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悪童ピアニストと内気な剣道女子のための叙情的組曲【書籍2巻発売中】  作者: 福太郎
第12曲「狂気をもって、あるいは秩序を破って」
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12-5.秩序を破って/篠崎 寧々/呉島 勇吾

 夜、ベッドの上に正座して、竹刀を振った。


 事務所の社長、川久保の、芝居がかった不気味なほど明るい声を振り払うように。


 150本を振った辺りから、数えるのもやめてしまった。


「いや、うるせぇんだわぁ! ブンブンブンブン! 毎晩さぁ!」と真樹さん(どういう拍子か、私はその夜から自然とそう呼ぶようになっていた)が、文句を言うのにも構わず、無心に振り続けた。


 柄尻(つかじり)を包んだ左拳を、額の中心よりやや左に置き、鳩尾(みぞおち)の中心まで一息に落とす。相手の面の高さに、切っ先をピタリと止める。


 前腕の筋肉が熱をもって、鈍くうずく。背中が汗ばんで、シャツが貼り付く。生え際から垂れた汗が鼻の脇を抜けて、頬の膨らみに沿って首筋に流れ、鎖骨を経由して胸の谷間に届いた。


 手を止めて、竹刀を脇に置いた。

「ねえ、真樹さん、私、今まで誰にも相談できずにいたことがあるんです」


「おぉ……お前、マイペースだな……」


「ずっと、迷ってたので。何ともないことなのかもしれないし、でも、聞くなら音楽の分かる人じゃないとと思ってて……」そう言いながら、防具袋のポケットから、1枚のCDを取り出す。


「それ、勇吾の? 夏休みに録ったやつか」


 私はうなずいた。


「ジャケットの裏に曲目が書いてるんですけど、数が合わないんです。1曲、多く入ってて……」


「書き忘れか?」


 私は首を横に振った。

「なんとなく、意味があるような気がして、でも、聞くのが怖かったんです。本当に、根拠はないんですけど、彼にはどこかで、お別れの準備をしているんじゃないかって思えるようなところがあって……」


 真樹さんはサイドテーブルに置いていたノートパソコンのディスクドライブを開いて、私が手渡したCDを滑り込ませた。


「アンタもその曲を聴いてないってこと?」


「最後の曲がそうだとすれば……」


 ディスプレイに、読み込みを終えた音声ファイルが並ぶ。

 真樹さんは目を細めて、その一番下にカーソルを合わせて、クリックした。


「社長の譜面に木刀叩きつけた女が、こんなところでイモ引いてんじゃねえよ」


 ノートパソコンのスピーカーでも、彼のピアノはよく伸びて聴こえた。

 とても、穏やかな、優しい音楽だった。聴いたことのあるメロディーだ。多分、とても有名だと思う。


 彼は、歌を歌っている。口ではなく、指で。そう思った。


「なるほどな……」

 真樹さんが笑った。とても、自然で優しい感じの笑い方だった。


「どういうことですか?」


「ハズかったんだろ。普通に」


「どうして?」


「ノクターンS541『愛の夢』3番」と真樹さんは言った。


 聴いたことのあるタイトルだった。

 恥ずかしながら、タイトルとメロディーが一致していなかった。


「勇吾くんは、『愛』って言うのを、恥ずかしがったってこと?」


「ああ。そういうトコあるだろアイツ」


「ある……」


 私がうなずきながら呟くと、真樹さんは天井を見上げて、ため息をついた。

「で? どういう時に、聴いて欲しかったんだろうな」


 確かに、このCDには曲名の前に、【勇気が必要な時】とか、【うまく寝つけない時】とか、その音楽を聴くべきシーンが書き込まれていた。


「書いてないことだから……」とCDのジャケット裏を見て、それから、ハッとした。


 書いて、消した跡がある。


 それは、少し目をこらせば気付けるくらいのものだった。私はきっと、目を逸らしていたのだ。


 あれほど我が強くて、とんでもない闘志と生命力を感じさせるくせに、時折見せる、ふっといなくなってしまいそうな(はかな)さが怖くて。


 キャリーバッグをひっくり返してペンケースを探すと、中からシャーペンを摘み出し、芯を寝かせて、その跡の上を薄く塗った。


 筆跡が浮かび上がる。


 不意に、流れていた音楽が即興的でおぼろげになる。


 ──【お前が俺を、忘れた時】──


  ✳︎


 この辺りには、24時間営業のコンビニってヤツが無い。いや、よほど念入りに探せばあるのかもしれないが、そこまでの根気を捻り出すには、俺はいささか身体が冷えすぎていた。


 阿久津と別れてから、俺はしばらく旧市街をさまよって、それかから、結局、口の悪い女の──そうだ、その女は本当に口が悪かった──マネージャーが用意したアパートへ向かった。


 ほとんど風呂に入るくらいしか使っていなかったが、着替えから何から、必要なものはそこに揃っている。


 阿久津との別れは名残惜しかった。しかし、別れを惜しんでいつまでもべたべたくっ付いているような、そういう別れ方を、俺たちは望んでいなかった。


 ワンルームのアパートにはヤマハのグランドピアノが置かれているが「楽器OK」のアパートというのは、「夜中も大音量をブチかましてOK」を意味するわけではない。


 ただ、弾きたくて仕方がなかった。


 俺はシャワーを浴びて着替えると、餌を前にしてお預けを食らっている犬みたいな気分で、部屋の隅に膝を抱えて座り、阿久津の言った「抜群に背の高い女」のことを考えた。声も顔も思い出せない女のことを。


 俺が忘れていることを知ったら、女は悲しむだろうか。いや、怒り出すかもしれない。


 しかし、その女のことを考えていると、不思議と気分は穏やかだった。俺は浅い眠りについて、また目覚め、それを幾度となく繰り返しながら、夜が明けるのを待った。


 墓場で会ったチンピラに、ナイフで切られた鼻頭が時々鈍くうずいた。


 ワルシャワの夜は途方もなく長かった。


  ✳︎


 目覚めの良さに、自分でも驚くくらいだった。


 私は朝にめっぽう強い。自分の一番の強みはそれだとさえ思う。それでも、目覚めた瞬間にこれほど自分が絶好調だと自覚したことはなかった。


 私は重要な試合の前ほどよく眠れる。私の全身が、直感しているのだ。


 勝負は今日。


 初めから、きっとそうだったのだ。勇吾くんが、どこにいるのか確実に分かる今日。


 ベッドの横に立てかけた竹刀を握り、頭の上に振りかぶって、左手一本で振った。


 切っ先が鋭く空気を裂いて、眉間の高さにビタリと止まる。


「これだっ!」と思わず声をあげた。


「……朝からさぁ……」

 隣で寝ていた真樹さんが、ゆっくりと色っぽい声でうなる。でも言っていることはただの苦情だった。


「おはようございます!」と私は元気に挨拶をした。とても良く眠れて元気いっぱいだったからだ。


「いや……温度差……せっかく、勇吾の送迎から解放されたと思ったのによぉ……」


 真樹さんは完全な夜型人間だ。


 夜中の2時や3時にならないと眠れないらしい。そういう生活をする人が、どうして美人でいられるのか私には不思議だけど、ステージの仕事というのはほとんど夜なので、身体がそういうふうにできてしまっているのかもしれない。


 しかし、私にはどうしても見てもらいたいものがある。


「真樹さん! 見て見て!」

 そう言って、竹刀を片手で振った。ひゅっと空気を裂いて、ビタッと止まる。完全に、掴んだ。


「いや……もう……分かんねえし。良し悪しが……」


 うーん……と私はうなった。勇吾くんのピアノみたいに、素人でも良さが分かるとまではいかないらしい。


「つまり、私が言いたいのはですね、今日はとても調子が良いってことなんですよ!」

 そう言いながら、私は窓辺に寄って、カーテンを開けた。


「ぅおぉぃ……」

 窓から射した光に、真樹さんがうめく。


 非の打ち所のない、完璧な晴天だった。


「朝ごはんを食べに行きましょう!」


「いや……もう、1人で行ってこい。英語通じるから」


「分かりました! じゃあ、ご飯食べたら、外走ってきますね!」


「ああ……是非そうして」

 真樹さんは布団に潜り込んだ。


 急いでジャージに着替え、スマホをつかんで廊下に出ると、メッセージアプリを開いた。


 「私はホテルのロビーで待ちます。

  あなたに渡すものを持っています。

            Li Mongdie 」


 深く、息を吐いた。

 私は、互恵院剣道部の【破壊王】だ。


  ✳︎


 長い夜を超えると、また夜まで待たなければならなくて、時間の流れの緩慢さに辟易(へきえき)した。


 しかし、『雨を感じられる人間もいるし、ただ濡れるだけの奴もいる』確かにそうだと思った。


 ただただ静謐としたこの時間の流れは、俺の感覚を鋭くした。


 多分、俺にはこういう時間が必要だった。


 譜面の細部にまで目を凝らし、またあるいは遠くから眺め、そこにある音楽の形や、色や質感を探り出すように、俺の短い人生で起きた一つ一つの出来事に、意味を見出す。構造を探る。そこにいた人たちの、想いについて考える。


 指先が、鍵盤の感触に飢えている。


 壁の向こう側から、ヴァイオリンやフルートの音が聴こえる。


 楽器の許されたこのアパートに暮らす音楽家たちが、目覚め始めたのだ。


 それから、通り過ぎて行く車のエンジン音、トラムが軌道を走る音、人々の笑い声、足音、息づかい。


 カーテンを閉め切った窓から太陽の光が薄く射して、影を傾け、やがて薄くおぼろげになっていくまで、そういう音を、飽きもせず聴き続けた。


 世界は音で溢れている。


 感覚を開けば、その全てに詩情を見出すことさえ出来そうに思えた。


 部屋の隅から立ち上がって、クローゼットに用意されたステージ衣装に着替えた。


 俺はきっと、あらゆるものを音楽に出来る。


 例えば狂気も。



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