12-4.狂気をもって/篠崎 寧々
「社長の居場所が分かった」と柴田さんが言った。
「同僚から連絡が来た。社長がワルシャワの郊外に一軒家を借りた契約の履歴を掘り当てた。それも会社じゃなく個人名義でだ」
「どうやって……?」
社長個人の契約というのは、一社員が調べられるものなのだろうか?
「さあな。方法は触れねえ方が良さそうだ。一日デートしてやるって条件で、危ない橋を渡ってくれた」
話していると時々忘れそうになるが、この人は美人だ。しかもその使い所をわきまえている。
「でも、いいんですか?」と私は聞いた。
大人のデートというのは、どこまで含まれるのだろう。貞操の観点からいって、アリなのだろうか?
「相手は女だよ」
「ああ、そういう……」
なるほど、女同士で遊ぶことをデートって言ったりする可愛いヤツだ、と私は安心したが、その直後、柴田さんは「帰ったら天国に連れてってやるさ」と言うので、それ以上は深く考えないことにした。
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タクシーに乗ってワルシャワの中心部から離れると、程なく高層ビルは姿を消し、代わりに深い森が見え始めた。
「でも、どうして社長は勇吾くんを移動させたんでしょうか」
助手席の柴田さんに尋ねた。
「勇吾が音楽に潜って前後不覚になるのは初めてのことじゃない。当然こういう事態を想定していた。
やべぇクスリでもやってんじゃねえかとか、痛くもねえ腹まさぐられんのはゴメンだろ。だからこうなった場合、勇吾を隠す必要があった」
本大会出場者にはコンクール事務局から無償でホテルが提供される。それにも関わらず柴田さんが彼にアパートをとっていたのはそのためだ。もちろん、彼の気性を考えたことでもあったけど。
「でも、せっかく柴田さんが用意したアパートを、社長は使わなかった」
「ああ、そこがムカつくところだが、あのジジィは、アタシらがワルシャワに来たことを知ってる」
「どうして?」
背筋がヒヤッとした。
コンクールの配信で、舞台裏の勇吾くんのそばに一瞬映ったサングラスの男性が、事務所の社長だという。人を見た目で判断するのはよくないけれど、その怪しげな感じと、自分の動向が把握されているという気味の悪さが、私を不快にした。
「アタシは社員だからな。動向は筒抜けだ。そうなりゃアンタの帯同も、当然予想はする。社長が警戒してんのはあんただ。勇吾と会ったら、あんた、ヤるだろ」
「え?」顔が急に火照って、うろたえてしまう。「いや、そんな、もう少し、品のある言い方で……」
「おヤりになる?」
「いや……えっとぉ……まぁ、無くは? ないというかぁ、そうやって? 連綿と命を紡いできた歴史があるわけでぇ……」
「良いふうに言ってんじゃねえぞ発情期のサルが。
とにかく、あのジジィは狂信者だ。誰よりも深く勇吾を信仰し、礼讃し、帰依してる」
「【悪魔】って呼びながら?」
私はこの数日で柴田さんとの会話にもだいぶ慣れた。暴言もスルーだ。
「神も悪魔も似たようなもんさ。人智の及ばないもの。つまり、女に汚されて、そういういわば『聖性』みたいなもんが損なわれるのを恐れてる。大袈裟に言えばね。
下らねえ人間には下らねえピアノしか弾けねえと思ってる。そう言えば、もう少し理解しやすいか?」
「男女が、そういうことをするのって、下らないことですかね」
「さあね。目的によるんじゃない?」
「目的……」
「まあとにかく、あいつのピアノにはそれだけのものがあるんだ。イカれてると思うだろ? でもそう思わずにはいられないんだよ。アタシらみたいな、弾く側の人間からすればさ」
タクシーは、細い林道に入った。街灯もない細道をヘッドライトだけで不安げに照らしながら進むと、右手に見えた高い鉄柵のある門の前で停まった。
「Here」とぶっきらぼうな感じで運転手さんが言った。
「ジェンクーイェン・ザ(ありがとう)」私は覚えたてのポーランド語で言った。
運転手さんは真顔のまま何か答えた。ポーランド語だったので、私はもちろん柴田さんも意味を理解できなかったけど、『グッド・ラック』的な意味だと解釈した。
竹刀袋を掴む。
私を突き動かしたのは、恋だ。
この恋のためなら、私はいつだって、どこでだって、誰とだって戦ってやる。
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街から届くおぼろげな光を頼りに、門をくぐり、手入れもされていない植え込みの間を抜けて玄関にたどり着くと、私たちはその建物を見上げた。
煉瓦造りの古いお屋敷で、壁にはツタが這っている。
こんな所に、勇吾くんを閉じ込めているのか?
チャイムがあったが、電池が切れているのか、押しても鳴らなかった。
ドアノブに手をかける。
「もう、遠慮は要りませんよね」と私は柴田さんに確認した。
「ああ」
彼女がうなずくのを確認して、私は扉を引いた。
呆気ない程簡単に開く。
真っ暗とまでは言わないが、薄暗いでは少し言い足りない。
玄関から廊下が伸びて、外の灯りがかろうじて入り込む他に、奥のドアの隙間から少し光が漏れていた。
竹刀袋を玄関に立てかけ、中から木刀を抜く。
左手に帯刀すると、大股にその光を目指して、蹴破るような勢いでドアを開けた。
小さな部屋だった。
右の壁際に机があり、その上に楽譜と見える冊子が乗っている。
『MAZUREK』
天井からブラ下がった白熱電球が、部屋を頼りなく照らしていた。
「待ってたよ。来ると思ってた」と男は言った。
机の横の椅子に座って、脚を組んでいる。
濃い色のサングラスをかけているのは、光を遮るためではなさそうだった。
よく見ると、レンズの向こう側の右眼は極端に外側を向いていた。
部屋の中なのに、黒い、少し古ぼけたコートを着ていて、どこをとっても怪しげなのに、声色だけがやたらと明るい。
「社長、勇吾を返してもらいますよ」
柴田さんが進み出た。
「残念。ここにはいない」と男は言った。
柄頭に指をかけた。
「どこにいるのか教えてください」
社長は愉快そうに笑った。
「君、勇吾にそっくりだね。すぐ暴力に訴えるところなんかが」
「私にはあなたのやってきたことが、暴力よりよほど野蛮に見えます。彼、時々自分のことをピアノの部品みたいに言うんです。そう育てたのって、あなたでしょ?」
私がそう言うと、男はうなった。私が何に腹を立てているのか分からないみたいだった。
「どうだろう? 彼ははじめからそうだったし、僕もそうだから、あまり考えたことがなかったな」
まるで、床に脱ぎ捨てていた靴下に、言われて初めて気付いたみたいな、そんな軽さだった。
私はそのおぞましさに耐えるように、顔をしかめて続けた。
「彼が学校に来て、いろんな人と出会って、自分の気持ちに気付いて、そのことは、とても価値のあることだったと思うんです。あなたはそれを促した」
「だろ? 僕はいつも、人の心について考えている」
「ええ。そうでしょうね。なのにどうしてこんなに不快なのか、ずっと考えていました。
自然に触れたり、絵を見たり、詩を読んだり、旅をして、人と触れ合って、音楽が豊かになる。そういうことと、何が違うのか。
あなたのやって来たことって、きっと芯のところに『人間』がいないんですよ。どこまで行っても『音楽』。音楽、音楽、音楽……もうたくさん!」
「だとしたら、君は勇吾の隣にはいられない。彼は『音楽』そのものだ」
男は、確かにそう言った。
柄頭に力がこもる。そうしていないと、木刀を脳天に振り下ろしそうだった。
「違う!」と叫んだ。「彼は、人間だ!」
男は、穏やかに笑った。白熱電球の光に顔のシワを浮き上がらせて、少しずつ、柔らかな笑顔になった。そして、「ふふふっ……」と声を漏らした。それから、その笑い声がだんだんと大きくなるにつれて、穏やかな笑顔はやがて醜く歪み、耳を裂くような金切り声で、高く、鋭く、狂気じみた嘲笑へと変わっていった。
「彼はここへ来てからずっと『ペトルーシュカ』を弾いていた。人間に憧れ、恋をする、哀れな藁人形の物語だ。君は、彼が人形だとも知らず、ペトルーシュカの死に義憤を燃やす観衆みたいだね」
お腹の底にどす黒い炎があがった。
「落ち着きな!」
わなわなと震える私の肩を、柴田さんが掴んだ。
「僕もね、何も本当に彼が人形だと思っているわけじゃない。
彼は今、自分が何者かということに迷い、戸惑っている。安直な答えに飛びついて欲しくないんだ」
「私は、彼の居場所を教えてと言ったの」
川久保は、顔に薄笑いを貼り付けたまま、言った。
「君は、呉島 勇吾をどうしたい? このまま日本の普通科高校を卒業させて、会社員にでもするかね?」
「彼が、そうしたいなら」
「僕と君の分かり合えないところはそこだろうね。
月々良くて20万やそこらの給料で、また一月生き延びたと安堵する。その精神も魂も20万円に限定され、辛うじて保った生活の外形に、あの才能を押し込める。
偉大な歴史的遺産を解体して、武器弾薬に作り変えるような嫌悪感だよ。なるほど、それは幾分実用的だろう。だが、一つの文化が、芸術が死ぬ」
「そうならないためなら、彼の人生は犠牲になってもいいと?」
「勇吾はピアノを弾くことを、その世界で戦い、勝つことを望んでいる。その希望を叶えることを、『人生を犠牲にする』とは言わないだろう」
「その希望のために、他のものを全て捧げると、彼は言ったのかと聞いているんだ!」
「大人は時に、勉強よりゲームがしたい子どもの意思を律しなければならないんだよ。
これでも君には感謝しているんだ。ほんの短い間だったけど、素晴らしい出会いだった。
お陰で、彼は必要な養分を得て、蛹になった。もうすぐだ。『ヴィルトゥオーゾ』という名の怪物が、蛹を破って現れる。そして音楽の世界を作り変えるんだ」
私は烈しい怒りに駆られながら、一方では納得した。
あらゆる障害を突き破って、本当に叶えたいことがあるなら、必要なのは、狂気だ。
右手で木刀を抜き払い、机の上の譜面に叩きつけた。
「アンタたちの言う『音楽』なんて、クソ喰らえなんだよ!」





