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悪童ピアニストと内気な剣道女子のための叙情的組曲【書籍2巻発売中】  作者: 福太郎
第12曲「狂気をもって、あるいは秩序を破って」
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12-7.死の詩/川久保 聡/篠崎 寧々

 この世には、天から『宿命』というものを授かって生まれた人間がいる。


 私がそう信じるようになったのは、今、左手を重々しく鍵盤に落としたピアニストに出会ってからのことである。


 ピアノ・ソナタ第2番『葬送』 Op.35


 ロベルト・シューマンはこのソナタの独創性について「彼の最も狂気じみた4人の子供を『ソナタ』の名の下に無理矢理括り付けた』という、アイロニーに満ちた、風変わりな称賛をしている。


 第一楽章「グラーヴェ(重々しく)ドッピオ(倍の)モヴィメント(速さで)

 悲劇的な序奏から、急き立てるような焦燥感と哀愁の第1主題が通り雨のように過ぎていくと、間もなく対照的に穏やかで叙情的な第2主題へと続く。


 このソナタは、全楽章に渡って、先に作曲された第3楽章『葬送行進曲』を基に他の楽章のモチーフを作り出すことで全体が統一されている。つまり、作品を通して一貫したこの音楽のテーマは、『死』である。


 私が初めて呉島 勇吾というピアニストの演奏を聴いた時、彼が弾いたのはフランツ・リスト唯一のピアノソナタだった。

 現代でも未だに議論の的になる、複雑な構成の音楽を、その5歳児は何の齟齬(そご)もなく弾ききった。

 多くの聴衆は、その変則的なフレージングや調性的な不明瞭さに戸惑う19世紀の聴衆のように、ただ混乱していた。


 しかし、私が打ちのめされたのは、その5歳の幼児が醸す、言いようのない死の匂いだった。


 ただ「難しい音楽が弾ける」という地点など、その5歳児ははるか後方に置き去りにしていた。


 彼の出現から、多くのピアニストが音楽家としての生命を断ち、その内の幾人かは生物学的な生命も断った。


 私が彼と出会った時、まず真っ先に感謝しなければならなかったことは、自分がとうに演奏家としての夢を諦めていたことである。でなければ、私は彼の路傍に倒れた凡百のピアニストたちと同じ末路を辿っていたことだろう。


 あの時の衝撃を、しいて私の乏しい語彙で言語化するとすれば、「啓示」だった。


 市場原理に支配され、単なるショービジネスに成り下がった音楽芸術の世界に、『神の子』が遣わされた──


 私は、右眼が生まれつき極端な斜視で、それがために子どもの頃はひどい(いじ)めに遭った。


 そんな私を支えたのは音楽であり、私に与えられた──しかし今にして思えばほんのわずかな──才能だったが、私が国内外のコンクールで入賞を果たしながらも、決して優勝を勝ち取ることが出来なかったことや、その後私より下位の者が次々とデビューを果たす中、私には一向にその声がかからなかったことも、突き詰めればこの外見の醜さから来るものだと悟ると、私は静かにこの華やかな世界を退いた。


 もっとも、それに気付いてから認めるまでに、十年近い歳月を費やしてしまったが。


 しかし、呉島 勇吾を発見した時、私は、それまで長く心の奥に突き刺さっていた、怨嗟(えんさ)(くさび)が、溶けていくのを感じた。


 私には、巷のピアニストに劣らぬ腕があるにも関わらず、コンサートに人を呼び込むだけの華がなかった。それがために、私はプロにはなれなかった。

 そういう下らない自尊心と誤解が、氷のように溶けた。

 

 私には、それを覆すだけの腕がなかったのだ。


 呉島 勇吾は、美しい子どもではなかった。


 当時5歳の彼には、およそ子ども特有の優雅さとでも呼ぶべきものがなかった。

 眼は飢えた野犬のように鋭く、手には痛々しい無数の生傷が刻まれていた。


 もちろん、遠目に見れば、当たり前の幼い子どもに見えたことだろう。しかし、その時最前列でそれを見ていた私には、彼の出で立ちは観客にとって、一種の不快感さえ催すべきものに見えた。


 しかし、ひとたびピアノの前に座り、鍵盤に指を落とせば、そうした視覚的評価は一切の価値を失った。


 いや、そうではない。


 彼は音楽の一切を音楽によって表現しようとしていた。

 まるで旧共産圏のピアニストのように、背筋を伸ばして椅子に座り、不親切で無愛想とも言えるほど、身体表現を用いず、ただ純粋にピアノを弾いた。


 その無駄のない、鋭利な振る舞いの美しさに、私は魅せられたのだ。


 呉島 勇吾は、信仰を忘れた音楽家たちを罰する、『裁きの火』だ。

 その業火に焼かれる者たちは、彼に【悪魔】の姿を見るだろう。彼をそう見せるのは、己の堕落だということさえ知らず。


 商業主義は音楽の単位を短く区切った。音楽家たちはその醜い拝金主義のために、ジャンクフードのような簡潔で短い音楽をせっせと作り、半年も経てば消えてなくなるような音楽を(ひっさ)げて芸術家を気取る。


 リストやショパンの時代から百数十年の時が経ち、ピアノという楽器の性能は向上、ピアノ演奏という行為は運動力学的に解析され、今や当時のヴィルトゥオーゾの演奏は、必ずしも再現不可能なものではなくなった。


 しかし、一音たりとも譜面に(たが)うことなく、ショパンの書いた複雑にして深長、遠大な音楽世界と精神性を再現したピアニストがこれまで何人いただろう?


 提示部の終わり、祝祭的なまでの輝かしい和音の連打に、私は祈る。


 音楽を(かた)る全ての偽者が地上から焼き払われ、そこに埋もれていた真に音楽を奉ずる者たちが、息を吹き返すことを。


 私は薄汚い市場原理の(やぶ)を払って彼を導く洗礼者ヨハネだ。


 そして神の子は、「死の(うた)」を(うた)う……


 ショパンのピアノソナタは長い時を超え、呉島 勇吾というピアニストを待っていた。


 私にはそう聴こえた。


  ✳︎


 控室のソファに座り、彼の音楽をぼんやりと聴いた。


 彼の音楽には、触れれば切れるような鋭さや刺々しさがあるようでいて、その中には言いようのない優雅さや、寂しさや、懐かしさのようなものが含まれていた。いつもそうだった。


 指の間から零れていくように、彼はステージに吸い込まれて行った。


 私の顔を見て、彼は「お前が、そうか」と言った。


 きっと、私のことを忘れているのだ。悲しい。


 でも、本当に伝えたかったことを、私は言った。


 一切の修辞や装飾を排して、端的に、「愛してる」と。


 私は、芸術家ではないからだ。画家でも、詩人でも、音楽家でもないから。


 彼の演奏にはとてつもない『凄味』があった。その凄味が、音楽に関わる多くの人を、狂わせた。


 でも、ちょっと待てよ、と私は思うのだ。


 勇吾くんの事務所の社長は、彼に何か神聖なものを見ている。真樹さんも、彼の音楽にある何か恐ろしげなものを、「死の匂い」だとかと表現して、評論家はかつてのヴィルトゥオーゾ、ニコロ・パガニーニに彼を例えた。多くの音楽家やクラシックファンが、彼を【神童】だとか、【悪魔】だとか……


 結構。そういうものを、全部、『神秘性』とでも呼ぼうじゃないか。便宜的に。つまるところ、彼らが勇吾くんに見ているものは、そういう神秘性だ。


 勇吾くんのピアノが上手すぎて、みんな不思議なのだ。


 真樹さんは「奇跡なんかない」と言いながら、勇吾くんのピアノに奇跡を見ていた。どうしてあんなに上手にピアノを弾くのか分からないからだ。


 彼の音楽は素敵だ。カッコいいし、熱いし、時々ゾッとするほど綺麗で、切なくて、また時には温かい。


 スチールの弦をフェルトのついたハンマーが叩くその音が、どうしてそれだけ人の心を打つのか、不思議だ。でも、音楽っていうのは元々そういうものじゃないか。


 ピアノソナタ2番の3楽章は『葬送行進曲』と呼ばれるそうだ。


 今、勇吾くんの弾くそのピアノの音は、私に『死』を連想させる。この重々しい音楽は、あらかじめそのことを知らなかったとしても、多くの人にそれを感じさせるだろう。


 序盤を過ぎて、音楽は中盤に差しかかっただろうか。ふと優しく、天国の歌を想うような、優しく、神聖で、侵しがたい響きに変わると、彼が、まるで死に憧れているようにさえ思えた。


 1楽章も、2楽章もそうだった。速くて、重くて、悲劇的な音楽が、中間部に入るとゆったりと天国的な響きをみせる。


 では、この曲を上手に弾く人は、みんな死にたがっているのか? バカな。


 いや、そうだとして、では『死』に憧れない人間なんているだろうか。生きるっていうのは大変なことで、どんなに恵まれた環境にいたってイヤなことや面倒なことの1つや2つあるものだ。そんな時、ふと、そういう痛痒(つうよう)のない世界に憧れを抱かない人なんていうのが、果たしてこの世に存在するのか。


 彼が音楽で描いているのは、きっとそういう普遍的な憧れだ。彼はそれを、どんなピアニストより濃く鮮やかに描き出してしまう。とても苦しい思いを、たくさんしてきた人だから。


 でも、だから何だというのだ。彼はとてもピアノが上手で、それは音楽の歴史を塗り替えてしまうほどで、日本なんて狭い国に閉じ込めておけるような才能ではなくて……だから、どうしたというのだ。


 私がすべきことは、ここに来てはっきりした。


 きっと、ピアノに取り憑かれているのは勇吾くんだけではない。


 彼の周りにいる人が、みんなそうだから、音楽と人間の区別もつかなくなっているのだ。


 私がすべきことは、そういう人たちがどれだけ彼を傷つけたとしても、彼にこう言い続けることだ。


「愛してる」


 私は芸術家じゃない。画家でも、詩人でも、音楽家でもない。

 だから、私の言葉には彩りもなければメタファーもない。和音もトリルも装飾音符もない。


 私は剣道家なのだ。だから、届かなければ届くところまで踏み込む。あなたがワルシャワにいるというならワルシャワまで。そして、色も起こりもなく、ただ真っ直ぐな言葉を突き立てるのだ。


 そして……


 そこまで考えた頃、葬送行進曲は終わり、取って代わって勇吾くんの両手がとてつもない速さで、お墓の間にこだまする、おびただしい亡霊のおしゃべりみたいに連符を並べた。


 全く、口で言って分からないなら身体に分からせてあげなくちゃいけませんね。


 私がどれくらい、あなたを愛しているか。


 でも、私も、それからあなたも意外に奥手だから、ちょっと早めに、私の気持ちが伝わって欲しい。


 伝われ! お願い。どうか、伝われ──!

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― 新着の感想 ―
[良い点] 社長と寧々の気持ちが……とても対象的に感じました。 社長のこと、勇吾に対して崇拝のような憧憬のような感情を抱く人々の代表のように感じました。 私はどうしても寧々の目線で見てしまうので、今の…
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