みかもしれないから、そういう時は俺が飯を作る。失敗するかもしれないけど、寧々は許してくれるような気がする。
それからソファに座って話をして、順番に風呂に入り、洗濯を回す間に、俺はドライヤーで寧々の髪を乾かして、それが終わると今度は寧々が俺の頭を乾かしてくれる。
洗濯物をハンガーにかけたら、洗面台に並んで歯を磨いて、一緒の布団に包まって眠る。
そうだったら、どれだけ幸せだろうと思った。
「俺は、料理を覚えるよ」と言った。
「大丈夫だよ。私が作るから」
「いや、俺もしたいんだ。俺が作った飯を、お前と一緒に食いたい」
寧々はうなずいた。
「私ね、狭いお家に住みたい」
「狭い家に?」
寧々は触れ合った肩を、一層寄せて、静かな声で囁いた。
「うん。2人でこういうふうに、『狭いね』って言いながら、肩を寄せ合って暮らしたいの」
それは一風変わった希望だったが、とても素晴らしいことのように思えた。
この夢が、ずっと覚めなければいい。
俺たちは、そうやって、ぽつりぽつりと言葉を交わしながら、やがて眠った。
10月17日、思えばその日は、ショパンの命日だった。





