12-2.墓地/呉島 勇吾
ピアノを弾いた。弾き続けた。
腹の底を焦がすどす黒い炎を吐き出すように、鍵盤を叩き続け、唸り、喚いた。
喉がかれて、腕や指の動きが鈍り、意識が飛ぶ。そのまま鍵盤に突っ伏して、顔を打ち付けた鍵盤が弦を鳴らす音に鼓膜を打たれて目覚め、また鍵盤に指を落とす。
記憶が虫に喰われたように抜け落ちて、時系列が埋まらない。
3歳からこの春までのことは、だいたい思い出した。どれもクソみたいなことだ。
しかしそれ以降、日本の私立高校に通い始めたというところから、その学校のことがすっぽり抜け落ちている。
それだけならまだ良いが、仕事でマネージャーの女に連れられ──しかもその女の顔と名前が思い出せない。それがマネージャーの女だったという記号的な情報があるだけだ──ピアノを弾いた覚えがある。しかし、その道中の記憶が、また飛び飛びに抜け落ちていた。
社長の川久保に言われて、俺の故郷だという海沿いの街へ行き、そこで反吐が出るような自分の生い立ちを再確認した挙句、頭から酒をぶっかけられた。
その生い立ちはメディアで報道され、記者に追い回された記憶もある。
俺の演奏で勝手に熱を上げた母親が、娘に俺の真似をさせて自殺に追い込んだという話も聞いた。
そうした記憶がかえって空白を浮き立たせて気持ちが悪かった。
トイレに駆け込んで、吐いた。もう何度もそんなことを繰り返しているせいで、唾みたいなものしか出なかった。
便座にもたれかかり、また一瞬意識が飛んだ感覚の後、壁に手をつきながら起き上がると、よろよろと覚束なく廊下を歩いた。
玄関に向かっている。だが、なぜそうしているのか、どこへ行こうとしているのか、自分でも判然としなかった。
「勇吾、どこへ行く」と呼び止められた。
男の声だ。事務所の社長、川久保。奴は俺が7歳か8歳(俺は自分の年齢にあまり興味がない)の頃、どこからともなく現れた男だ。
俺は返事もせずに、玄関へ向かう。
腕を掴まれた。
「ピアノを弾こう、勇吾。これまでも君は、そうやってあらゆる理不尽を跳ね除け、あらゆる不条理を打ち倒してきた。誰も届かない高みまで、もうすぐ手が届くんだ」
「俺に触るな!」その手を振り払ってジジィを突き飛ばした。床に尻をつくジジィを見下して吐き捨てる。
「うるせぇぞ。高みだか何だか知らねえが、俺のピアノは俺のもんだ。黙って金でも数えてろ」
「何度でも言うぞ、勇吾。僕は君を『ヴィルトゥオーゾ』という名の怪物にする。そのためなら命を賭ける」
俺はジジィの前にしゃがみ込んで、その襟を掴んだ。
「関係ねえんだよ。テメェの命なんざ。いいか、俺ぁずっとテメェの小細工が気に入らなかった。それでも付き合ってたのはテメェが金になるからだ。テメェらにとって俺がそうであるのと同じようにな。余計な指図をするんじゃねえ」
そしてまた立ち上がり、玄関を出た。
✳︎
夕暮れだった。
黄色く染まった森の葉を透かして、雲の切れ間から射した赤い夕陽が、深い陰影を落とした。
あては無かった。
森を抜け、大きな道路に出て、足の向くまま北へ進んだ。
記憶を失ってから、俺はずっと何かを探していた。
鍵盤に触れていなければ、呼吸もままならないほどピアノに狂った俺が、それを差し置いても焦がれるほどの何かが、この世のどこかにある。
しかしそれが、本当に存在する記憶の断片なのか、記憶の空白に何かの間違いで染み付いてしまった誤謬なのか、俺には判断ができなかった。
ただ、それを見つけ出さなければならないという衝動だけが、俺を動かしていた。
夕陽はあっという間にどこかへ暮れ落ち、街路灯と往きかう車のライトだけが、俺を照らしては通り過ぎていった。
そうしている内に森が切れて、街に出た。
いつの間にか、ワルシャワの中央駅付近にまで来ていたようだった。
昨日、路面電車に乗って来た辺りだ。
「ここには、何もなかったろ」と自嘲する。
ここには何もなかったし、俺にははじめから何もなかったのかもしれない。
頬に冷たい感触があって、雨が降り始めたのだと気付いた。
千鳥格子のコートが細かい雨に濡れて、みじめなほど寒かった。
耳の奥に、声が残っている。
俺を蔑み、卑しめ、怨み、嘲り、貶め、罵り、憎み、呪い、「消えてくれ」と哀願する怨嗟の声が。
うるせえ。
ぶっ殺してやるからかかって来い。俺の前でピアノを弾け。俺より上手く弾いてみろ。
俺より滑らかに、俺より歯切れ良く、俺より軽やかに、俺より重々しく、俺より荒々しく、俺より荘厳に、俺より哀しく……
湧き上がる激情が口をついた。
「クソっ! 何なんだよ! 俺は!」
✳︎
街を抜けると、また深い森が見えた。
人目を避けるようにその森へ踏み入ると、その先にあるのは、墓地だった。
苔むした無数の墓標が、重たい雲を透かした月明かりの下に、ひっそりと佇んでいた。
彼らは俺を拒まなかった。
妙な安らぎを覚えて、その一つの足元に、腰を下ろしてもたれかかる。
濡れた硬い墓石がそこに触れた肩を余計に濡らしたが、不思議とそこだけが温かくすら感じられた。
ここでは永遠の眠りが許され、そして約束されている。
目をつむった。
この柔らかな霧雨に包まれて、かすかに残る体温さえ溶け出してしまえば、俺も、許されるのだろうか。
俺の中に残る誰か。例えばお前を、思い出せないことも。
──足音が聞こえた。
2人、3人……3人だ。
足音をひそめ、息を殺して近づいて来る。
こんな時間にこんな人気のないところに来る奴というのは、大体相場が決まっている。
冷えた関節が軋むのを感じながら、ぎこちなく立ち上がった。
「あ? 何だこのガキ」
3人組はいずれも男だった。
色や柄は違うが、みな薄汚れたパーカーを頭にかぶって、垢じみた顔に髭を生やしている。
彼らから見れば、俺はちょうど死角から唐突に姿を現した不審なガキだろう。
俺たちは手を伸ばせば届くくらいの距離に対峙していた。
「おい、こいつ、テレビで見たぞ。ピアノ弾きのガキだ」
「ああ、コンクールの?」
俺が東洋人のガキだというので、どうせ言葉が通じないとでも思ったのか、ごちゃごちゃ言いながら、山から下りて来た野生動物にでも出くわしたような顔で俺を見る。
そして男の中の1人は、物陰から飛び出した獣の値打ちに気付いたらしかった。中でも頭ひとつ大柄な男だ。
流暢な英語で俺に言った。
「なあ、お坊ちゃん、俺は見ての通り腕っ節には覚えがあるし、こう見えてそれなりに教養ってヤツも持ってる。ねえのは金だけだ。
お前は見たところ、大層な音楽の教育ってやつを受けてる。そして大層な音楽の教育を受けるには大層な金がかかる。ってことはだ、お前は金を持ってるってことになるよな。何が言いてえか分かるだろ? つまり、『金を置いて失せろ』って話だ」
ああ、なるほどな、とうなずいた。ポーランドの治安はヨーロッパの中では普通くらいだが、人の多い街ではこういうならず者が少なからずウロついているのがこの辺りの普通だ。
俺はポーランド語で答える。
「わざわざ英語でお気遣い感謝するぜ。俺の答えはこうだ。『失せるのはテメェらだ間抜け』」
真ん中の大柄な男が両手を広げると、それに追従するように両脇の男たちも笑った。
「イキがるんじゃねえよ。この状況をどうするつもりだ? 俺たちは天鵞絨張りの椅子に行儀良く腰掛けて、お前のピアノにうっとり聴き入るようなタイプの人間じゃねえ。お前の文化的価値にはとんと関心がねえのさ。興味があるのは金だけだ」
「で? それがどうした」
俺は相手を真似て両手を広げて見せる。
両脇の男たちが俺を囲んで睨みをきかせた。
「見ての通りこっちは3人いる。この道じゃプロだ。不意を突いて逃げ出そうったってそうはいかねえんだよ」
「それがどうしたよ」と繰り返す。
「なあ、よく考えろよ。つまり、テメェが手持ちの金を吐き出すことには変わりがねえってことだよ。それはすでに決定されたことだ。
違いはそいつを吐き出す過程で、痛い思いをするのか、それともまたステージに立っても差支えのねえ綺麗な体で帰るのか、それだけだよ。
相手が丸腰じゃ屈しづれえってんなら、こういう用意もある」
そう言うと、大柄な男は胸ポケットから折りたたみ式のナイフを取り出して、刃を開いた。
街から遠く木々の隙間を通して届いた街灯の光が、ギリギリのところで命に届くであろうナイフの刃渡りを、よく理解出来るように照らした。
俺は地面に唾を吐き捨てた。
「ああ、なるほどな。よく分かったよ。テメェらは3人いて、音楽にゃ興味がなくて、ナイフを持ってる。で? だから、それがどうしたってんだよクソったれ! いつまでもごちゃごちゃ御託吐いてんじゃねえぞ腰抜けが!」
大男の目に昏い光が灯った。それを見た他の1人が慌てて間に入る。
「おい! 殺しはワリに合わねえよ!」
「テメェら、こんなガキにここまでナメられて引き下がるなら、金玉質に入れろ。
いいだろう。やってやるよ。あの世にもピアノがあるといいな」
右手の親指を自分の胸に突き立てる。
「俺の心臓はここだ。殺してみろ、この【ピアノの悪魔】を!」
ゴツンと鈍い音がして、俺の鼻先をナイフがかすめて皮膚を裂いた。
そしてそのまま、大男は膝から崩れ落ちた。
その陰から、もう一人の大男が顔を出す。
日本人だ。男にしては長い髪を、後ろに束ねている。
「あ? 誰だテメェ!」とか何とか、口々に罵る他の2人も、大柄な日本人は瞬く間に叩き伏せた。
「よう。相変わらずだなぁ勇吾」と男は言った。メディアで俺を知ったにしては、もう少し気安い態度だった。
「誰だアンタ?」
男は呆れたように苦笑した。
「おいマジかよ。キオクソウシツってヤツか? ならもういっぺんお前の歴史に刻み込め。『互恵院学園の王』阿久津 ルカの名前を」





