12-6.錯綜/篠崎 寧々/呉島 勇吾/柴田 真樹
ワルシャワの街に、燃えるような赤い夕陽が落ちる。
ポーランド国立ワルシャワ・フィルハーモニー・ホール。
圧倒されるほど巨大な建物で、その造りは堅牢と言っていいくらいガッシリして硬派だった。
入り口の係員に、首から提げた関係者パスを見せる。
コンテスタントの家族や、ビジネスパートナーのために渡されるもので、真樹さんはこれを余分に持っていた。
一歩踏み入ると、高い天井から大きなシャンデリアがいくつも吊り下がって、そしてなぜか、その少し奥、天井の低くなったあたりには両側にビュッフェがあった。お菓子やお酒が売っている。
多分、この国の人たちにとって、コンサートホールに来るということは、日本人の私たちが感じるよりずっと日常的なことなのだろう。
さらにその奥、幅の広い螺旋階段を登って、3階のバルコニー席へ出る。それは、いかにも「入る」というより「出る」という感じだった。
「うわぁ……」
思わず声を漏らす私に、真樹さんが顔をしかめた。
「ちょっと、やめてくんない? そういうの。田舎くせえからさぁ」
親戚の結婚式の時に買ってもらった、シンプルなワンピースのパーティードレスが心許なく感じた。真樹さんのビシッとしたスーツ姿を見ると余計に。
ここは、貴族の娘が柄のついた小ちゃい双眼鏡みたいなヤツでステージを眺めるような、そういう所だ。
ステージ中央に置かれたグランドピアノが小さく見えた。
その背後には、金色の管を並べるパイプオルガンがとてつもない威容で鎮座している。
ここは、神殿なのだ。音楽を祀るための。
そして私は、その秩序を破る異教徒だ。
2階席の最前列に、分厚い資料を抱えた人たちが現れて、席に着く。その前には机があった。審査員たちだ。
「私ちょっと、トイレに……」
隣の真樹さんに断って、私は席を離れた。
「おい、もうすぐ始まるぞ」
「すぐ戻るので」
廊下に出る。首から提げたパスケースの中身を入れ替えた。
今朝、中国のピアニスト、李 梦蝶さんから預かった、控室に通れるという別のパスだ。
階段を駆け下りて、教わった通路に入ると、少し進んだところで係員と見えるスーツ姿の男の人に呼び止められた。
私はパスを見せる。
しかし、係員は怪訝そうな顔をして、私の顔を覗き込んだ。
多分、英語で何か言っているが、私の英語力では聴き取れない。
「そーりー、あいむ、ゆーご・くれしまの、えっと、マネージャー? みたいな感じの……」
ちょっと、というか、だいぶ考えが甘かったかもしれない。
海外のコンクールに出るようなピアニストのマネージャーが、英語も話せないというのでは疑うなという方が無理な話だ。
しまいには警備員みたいな人までやって来て、代わる代わる私に何かまくし立てた。
ホールで流れるアナウンスがここまで聞こえている。
うーん……と一応うなってはみたが、すでに結論は決まっていた。
パンプスを脱ぎ、通路の端に揃えて置いた。
足の指で床を掴み、行手を睨む。
関係ない。誰が何を企んでいようと、誰が行く手を阻もうと。
「推し通る!」
✳︎
控室を出ると、ホールにつながる扉はすぐそこだったが、やけに廊下が騒がしかった。
アナウンスはすでに、俺の使うピアノやこれから弾く曲を読み上げている。
喧騒は、徐々に、というより少し早い速度でこちらに迫っている。
「何だこの子! 止まらない!」
「なんて推進力だ!」
俺は首をかしげた。暴漢か?
すると、すぐそこの通路の角から女が顔を出した。
日本人の、若い女だ。ツヤの良いショートカットで、ネイビーのシンプルなワンピースを着ていたが、筋肉質で、しかも裸足だった。足の指で床を掴むように、力強く進む。その腰にしがみ付く男を、2人引きずっていた。
彼女は俺の姿をみとめると、「勇吾くん……!」と呟くような、叫ぶような、奥行きの深い声色で俺を呼んだ。
女が立ち止まって、男2人を引きずるために屈めていた腰を伸ばすと、その背丈は抜群に高かった。
背の高い女。
「お前が、そうか……」と呟いた。
思ってたのとだいぶ違う。
引きずられていた男の一人が、俺に言った。
「君の関係者だと言って無理矢理入って来た!」
「ああ。間違いない」と俺は答えた。「俺の控室に入れてくれ」
実際には何も思い出せていなかったが、後でゆっくり話せばいい。
「勇吾くん!」女は再び、俺の名前を呼んだ。
「言いたいことが、色々あって……何から言っていいのか分からない……でも……!」
アナウンスが、俺の名前を呼ぶ。
「Mr.Yugo Kureshima From JAPAN」
「愛してる……」と女は言った。
目の前の扉が開いた──。
会場のざわめきが聞こえる。しかし、俺がステージに一歩踏み出すと、そのざわめきはすぐに、喝采へと変わっていく。
客席を向くと、頭を下げる前から怒涛のような拍手が湧いた。
椅子にかける。
鞭のような鋭い音の直後に、低い音を鈍く引き伸ばしながら、照明が落ちた。
電気系統のトラブルだろうか?
しかし、俺に影響はない。
そっと、鍵盤を押した。
✳︎
「真樹ちゃん、彼女はどうした」
審査員を紹介するアナウンスに隠れて、後からやって来た社長が私にそうたずねる。
「すぐ戻るって話ですが」と答えたが、篠崎 寧々は「トイレに行く」と言ったきり、戻って来ない。
「まさか、勇吾のところに行ったんじゃないだろうね」
「分かりませんね。あるいはそうかも」
「あの子は、場を荒らしに来たのかね?」
「どうでしょうね。人間って、自分の気持ちさえ正確には分からないじゃないですか。他人の考えなんて知りようがありませんよ」
「だからこそ、行動くらいは押さえておいて欲しいものだけどね。まあ、いい。彼はここまで来てピアノを弾かない人間じゃない」
アナウンスが、勇吾の名を呼ぶ。
照明の輝度が揺れ、客席がザワついた。しかしそれは、ステージに現れた勇吾の姿で、すぐに歓声へと塗り替えられた。
「ああ……」思わず、声が漏れた。
ステージに一歩足を踏み入れた瞬間から、勇吾はヴィルトゥオーゾになる。
技巧だけではない。その歩く姿、客席を向き、礼をして、椅子に座る、その一つ一つの所作さえ音楽に組み込まれたような、振る舞いの優雅さ……
唐突に、照明が音をたてて切れた。
しかし、客席はもはやざわめきもしなかった。
勇吾が弾くと確信しているのだ。
「ああ、これは……伝説になるね」と社長が呟いた。
『バラード 第2番ヘ長調 Op.38』
緩やかなアンダンティーノの優しい主題が、少しくぐもった音色で鳴る。モノクロームの幸せな夢を見るように。
なまじアイツを知っている人間は、どうしてあんな野良犬の指からこれほど美しい音楽が鳴るのかと首を傾げるだろう。
だが、私は知っている。
10歳の勇吾に出会った時、アイツは狂犬そのものだった。
しかし、ゾッとするほど美しくピアノを弾き、椅子を蹴倒し、客席に中指を立てて去って行く姿にさえ、形容の出来ない『美』を感じた時、私は自分がピアニストを名乗ることを恥じた。
その頃の私は、もがくようにピアノを弾き続け、仕事を取るためなら何でもした。
プライドなどというものは、とうにどこかへ失せ、誰にでも頭を下げ、媚び諂い、人前では言うのも憚られるようなマネも、それで仕事が取れるなら躊躇なくした。
しかし、ピアニストというのは、そういう人間のことではなかった。
そう悟った時、私には勇吾が、自分の夢を喰らった悪魔にも見えたし、終わりの知れない苦しみから救ってくれた神にも見えた。
出会った瞬間から、私は強く勇吾を憎悪しながら、またどうしようもなく崇拝していたのだ。
飲めもしない酒に溺れ、社長にピアノを辞めると告げて、その翌日には勇吾のマネージャーにしてくれと申し出た。何でもすると懇願した。
それからずっと、私は見ないフリをしていたのだ。
手を繋いで歩く親子に注ぐ、勇吾の切ない視線や、公園で遊ぶ子どもたちを遠目に眺めていることにも。
勇吾は強烈に憧れ、想い焦がれているのだ。愛に。喜びに。帰るべき場所がある人たちに。
そして、音楽は狂気に変わる。
調性は短調へと変わり、激しい16分音符の分散和音が崩れ落ちて、また瓦礫のように積み上がる。
プレスト・コン・フォーコ。
この巨大な暗闇の中に、勇吾の狂気は響き渡った。これほど美しい狂気がこの世にあるだろうか。
荒れ狂うような激しさが、音楽という秩序の中に統制されている。
その狂気に抗うような力強いモチーフが立ち上がり、互いにもつれ合いながら減速していくと、また、アンダンティーノの主題に戻る。
このバラードは、アンダンティーノ主題とプレスト・コン・フォーコ主題の交代で構成される。正気と狂気がせめぎ合うように。
しかしこの正気は、すでに狂気に侵されている。
美しい風景を映していた画面がフッと消えるように、長い休符が差し込まれる。
ほら、虚無が、口を開ける……
そうして静寂は侵され、正気は蝕まれていく。
最初の主題には不気味な不協和音が歪に絡みついて、やがて気付く。
狂気は元から、あの優しげだった最初の主題にあったのだ。
一方でプレストの主題は激しくも逸脱なく、整然とした8分の6拍子で進み、右手の重音トリルに入ると、今度は短調に変わったアンダンティーノ主題の旋律が、左手の低音に重々しく鳴り響いて、アジタートの終結部に入る。
速度と熱量を増して、激しく駆け抜けたコーダが倒錯的な分散和音で上昇しきると、その残響の中に、悲しげなアンダンティーノ主題が短く、何か言いかけたように回帰して、この激しい闘争は、たった3音の弱々しいカデンツで力なく終わる。
救いなどと言うべきものは、どこにもなかった。
いつしか照明がついていたが、そんなことは気にもならなかった。誰もがそうだった。
アンタは、やっぱり悪魔だよ勇吾。そして、愛してる。





