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13-2.白馬の王子さまではなくても/呉島 勇吾

 ルドヴィカ・ゲレメクのマズルカを動画で聴いたのは、その日の朝だった。


 ジジィに抗議してスマホを取り返し、一番初めにしたことはそれだった。


『3つのマズルカOp.56』

 俺はてっきり、ルドヴィカはポーランド人の民族性を武器に、民族色の強いマズルカで勝負をかけてくると考えていたが、彼女の選んだマズルカは、むしろ逆だった。


 Op.56-1などは、むしろ最も民族性の希薄な、バラードのようなマズルカだ。

 しかし、彼女はそこにはっきりと、ポーランドのリズム、ポーランド人の呼吸を吹き込んでいた。


 夢のような淡い響きで、しかしあの小さな身体のどこから湧き上がってくるのか、満ち潮のように力強く膨張するエネルギーと、「これこそがフレデリック・ショパンの音楽だ」という強い確信。


 俺は生まれて初めて、ピアニストとしての危機感というものを知った。


 ショパン以外では間違いなく俺が勝つ。だが、ことショパンに限って言えば、こいつは真面目に脅威だ。


 俺はその日、自分のピアノを弾くかたわら、ルドヴィカのピアノを何度も繰り返し聴いた。

「やっべぇなコイツ。マジで」


「勝てるかね?」

 いつの間に地下室に降りて来たのか、社長の川久保が言った。


「やるさ」


 俺の頭がブッ飛んでいる間、このジジィが通信機器を奪って行動を制限していたことに、それなりの感情を持ってはいるが、そんなことは後に回す。


 スマホには、酒井とマユと笹森からメッセージが入っていた。


 「なんか連絡よこせ、ウンコ野郎!

  こっちは連戦連勝だ! お前も勝て!」

 「ユーゴくん元気? 大変かもしれないけど、頑張って!」

 「久しぶり。2学期中間テスト1位の笹森です。

  帰ったら、まず私に跪きなさい」 等々。


 俺は色々と考えたが、コンクールを獲ってから連絡することにした。


 まずは、勝つことだ。


 俺には明確な目的があった。


 その1つは当然、日本に帰ること。そのためには、権威主義の日本市場で、より高い価値を持つピアニストでなければならない。


「これだけは言っとくが、俺のスマホをパクってたこと、チャラにはしねえからな」

 俺はピアノ椅子の背もたれに体重を預けて、背伸びをした。


「それは、こっちのセリフだよ。君に突き飛ばされてお尻を打ったし、何より新品のコートがずぶ濡れになって帰って来た」


 俺が着て歩いた千鳥格子のチェスターコートは、社長のものだったらしい。


「アンタより俺の方が似合う」


「私はそうは思わないし、仮にそうだったとしても人のコートを汚していい理由にはならない」


 俺は鼻を鳴らした。

「賞金で新しいのを買ってやるよ。それより、俺はワルシャワでの残された時間を、寧々と過ごす。昼も、夜もだ」


「ダメに決まってるでしょ。思春期の男女2人。何が起きるか目に見えてる。

 いいか、勇吾。女を知ったばかりの男ほど下らない生き物はこの世にいないよ。まるで『愛』というものを知ったような気になる」


 俺は立ち上がって、ジジィに詰め寄った。


「俺はここでテメェをブチのめして、勝手に出て行ったっていいんだぜ」


 襟ぐりを掴む。骨と皮ばかりに痩せた身体が、ゆらりとよろめいたが、ジジィは落ち着き払った様子でポケットに手を入れた。


 俺の胸に、硬いものがあたった。


「てめぇ……」

 その致死的な黒い光沢を見下ろして、奥歯を噛む。


「君みたいな暴れん坊を相手にするには、こういうものも必要だ。

 覚えてるか? 僕は君を『ヴィルトゥオーゾ』という名の怪物にする。そのためには命を賭ける。君の命もだ」


「おいおい、勝手に賭けてんじゃねえよ。他人(ひと)の命を」

 胸にあたる拳銃の感触と拮抗するように、襟を掴む手に力がこもった。


「勇吾、とても微妙なバランスなんだよ。怪物は羽化(うか)した。次は翔ぶ。

 もう、すぐそこまできているんだ。心と、技と、音楽と、全てが一つになり、過去のあらゆる天才たちを置き去りにして、次元の壁を破る、そのすぐ手前まで」


 よく聞こえるように舌打ちをして、俺はジジィの襟から手を離した。

「こんなところでジジィと心中なんざ御免だぜ」


 ジジィは短く笑って、銃口を下ろすと、空いた片手で内ポケットからタバコを取り出し、一本くわえた。


 そして俺に再び銃口を向けた。

「『物語に拳銃が登場したら、それは必ず発砲されなければならない』アントン・チェーホフがそう言ってる」


 引き金を引く。


 銃口が火を吹いた。とても小さな火を。


 ジジィはその火をタバコの先につけた。拳銃型のライターだった。

 このジョークのためだけに、吸えもしないタバコを買ってきたものと見える。一口吸い込んでエッホエッホと咳込んだ。


「クソッ……」と思わず吐き捨てたが、あまりのバカバカしさに、掴みかかってどうこうしようという気も失せた。


 だが、おちゃらけて煙に巻こうったってそうはいかない。


「なあ、俺とアンタの取引を覚えてるか?」


 俺がそう切り出すと、社長は顔を傾けて、斜視の右目をこちらに向けた。


「もちろん」


「俺に課された義務は、即日ワルシャワに渡り、ここのサロンでピアノを弾いて、コンクールでファイナルまで残ることだった。入賞でも優勝でもない。後はショパンとアルカンの録音を残すことだが、その段取りはそっちの仕事だ。

 俺は今の時点で自分が履行できる義務は全て果たした。俺に指図がしてえなら、そっちの義務を果たしてからにしろ」


 社長はわざとらしく目を見開いて笑う。

「驚いた。まさか筋を通してそれを主張してくるとは」


「次はそっちが筋を通す番だぜ」

 俺はそう言い残して、まだ何か言おうとしている社長に背を向け、地下室を出た。


 昨夜、俺は寧々と話したいことがまだまだたくさんあったし、真樹がやって来て俺をタクシーに押し込んだ時には、テメェらまたかよ、と思わないでもなかった。


 だが、「この辺で線を引くのが『節度ある付き合い』ってもんだ」と言われると、元々、人を大事にすることにあまりノウハウのない俺としては、色んな感情を飲み込まざるを得なかった。


 俺は、寧々を大切にしていることを、彼女本人だけではなく、彼女の家族に対しても、胸を張っていたいのだ。


 俺はもう、子どものままでいてはいけない。


  ✳︎


 ワルシャワ王宮広場の中央に、かつてのポーランド王ジグムント3世の銅像を天辺に頂く石柱があって、俺と寧々はそこで待ち合わせをしていた。


 待ち合わせの時間より30分ほど早く着いたが、十字架を突き立てて勇ましく剣を握るジグムント3世の後方から寧々に声をかけられたのは、それから間もなくのことだった。


 普段はロング丈のスカートを好む彼女が、今日はグレーのワイドパンツを履いて、タートルネックのニットの上から厚手のゆったりしたカーディガンを羽織っていた。


 そしてなぜか、ジグムント3世の十字架みたいに、竹刀袋を地面に立てて握っている。


「渋谷の『ハチ公前』みたいな感じで『ジグムント3世前』って言ったら、マユに死ぬほど笑われたよ」

 寧々は愉快そうに言ったが、その声色には何か表現しにくい曇りのようなものがあって、ちょうど、今日の天気もそんな感じだった。


「そうか。『前』ってより『下』だけどな」

 石柱の上にそびえ立つジグムント3世を見上げ、それからふふっ、と力なく笑う寧々の顔を、俺は正面から見つめた。

「何があったか教えてくれ」


「何がって?」


「お前が、何に落ち込んでいるのか」


「どうして?」と寧々は首をかしげる。


 彼女があえて隠していることを、俺はしいて聞くべきか迷ったが、少し考えてから、口を開いた。

「俺は音楽家だ。音色の変化には敏感だし、そこに意味を見出すことが得意だ。そして、お前は竹刀を持ってる。普通はデートに必要ない。少なくとも、俺の知る限りじゃ」


 彼女もまた、それに答えるか迷うように、少し間をおいて、それから言った。

「真樹さんに、日本に帰れって言われた。学校もあるし、親も心配してるから」


「お前はそんな中、俺を助けに来てくれたんだな」

 少し考えれば分かることだったはずなのに、俺にはそれに気付けるだけの常識がなかった。


 寧々の両親は、俺のような育ちの人間には想像もできないくらい深く、寧々を愛している。その娘が、彼氏の仕事のマネージャーなどという得体の知れない人間と、ワルシャワなどという縁もゆかりもない土地に渡ったのだ。


「だって、会いたかった。真樹さんの言うことは正しいと思う。私は団体戦の副将で、稽古だってしなくちゃいけない。親が心配してるのも分かる。でも、一緒にいたい」


「分かった」とだけ言って、俺はスマホを取り出した。


 通話アプリから、『友だちリスト』を「友だちじゃねえし」と毒づきながら開く。


(リュウ) 皓然(ハオラン)


 通話ボタンを押すと、1秒と待たずにつながった。


「呉島 勇吾! お前、ネネさんに心配かけてんじゃない!」

 開口一番怒鳴り声が響いて、俺は電話を耳から遠ざけた。


「余計なお世話だ負け犬が。なあ、お前ら、まだワルシャワにいるか?」


「いるさ。敗者復活があるかもしれないだろ」


「ねえよ、そんなルール。あったとしても1回戦ボーイの出る幕じゃねえ。寝言言ってねえで部屋を貸せ。ピアノ付きならなお良い」


「うるさいバカ! 自分の部屋を使えばいいだろ! ピアノ弾きたきゃスタジオに行けよ! またみんなで遊びに行ってやるから」


「来なくていいわバカ」


「バカって言う方がバカなんですぅ!」


「お前先に言ってんじゃねえか。事情があんだよ」と俺はややうんざりしながら、押し込むように言った。


「みんなの前で説明するなら貸してやる。ピアノ付きのマンションだ。言っとくけど、アップライトだし、夜は寒いぞ」


「マップ送ってくれ」と言うと、俺はまだ何か言っている(リュウ)に構わず電話を切った。


「え……何? 誰?」と寧々は戸惑っておろおろする。


「寧々、悪いが俺は、白馬の王子様ってタイプじゃねえ。どっちかっつうと、その王子様に歯向かう悪党だ」


「いえ、私は栗毛の三才駒に跨った若侍の方が……」とよく分からない反応をする寧々の腕を掴む。


「お前をここから(さら)う」

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