12-9.篠崎 寧々と呉島 勇吾
「まったく……勘弁してほしいですよ……」
私は一人呟きながら、涙を親指でぬぐった。
どうしてあの人は、こうも切ない響きでピアノを弾くのか。私を何度泣かせれば気が済むのか。
会場の鳴り止まない拍手が、ここまで聴こえる。
ドアがノックされて、ソファから跳ねるように立ち上がった。
何度でも言うのだ。
「あい……しって……おおぅ?」勇吾くんではなかった。
洋風の座敷童子みたいな、小さな女の子が1人、「何か困ったことでもあったのだろうか?」というような不思議そうな顔で、当然のように立っていた。
ウェーブのかかった髪が腰まで伸びて、くりくりした大きな目で私を見つめている。
彼女がポーランドのルドヴィカ・ゲレメクだと気付くのに、少し時間がかかった。
「はろー……」私は小さく手を振ってみる。
ルドヴィカちゃんは手を振り返してくれた。
「Yugo is finding you」と彼女は言った。
──ユーゴはあなたを探している──
「うん……」私はうなずきながら、また少し泣いてしまった。
✳︎
控室に戻った時、俺は部屋を間違えたのかと思った。
「ユーゴ、あなたのマズルカ、とても素敵だったわ」と言った小柄な女は、ルドヴィカ・ゲレメクだ。
俺の頭がブッ飛んだ後に会った女なので、よく覚えている。
正真正銘、掛け値なしのショパン弾きで、自分がショパンの姉ルドヴィカの生まれ変わりだと信じている。それが単なる妄想なのか、ことによると本当にそういうことが起こり得るのか、俺の知ったことではないが、彼女はそう名乗るのに相応しいショパンを弾く。俺にはそれで十分だった。
彼女には、場の空気だとか、話の流れだとか、そういうものは全然関係ないみたいだった。
「アンタは、どうしてここに? もう出番は終わったろ」と聞いた。
「呼ばれたの」
呼ばれた? 誰に?
俺がその疑問を口にする前に、控室のドアが開いた。
おそらく日本人の、女だった。20代の半ばだろうか。あるいはもう少し上かもしれない。
身体の線を強調するようなタイトなスーツを着て、二言めには暴言を吐かないと気が済まないという顔つきをしている。
「よう、勇吾。アタシのことを覚えてるか?」
「いや、全然」と俺は答えた。
「そうか。クソが。柴田 真樹だ。二度と忘れるな。この地球上で最もアンタのクソみたいな性格に迷惑を被ってきた人間だよ」
「そうか。それは大変だったな」
「よし、お前、後で一発カマしてやるから覚えとけ」
柴田と名乗る女は日本語でそう言うと、今度はルドヴィカに向かって、急に慇懃な英語を喋った。
「お呼び立てして申し訳ありませんが、この部屋はすぐ空けなくてはなりません。別の場所を用意しておりますので、ご案内します」
「いや、何がなんだか……」と俺は説明を求める。
「こっちは大人の話だ。テメェはそこの女と話つけてこい。後で連絡する」
そう言って、1台の携帯端末を投げて寄越した。おそらく、俺のスマホはジジィに取り上げられていた。それを見越してのことだろう。
ルドヴィカが、俺の背中を軽く叩きながら、柴田の後について部屋を出て行った。
そして部屋には、俺と、そして、きっと、俺がずっと探していた、背の高い女の2人だけが残された。
もうすっかり慣れたはずの控室が、やけに広く感じられた。
女は、窓を背にして立っていた。
✳︎
彼は私を見つめながら、言葉を探すように、何かを言いかけては、途中で口をつぐんだ。
彼の鼻には傷があった。
「どうしたの?」と私が自分の鼻を指して聞くと、彼は少しためらって、「転んだ」とだけ答えた。
「部屋、出なくちゃね」
「ああ……」
彼は私に背を向けて、部屋の出口へ一歩踏み出した。
私は強く踏み込んで、彼の背に抱きついた。想いが溢れて、もう、そうせずにはいられなかった。
「会いたかった……」
彼の背中が、にわかに震えた。
「俺にとって、世の中には、許せることより許せないことの方が多かった。
でも、俺は今、お前を思い出せない自分のことが、何よりも許せない」
彼の、華奢な身体の感触が、私の身体を温めた。
「大丈夫。こうやって、また出会い直せばいいんだよ」
✳︎
陽はすっかり暮れ落ち、代わりに街は街灯やディスプレイで色とりどりに照らし出されていた。
「ねえ、私たち、まだ高校生なのに、2人で海外にいるんだよ! 凄くない?」
紺色のスカートとベージュのジャケットを翻し、篠崎 寧々は明るい声で言った。
俺はこういう雰囲気で人と街を歩くということ自体、初めてのように感じた。以前にもこういうふうに、彼女と一緒に日本の街を歩いていたのだとしたら、その記憶が惜しかった。
彼女の顔立ちは、その大柄な体躯に反して幼く見えたが、目には意志の強さと、そしてどことなく憂いのようなものの混じった、複雑な色合いで輝いていた。
「どこか、行きたいところはあるか?」とたずねた。
「どこでもいいよ。本当に、一緒ならどこでもいいの。でも、勇吾くんさえ良ければ、どこかに座って、今まで2人で過ごしてきたことについて、写真などをまじえてご説明したくてですね……」と話している途中で、急に転調したみたいに彼女はまごつきはじめた。
「どうした?」
「いえ、なんか、勇吾くんが私のこと覚えてないんだと思ったら、私まで初対面みたいな気持ちになってきて……変な女だとか、思われないかと……」
俺はそれについて考えた。
「確かに、俺の記憶では、大の男を2人引きずって現れたのが最初だ。強烈なインパクトだった」
「やめてぇ……」風船から空気が漏れるような声で、篠崎 寧々は呟く。
その声を聴くと、俺はなぜだか急に空腹を感じた。前に飯を食ったのがいつだったか思い出せない。
「何か、食いに行かねえ?」
唐突かもしれないとは思ったが、この誘いを彼女は思いの外喜んでくれた。
「パンケーキはどうでしょう?」
「いいな。最高じゃねえか。でも、店が分からねえな」
「実は、調べてあるんですよ……」
そう言いながら、彼女はスマホを開いて、画面を俺に見せた。
地図を見ると、ワルシャワ中心部を南北に走るマルシャウコフスカ通り沿いに、ホールから500メートルほどのところだった。
「近っ!」
店に向かう間、篠崎は、俺と彼女が初めて一緒に外食した時もパンケーキを食べたのだと教えてくれた。
店には行列が出来ていて、俺は尻込みしたが、席に通されるまではそれほど待たなかった。
メニュー表は文字だけで、写真がなかったので、俺はそれを日本語に訳して読み上げた。
「勇吾くんが、何を選ぶか当てていい?」と彼女は言った。
「ああ。分かるのか?」
彼女は俺の顔を見つめて、それからメニューの一つを指した。
『バナナ・くるみ・塩キャラメルのパンケーキ、クリームソース添え』
俺は驚いて彼女を見た。
「飲み物はコーヒー」
「ああ、俺は……」と言いかけたのを、遮って、彼女は人差し指を唇に添える。
「甘いものを食べてる時しか、コーヒーが飲めない」
嬉しそうに顔をほころばせる。
「すげぇ……」
俺は自分を──それもピアノとは関係のない部分で──理解してくれる人がいるのだということに、純粋な感動を覚えた。
✳︎
パンケーキを2人で食べた後、彼はタクシーを拾い、旧ワルシャワ王宮近くの河川敷へ、私を連れて行ってくれた。
「綺麗……」
タクシーを降りると、街灯に照らされた王宮を見上げて呟いた。
「何となく、こんな河川敷で、人と話したような気がするんだ」
私は思わず口元を手で覆った。
「初めて一緒にパンケーキを食べた時、私が落ち込んで川を眺めてたら、勇吾くんが声をかけてくれたんだよ」
「そうか。お前は、俺のことをこんなに覚えててくれてるのにな」
勇吾くんは少し寂しそうに、そう呟いた。
私の気持ちが、口をついて溢れた。
「勇吾くん。私ね、あなたのことが、好きだよ。今日知ったばかりの人に、こんなこと言われても、戸惑うだけかもしれないけど。でも、本当に好きなんだ。
私、本当は今すぐ勇吾くんを連れて日本に帰りたい。私は、あなたがピアニストじゃなくてもいいの」
✳︎
「俺が、ピアニストじゃなくても……」
それも、いいかもしれないと思った。このまま2人で逃げ出して、どこか静かなところで、ひっそりと暮らすのだ。俺は時々ピアノを弾く。まあ、この際アップライトでも我慢するさ。
そんなことを考えているのが妙に照れ臭くなって鼻先を掻いた時、そこに出来ていたかさぶたを引っかいた。
「あ、大変! 血が出てる!」
篠崎は、手に持ったバッグをごそごそやった。
「別に、そんな大袈裟なもんじゃねえ」と言う俺をよそに、彼女はそこから絆創膏を取り出して、手がかじかむのだろう、不器用に包みから剥がした。
そして────俺の鼻先に、貼った。
いくつもの情景が、いくつもの声と共に、目も眩むほど鮮やかに頭の中を駆け巡った。
「実は、初めて会った時……」そう言う寧々の唇を、俺は自分の唇でふさいだ。
✳︎
「お前は、あの時も、こうやって俺の鼻に絆創膏を貼ってくれた」
互いの体温を確かめ合うように、2人は何度も、唇を重ねた。
「あなたは、とても強い言葉で私を支えてくれた」
「お前は、俺の手を撫でてくれた」
「私に、ピアノを弾いてくれた」
「弁当を作ってくれた」
「私のことが、好きだって言ってくれた」
「あの海沿いの町で、お前は俺を慰めてくれた」
「お祭りに行って、花火を見た」
「戦うとはどういうことか。優しいとはどういうことか。強いとはどういうことか。人が好きとはどういうことか。そして、心を込めてピアノを弾くとは、一体どういうことなのか。
全部、お前が教えてくれた」
2人強く抱き合って、目をつむり、一言話すたびに頬を、額を、唇を、何度も、何度も触れ合わせた。
そうしていると、自分と自分の愛する人との間にあった境界は、もうほとんど曖昧だった。
どちらが先ともなく、2人は空を見上げた。しかし涙は目尻を溢れて、こめかみに垂れた。
その夜、ワルシャワに初雪が降った。





