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悪童ピアニストと内気な剣道女子のための叙情的組曲【書籍2巻発売中】  作者: 福太郎
第12曲「狂気をもって、あるいは秩序を破って」
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12-8.「愛してる」という主題によるロンド/呉島 勇吾/柴田 真樹/阿久津 ルカ

「愛してる……」と女は言った。


 その言葉が、ずっと頭の隅に引っかかって、音楽に深く潜ろうとする俺を引き止めた。


 不思議な感じだった。


 ソナタの2番を弾き終えると、俺は少し間をとった。


 ここまで弾いた、バラード2番とソナタの2番。

【ピアノの悪魔】というヤツが本当にいるとして、ショパンの曲を弾くとすれば、この2曲を選ぶかもしれない。


 しかし、マズルカは弾かないだろう。悪魔に『郷愁』というものがあるのかどうかは知らないが、あるにしても、地獄に寄せる郷愁は、おそらくこういうものではない。


『マズルカOp.59-1』イ短調

 単音の、寂しい旋律を、ゆっくりと、くぐもった古めかしい音で鳴らす。


 きっと、俺にもこういう時があったはずなのだ。


 昨日の夜からずっと、俺の身に起きた過去の出来事について考えていた。


 俺は、生物学上の父親を知らない。

 聖母マリアは男女の交わりなしにイエスを受胎したというが、これが「心当たりが多すぎて、誰が父親か分からない」という伝説だったとしたら、俺は今頃キリスト教徒だったかもしれない。


 母親は、俺を持て余した末、自分の兄に預けた。

 それがいつのことだったのかは、はっきり分からない。


 その兄夫婦というのは手のつけられない俗物で、金の話ばかりしているわりに、少しも金が足りていなかった。


 なぜかというと、夫の方は飲食店を経営していたが、これがさっぱり上手くいっていないくせに、他所に女を囲っていて、妻の方は人より特別足が多いワケでもないのに高い靴を沢山買っていたからだ。


 そういう夫婦が体裁のためだけに親族の子どもを預かったのだから、ロクなことにならないのは目に見えていた。


 おかげで俺は、ひどく腹を空かしているか、あるいはとんでもなく腹を空かしているかのどちらかだった。


 だから俺にピアノの才能を発見した彼らが、教授に俺を売ったのは、考えようによっては冴えた判断だった。


 その教授が1ヶ月もすると普通にピアノを弾くようになった俺をかえって気味悪く思ったのと、昼も夜も問わずピアノを弾き続けなくては気が済まないタチだったことに、あっという間に参ってしまって、伝手を頼って俺をハンガリーに飛ばしたことを除けば。


 その先に起きたことも、まあ似たようなものだった。


 しかし、俺には一つ、気付いたことがある。


 俺は、生きているということだ──


 やるせない呟きのような終止で1曲目を終えると、すぐに2曲目に入る。


『マズルカOp.59-2』変イ長調

 優しく明るい旋律が、軽快なリズムに乗って流れていく。


 貴族的な華麗さや優雅さではない。もっと素朴な、気取らない溌剌(はつらつ)とした明るさで、しかしそれが、もう二度と辿り着くことのない、色褪せた過去の思い出であるというふうに。


 赤ん坊だった俺に、母親が乳を与えなかったとしたら、母親の兄夫婦が、俺に少ないながらも餌を与えなかったとしたら、教授が癇癪(かんしゃく)を起こして俺を折檻(せっかん)していたとしたら、多分俺は死んでいた。


 だが、俺は今、こうして生きている。


 俺は少なくとも、生きていけるだけの食物を与えられたからだ。

 では、彼らをそうさせたものはなんだろう。


「愛してる……」と女は言った。


 きっと、俺を生かしたのは、彼らの、ほんの少しの『愛』だ。


 母親が俺に母乳を与え、兄夫婦が1枚の食パンを与え、教授が惣菜やコンビニ弁当を与え……彼らの耳掻き一杯分ほどの愛が、きっとそうやって俺の命を繋いだ。


 感謝しようとは思わない。


 ただ俺も、ほんの少しだけ彼らを愛していた。


 義理の母親に手を引かれて花火を見た時、教授が俺にカップラーメンを食わせた時、俺は、ほんの少しだけ、彼らを愛していた。


『郷愁』とは何だろう。


 思うに、「愛していた」という記憶ではないか。あるいは、それが遠く手の届かないどこかに失われてしまったという悲哀ではないか。


「愛してる……」と女は言った。


 俺も、そうだったのかもしれない。それを思い出せないことが悲しい。


『マズルカOp.59-3』嬰ヘ短調


 俺がコンクールの予選で最後に弾いたマズルカだ。


 俺はこれが、退屈な音楽だと思っていた。

 憤怒のような短調で始まり、そのくせ愛想笑いのような長調で締め括られる、退屈な音楽だと。


 しかし、俺の人生の(かたわ)らを通り過ぎていった人たちが、ほんの少しだけ俺を愛し、俺もまたそういった人たちをほんの少しだけ愛していたことに思いを寄せて、もう二度と戻ることはないそうした過去を懐かしむ時、この音楽は完成したように思えた。


 俺はこの音楽の冒頭を怒りだと思っていた。しかし、それは間違いだ。これは永遠に失われたものを想い、わななくような哀しさだ。


「愛してる……」と女は言った。


 人生は続く。


 失われた過去を想って立ち止まり、その失われたことに嘆いた後には、また前へ踏み出して進まねばならない。その過程で、また何かが失われるとしても。


 だから、このマズルカは悲痛な響きで始まりながら、不思議と晴々しいのだ。


 悲しみを払って走り出すように。


 俺を「愛している」と言った女、俺はきっと、お前をずっと探していた。


 記憶を失ってからのことではない。きっと、もっと、ずっと前から。俺は、俺が愛すべき誰かを、ずっと追い求め、探し、憧れていたのだ。


 これが終わったら、俺はお前に会いに行く──


  ✳︎


「どうですか? 社長」

 私がそうたずねると、社長の川久保は深く息を吐いた。


 感嘆というものを全身で表現するような、そういう呼吸のしかただった。


 勇吾がステージを去った後も、拍手は鳴り止まなかった。

 ひょっとすると、粘ればもう一曲弾いてくれたりはしないだろうかと期待するみたいに。


「化け物だ。美しくて、悲しい怪物」


「それが見たくて、あなたは彼を育てていたのでは?」


「そうだね。勇吾のマズルカには確かに、強烈な『郷愁』があった。だが、彼の郷愁は、失くした記憶に寄せる仮初(かりそめ)のものかもしれない。彼は早晩記憶を取り戻すだろう。我々の本番は、これからだ」


 私は立ち上がった。

「社長、アタシね、ずっと、考えてたんだ。アタシら、そろそろ子離れの時期が来てるんじゃないか?」


 川久保は動かなかった。

「子どもが一人で渡っていけるほど、この世界は甘くないよ。むしろ、君の方がそれをよく知ってるはずだ」


「子離れってのはさ、ただ子どもを放り出すってことじゃないはずだ。対等に扱うってことだよ。あいつと、ちゃんと話し合う時が来たんだ。きっと、あいつはもう、それが出来るよ。

 アンタがアンタなりに、勇吾を愛してたのは知ってる。そのやり方が、どれだけ(いびつ)で強引だろうが、アタシだけは、アンタのやり方を認めてた。

 だけど、物事は次のフェイズに進む。やり方を、一度見直そうよ」


 川久保はそれに答えなかった。

 3階席から見下ろす審査員たちが、頭を抱えたり、天井を仰いだり、あるいは必死にメモをとったりする様を、何か高尚な舞台芸術みたいに楽しんでいるようだった。


 私は彼に背を向けて、客席を後にした。

「社長、次は大人の話をしましょう。金という尺度で重さと大きさを測れる大人の話を」そう言い残して。


  ✳︎


 鳴り止まない拍手の中、隣の席に男がやって来て、座った。

「ルカ」と俺の名を呼ぶ。

 質の良いスーツを着た、30代半ばのイタリア人だ。


 スタッフがピアノを入れ替えるだけの面白くもない舞台の上を眺めながら、俺はイタリア語でたずねた。

「どうだった?」


「照明を消したホールの職員を押さえた」


「上まで(まく)れそうか?」


「余裕だな。職員にその指示をした男まで分かってる。所詮この手のことは素人さ。すぐ辿り着く」


 音楽の世界にも派閥というものがある。


 音楽の審査には『解釈の余地』がつきもので、『解釈の余地』はそのまま『作為の余地』でもある。


 およそ芸術の審査などというものは、そういう余地の上に建てられた楽園だという。


 ところが不世出の天才、呉島 勇吾は、その楽園に『客観性』の柱をブチ立てた。


 素人の俺でも違いが分かる、そしておそらく、プロの耳にも「これしかない」という、客観的なレベルの違い。


 これを批判するとすれば、もはや疑われるのは勇吾の腕ではなく審査員の耳だ。そして、「これを認められない奴のいう音楽なんて、別になくても構わない」という権威の失墜。


 審査員たちはいくつかの派閥に分けられるようだが、審査の『姿勢』を軸にすれば2通りに分けられる。


 自分たちの勢力を拡大するために、派閥の有力な、あるいは物分かりのいい若手を、「“出来れば”ねじ込みたい」という奴と、「“何としても”ねじ込みたい」という奴。


 後者は、落とせばかえって自分に火の粉が降りかかる勇吾の演奏に頭を抱えたことだろう。


 そしてその問題の一つの回答として、物理的な工作で勇吾の演奏を妨害しようとした。


 大方、腹を立てた勇吾が、また椅子を蹴倒して審査を降りるだとか、そうでなくともリズムが崩れるだとかいったことを期待して。


 ところが、勇吾はそのまま弾き始め、そして弾ききってしまった。

 あいつには、ホールの明かりが消えたことなど何の影響もない。


 口元に笑みが浮かんだ。

 痛快な奴だ。


「で、どうする?」トマゾは言った。


「連中に、『お前らのやってることを知ってるぞ』ということさえ伝われば、後は好きにしてくれていい。上まで(まく)れば小遣い稼ぎにはなるだろう」


 勇吾はフェアであることを望んではいない。むしろ、自分に不利なアンフェアと戦うことを愛してさえいる。


 だが、これ以上あいつの音楽に余計な雑音が挟まれることを、俺は望まなかった。


「加減が難しいな」と男は言った。


「ああ。アイツに迷惑はかけられねえ。悪いな。急に現れたこんなガキの下でよ」


「本社より居心地がいい。アンタは親父より優雅で上品だ。そこが気に入ってるよ。ボス」


 椅子から立ち上がって、そのまま会場を後にした。


 俺が出来るのはここまでだ。


 愛してるぜ勇吾。さよなら。

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