13-3.数ある目的の一つ/篠崎 寧々
(きゃー!)と私は内心悲鳴をあげる。
「お前をここから拐う」と勇吾くんは宣言した。
これはいよいよ、待ったなしだ。
つまるところが、「ああっ! 旦那さま、お戯れを……」からの「良いではないか、良いではないか」と、そういうことになる。論理的に考えて。
私の腕を引いて、勇吾くんは力強い足取りで進んで行く。
「あの、どこへ……」
勇吾くんはそれに答えず、私の腕を引いたまま、王宮広場を抜けた。
旧ワルシャワ王宮の北西の角あたりから斜めに伸びた通りに入ると、右手に聖ヨハネ大聖堂、旧市街マーケットスクエア、ワルシャワ歴史博物館といった観光名所に目もくれず、赤煉瓦で造られた円筒状の砦、バルバカンを抜けた先に喫茶店があった。
特別これといった特徴のない、ベージュとピンクの中間くらいの淡い色でのっぺりとした壁に、石のブロックで縁取られて開いた入り口の上、おそらくポーランド語で書かれた木の看板が掲げられていたが、意味はおろか発音さえ分からない。
そのすぐ下、細い布の帯に小さく『COFFEE SHOP & CAFE』と書いてあるのを見て辛うじて、そこがカフェだと分かった。
中に入ると、濃淡まだらな薄茶色で、アーチが入り組んだような複雑な形の天井と壁は、燭台風の照明から暖色の電球に淡く照らされて、まるで洞窟の中みたいだった。
席に案内されると、勇吾くんは『はちみつとシナモンのフラッペ』、それから『セルニック』というポーランドのチーズケーキを注文して、私も同じものを頼んだ。
ケーキはブルーベリーのソースが混ざっていて、彩りも綺麗で可愛かった。フラッペはどちらかといえばアイスラテといった感じだったけど、ハチミツの甘さにシナモンの香りが効いていて、これも美味しかった。
2人であっという間にそれを平らげると、勇吾くんは真剣な眼差しで私を見つめた。
「俺はこれから、事務所の社長と真樹をまいて、お前を連れ去る。俺は大人の都合ってヤツに随分振り回されて生きてきた。そろそろ俺の番でもいい頃だ。
だが、その先は何も決まってない。お前にとって愉快な展開になるとは限らねえし、お前に苦労はさせねえと約束することもできねえ。それでもお前、俺について来るか?」
「どこまでも」と私はすぐに答えた。
彼を日本に取り戻す。そのために、私は戦う。
真樹さんは私をワルシャワに連れて来てくれたし、私の両親は私を信用して送り出してくれた。私はそれを裏切ることになるのかもしれない。
勇吾くんの記憶が戻り、私は役割を終えた。
だが、私はまだ何も得ていない。勇吾くんが日本に帰れるという約束も、今後彼の意思や権利が尊重されるという保証も、何も得てはいないのだ。
「お前、荷物は? 無くて困るものはないか?」
そう聞かれて、私は肚を決めた。
「えと、下着を……その、取りに戻るというよりは、買いたいです……」
私はスポブラとボクサーショーツで生きてきた。アスリートとして、また武道家としてはそれが最適だったが、この局面では装備の質を変える必要がある。
「着替えだな。服を一式買おう。なんで下着だけなんだよ」
そう聞かれると、私は顔から火が出そうだった。
そして、もっと現実的な問題が首をもたげてのしかかった。
「あの、服を一式買うとなると、手持ちが心許なくてですね……」
「お前、俺がどういうピアノ弾きか忘れたのか? 金の心配はするな」
「いえ、そこまでお世話になるわけには……」
「寧々、これは戦だぜ。金の力で俺たちを好きに出来るとタカを括ってる連中に、一泡吹かす戦いだ。つまらねえ遠慮はなしにしてくれ」
「でも、勇吾くん、ポーランドのお金、持ってるの?」とたずねる。
「カードを持ってる。デビットカードなら俺の歳でも作れるからな。口座に金があれば、日本円だろうがユーロだろうがズウォティだろうが残高まで使える。
俺は家計簿つけて残高をこまめに管理するタイプじゃねえが、普通に暮してりゃ一月やそこらで使い切る額じゃねえことだけは確かだ」
それを聞くと、私はいよいよ彼が当たり前の高校生ではないのだと再認識して、少し気遅れしたが、頭を振ってそういう躊躇いを追い払った。手段は選ばない。
「私にかかったお金は、必ず働いて返します。今だけ、私を助けてください」と私は言った。
勇吾くんは少し考え込んで、それから諦めたように口を開いた。
「お前がついて来てくれる、俺はそれだけで十分だが、お前、こういうことに関しては強情だからな。気長に待つさ。
荷物はいつ回収出来るか分からねえ。それでいいか?」
「うん」
勇吾くんはうなずいて、それから、スマホでマップを開き、私に見せた。
「服を買ったら、劉 皓然に会う。ドブから生まれたような性格だが、プライドが高えから、つまらねえ裏切りはしねえと思う」
劉さんの名前が出たことに、私は驚いた。勇吾くんが人を頼ることもそうだけど、それも現役のピアニストに助けを求めるというのは、ちょっと信じ難かった。
「でも、劉さんたちは、真樹さんと面識がある……」
私がそう言うと、勇吾くんは複雑な声色でうなった。
「そうらしいな。だから、まだどう転ぶか分からねえ。俺はお世辞にも人と手を組むのが得意とは言いがてえし、お前が日本に帰って普通に学校に通うべきだってのも、そこだけ取り上げれば筋は通ってる。ヤツらがその大人の理屈に賛同するならそれまでだ。阿久津と連絡がつきゃいいんだが……」
「阿久津さん?」意外な名前が出てきて、私は聞き返した。
「ああ。アイツもワルシャワにいた。ただ、俺とアイツは日頃から連絡を取り合うって仲じゃねえからな。お互いに番号もIDも知らねえんだ」
そして勇吾くんは、阿久津さんが、もう互恵院学園には戻らないのだと言った。あの人もまた不思議な人だし、勇吾くんと彼の関係も、不思議な関係だと思った。
「どう転ぶか分からないけど、動き出さなければ何も始まらない」
私はそう言った。
「俺はお前といると、自分が『生きてる』って感じがする。
大人が見れば、俺たちのやってることは下らねえことかもしれねえし、いい迷惑かもしれねえ。だが、そんなことは知ったことじゃねえぜ」
「大人たちを、振り回す……」
彼は笑った。私の大好きな、好戦的な笑顔だった。
「ああ。突きつけてやろうぜ。『いい子でいて欲しけりゃ、それなりの条件を用意しな』って」
お腹の底の方から、笑いがこみ上げてきて口から漏れた。
「勇吾くん、いい子でいたことなんてなさそう」
勇吾くんはそれを聞くと、いよいよ声をあげて笑った。
「ああ、俺ぁ生まれついての【悪童】だ。アイツらのお望み通りな。都合のいい時だけ、丁度いい具合にそうあってくれると思ったら大間違いだぜ」
✳︎
喫茶店を出ると、タクシーに乗り込み、北西に10分くらい進んだ辺りにショッピングモールがあった。
「勇吾くん、こうなることが、分かってたの?」
タクシーを降りたところで、私は聞いた。
行動に迷いがない。最初から、劉さんに連絡をとって、あの喫茶店に入り、このショッピングモールに来ることが決まっていたみたいだった。
「まさか」と首を横に振って勇吾くんは否定したが、その表情は少し恥ずかしそうに見えた。
「でも、それにしては準備が良すぎるというか……」
「まあ、行こうぜ」と勇吾くんは私の手を引く。
モールに入ると、中はとても広々としていて、日本の百貨店みたいに混み混みしてキュウキュウという感じではなかった。
そして嬉しいことに、ポーランド女性の平均身長は165センチ余り、日本人と比べて7センチ以上高くて、日本では飛び抜けて背が高い私でも、こちらでは、平均よりはちょっと(16センチばかり)高めというくらい、それも色んな人種がいるので、サイズが豊富だった。
勇吾くんが店員さんに聞いて通訳してくれたところによると、ポーランドというのは元々繊維産業が盛んで、国策として重点的に投資されていた時代もあったのだとか。現在でも衣料品製造業の数はEUで第2位につける隠れたファッション大国なのだそうだ。
「中でも強いのが琥珀のアクセサリーと……」と訳しながら、勇吾くんはそこで言い淀んだ。
それは、彼にしてはとても珍しいことだったし、私は全然言葉が通じていなくて戸惑った。
その様子を見た気の良さそうな中年の女性店員さんが、私に英語で耳打ちした。
「LINGERIES」
そして、胸の辺りを両手で覆うようなジェスチャーをする。
つまり、下着だ。
(よし来たオラァ!)
真樹さんに影響されたというわけでもないけど、何かグワァっと来るものがあって、私は思わず拳を握っていた。
しかし、鬼のようにセクシーな下着を買うつもりで下着屋さんに入ったものの、いざゴリゴリに攻めたセクシー下着を前にするとすっかり怖気付いてしまって、結局、刺繍の可愛い、やや保守的な、当たり障りのない程度のものを数着選んで、自分の度胸のなさを恥じた。
そして、それに輪をかけて恥ずかしがっているのは、その下着の支払いをする勇吾くんだった。
私は、自分が勝手に真樹さんのもとを飛び出して、勇吾くんのお世話になり、しかも下着の支払いまでさせている申し訳なさと、ほとんど彼に見せる前提で下着を買っている恥ずかしさ、恥ずかしがる彼を見る変態的な興奮その他、怒涛のように渦巻く色々な感情に戸惑い、混乱した末、一つの結論に辿り着いた。
どこかに落ち着いたら、お礼を兼ねて彼にマッサージをしよう。
ずっと同じ椅子に座ってピアノを弾き続ける彼は、あちこち凝っているはずだ。身体全体を揉み解し、彼の疲れを癒すのだ。
手足から体幹、そしてだんだん……キワドイところへ……
「ここにリンパが集まってるんですよぉ」「大丈夫。皆さんやってらっしゃいます」「あくまで施術の一環ですから」「リンパの流れがですねぇ」「ちょっと、下着をずらしましょうねぇ」「文句があるならリンパに言ってくださいよ! 私に言うのは、そりゃお門違いってもんですよ!」
────「寧々?」
私はビクッと肩を竦ませた。
「あっ……! リンパがっ!」
「リンパ?」
私は自分がいよいよ手のつけられない変態に変態しつつあると自覚して、勇吾くんに申し訳なく思った。
決して、カラダ目当てというワケではないのです。数ある目当ての1つにそれもあるというだけで……





