12-3.雨/呉島 勇吾
自転車の後ろの荷台に跨って、力強くペダルを漕ぐ男の広い背中を見守った。
霧雨の降る湿った空気を裂いて、森を離れ、自転車は街を貫く。どこへ向かっているのかは知らないが、とにかく、ここではない、どこかへ。
男の名は『阿久津 ルカ』というらしい。『互恵院学園の王』だという。
俺が通っていたという学校だ。
「日本の学校ってのは王政なのか?」
「相変わらず冗談通じねえな。何をどこまで覚えてる?」
「ガキの頃から、この春頃までは大体思い出せた。けど、学校のことが全然思い出せない。最近の記憶が、虫食いみたいに抜け落ちてるんだ」
「そりゃ難儀だな」
風の音に抗うように、阿久津は大声で言う。
「アンタが学校の人間だとして、何でこんなところにいる?」と俺はたずねた。分からないことだらけだ。
「俺の親父ってのはクズだが金だけは持ってる。
お前の出てるコンクールってのに興味があったから、親父の会社を継いでやる代わりに、ワルシャワ行くから金寄越せって言ってみたんだ。そしたら出たんだな、これが。だから1次の初日にはワルシャワにいた。
そしたらお前、2次の様子がおかしかったから、ちょっと調べてみたら、イタリアのピアノ弾きがSNSでお前の行方を探してる。レオポルド・ランベルティーニ。知ってるか?」
そう聞かれて俺は答えに窮した。
どういうワケか、覚えがある。著名なピアニストではないし、知っているとまではとても言えない。だが、そいつの弾いた『アンダンテスピアナートと華麗なる大ポロネーズ』、それから、バッハの『フーガの技法』が脳裏に残っている。
上手いか下手かで言えば、かなり上手い。無論、俺ほどではないが。
「まあいいさ」と阿久津は続けた。「俺の父親はイタリア人だ。イタリア語は読み書きが出来る。で、これはただ事じゃねえなと思ったワケだ」
「どうやって、俺の居場所を?」
「こっちに来てから女を何人かたらし込んでた」
「アンタ、ポーランド語ができるのか?」
「いや、全然? んなもん、雰囲気でなんとでもなるんだよ。コツさえ掴めば」
「マジで?」
言葉も通じない女をたらし込むというのが、どういう技法によって可能になるのか、俺にはてんで想像がつかなかった。
「まあ、この辺りじゃ若い女はだいたい英語が通じるから、全く会話が成り立たねえってわけでもねえ。とにかく、そういう女たちにダメ元で聞いてみたら、お前があの墓場にフラフラ入り込んで行くのを見たっつーのがいて、俺に連絡を寄越した。
それで慌てて駆けつけたワケだ。バイクを持ち込めねえからチャリだぜ。くそダセェ」
「いや、さっぱり分からねえな」と顔をしかめる。
つまり、俺の様子を確かめに来たということだろうか。俺は自分が誰かをそこまで突き動かすほど、他人と親しくなれる人間だとは思えない。
旧市街のワルシャワ王宮を猛スピードで南にかすめ、車道を突っ切った先に太い川があった。
ヴィスワ川。
ポーランド南部のベスキディ山脈から国内をのたうつように蛇行してバルト海へ注ぐ。その河畔に、阿久津は自転車を停めた。
霧雨は依然、「降っている」と表現するのもためらうような曖昧さで漂っていたが、長くそれに晒された俺たちはみすぼらしいほどずぶ濡れで、芯から冷え切っていた。
濡れたアスファルトを踏んで、堤防を越え、河川敷に降りると、俺はいつかこういうふうに、河川敷で川を眺める誰かと話したことがあるような気がした。
慌てる様子もなく流れていく太い川を見下ろしながら、阿久津は言った。
「なら、分かりやすい話をしてやるよ。ある群の中に放り込まれた時、決まって中心的な役割を演じることになる奴ってのがいる。
そいつの周りじゃ、ある奴は勝手に祭り上げ、またある奴は勝手に貶し始める。好むと好まざるとに関わらずな」
「それが、俺だってのか?」
冗談じゃねえ。
「そう。お前はどうしたって、引き寄せちまうのさ。いい奴も、イヤな奴も。人を遠ざけて、近寄るヤツはブチのめして、一人屋上に逃げ込んでみたところでな」
「屋上?」
「いや、俺の話だよ。つまり、これはお前の話でもあり、俺の話でもあるってことだ。
俺たちはお互いに、どうしようもなく人を引きつけて、そこで起きる軋轢にうんざりしてた。
1年に野良犬みてえなガキがいるってんで、俺は気になってお前に声をかけたが、特別仲が良かったってワケでもねえ。ただ、それからお前は時々なんとなく俺のいる屋上に来て、なんとなく一緒に飯を食った。
理由を分析するとすりゃ、そういう部分で通じ合ってたからだ」
「俺と、アンタが?」
「ああ。そうさ。俺たちはどうしたって、ある物事の中心に置かれちまう立場だった。俺の場合は親父の会社、あるいは学校での力関係。お前の場合は音楽だろう。
俺の親父は、お袋と俺を捨てておきながら、テメェが歳を食ったと気付いた途端、急に会社を他人に譲るのが惜しくなって、落胤の俺に擦り寄ってきた真性のクズだ。
もしそうじゃなかったら、と夢想したことは何度もあるが、思うに、俺が俺で、お前がお前である限り、環境や事情が違ったとしても、恐らく似たようなことが起きた」
「例えば俺がピアノ弾きじゃなかったとしても?」
確かに俺は、それを夢想したことが何度もあった。もしピアニストじゃなかったとしたら。
「ああ。俺が社長の捨て子じゃなかったとしても。
これはきっと、星回りの話だ。お前と俺はこういう星の巡りの元に生まれたのさ。
じゃあ、どうする?」
阿久津は俺の目を、真っ直ぐに見据えた。
霧に覆われて世界中が曖昧に見えるような夜に、その眼光だけは確かだった。
「アンタは、腹を決めたんだな」と俺は言った。
目の前の男のことは何も思い出せない。だが、それだけははっきりと分かった。
「クズどもが、何かを得ようと、またあるいは失うまいと、俺の手足にしがみついて来る。
俺はソイツらをいいように振り回して、美味いとこだけ掻っさらうのさ。どうせこういう星に生まれたなら、そう生まれたってことを味わい尽くすぜ。
足の先から頭のてっぺんまで、金に溺れて死ぬ。俺はそう決めた。
お前がどう生きるかはお前の勝手だが、俺はそう決めてから、少し楽になったぜ」
「アンタは、俺にそれを伝えに来たのか?」
「どうだかな。多分、避けようもなく大人になっていく途中で、ガキであることが惜しくなった。そうした時に、お前の顔が浮かんだのさ。
あのチンピラどもをぶん殴ったのが、きっと俺の最後の喧嘩だ。これからは、拳じゃなくて金で人を殴ることになる」
「学校には、戻らねえのか?」
俺は、この男と会うのは最後になるのかもしれないと思った。そして、何も思い出せないこの男のことが、無性に惜しくなった。
「親父が新しく立ち上げる子会社を任されることになった。イタリアのな。摂政みてえな奴がつくらしいが、それにしたって正気じゃねえぜ。だが、これはチャンスだ。今のうちに絞れるだけ絞り尽くすさ」
「そうか……」それから、何かを言おうとしたが、不意に頭の中に浮かんだ音楽がそれを遮った。
ゆったりした4拍子で、うねるようなベースラインを、不規則なパーカッションの装飾と、エレキギターのカッティングが刻んでいくのに乗せ、語りと歌の中間みたいな男の声が、気怠げに流れていく。
「アンタは、ボブ・マーリーが好きだ……」
根拠と呼べるほどのものはなかった。しかし、ほとんど確信に近かった。
阿久津は口元に涼しげな笑みを浮かべると、両手を広げて、空を仰いだ。
「『雨を感じられる人間もいるし、ただ濡れるだけの奴もいる』ボブ・マーリーの名言だ。明日はチケットをとってる。勇吾、お前がどっち側の人間か、俺は客席で聴いてるぜ」
街灯を浴びた光の粒が、俺たちの頭上に降り注いだ。
俺はその色や、匂いや、感触を確かめながら、自分の過去について考えた。そこで俺に降り注いだ出来事や、言葉や、痛み、その意味について。
過去の記憶と体験が、俺という人間を作った。だが、そうやって出来上がった身体と魂で、これからどう生きるのかは、俺自身が決められるはずだ。
きっと、自分が『どう生きるか』を決めた時、人は大人になるのだと思った。
俺は次々に降りかかるクソみたいな出来事に抗い、戦い続けてきたようでいて、実はただ、この川にひらりと落ちて為す術もなく流されていく木の葉のように、溺れもがいていただけなのかもしれない。
阿久津は大人になった。
俺はどうする?
「俺は、ただピアノを弾くって以外に、生き方を知らねえ。でも、探しているヤツがいるんだ。それがどんなヤツで、どんな顔でどんな声なのかも分からない。でも、探してるんだ」
「それは、女だな」と阿久津は言った。
「多分、そうだ」
「背の高い女だ。それも、抜群にな。名前は知らねえ。俺はヤれねえ女に興味がねえからだ」
「あんたでもヤれねえ女ってのがいるのか」
俺は変に感心して言った。
「お前のことしか眼中にねえ。そういう女だよ」
「俺がコンクールで弾けば、その女は聴いてくれるかな」
「聴くさ。断言できる」
「じゃあ、俺はそいつに届くように、誰よりも上手く弾くよ。どう生きるのかはまだ決められねえが、それだけは決められる」
「戦って、勝て、勇吾。俺はそうする」
阿久津は俺の方に拳を突き出して見せた。俺は自分の拳を、そこに打ち合わせた。
河川敷から街を見上げた。王宮を照らす街の灯りを霧雨がぼやかして、水彩画みたいに淡くにじませていた。
俺の身に降りかかった出来事にも、見方を変えればどこかにこういう美があったのかもしれない。俺はそう思った。





