5.可愛い人(律子)
ひなを送った後タクシーで帰宅し、一通り部屋を見て回る。大掃除は必要なさそうでホッとした。
もっと早く分かっていれば午後休を取ったけれど、会議が入っていて無理だったのが残念だけれど仕方ない。
明後日の定時以降はブロックしたままにしてもらえるよう、池田さんに明日伝えよう。
初めての恋人というわけでもないのに、ひながこの家に来てくれると思うと、そわそわして落ち着かない。ひなが過ごしやすいと思ってくれるといいな。
翌日、出社すれば既に池田さんは仕事を始めていた。
「池田さん、おはよう。都合のいい時にスケジュールの確認をお願いしてもいい?」
「日高部長、おはようございます。お席に伺います」
「ありがとう」
自席につく前に池田さんに声をかければ、自分のPCとメモ帳を持ってすぐに来てくれた。相談用に準備している椅子に座ってもらい、スケジュールを表示する。
「急で申し訳ないけれど、明日の定時以降、プライベートの予定があるからブロックのままでお願いしたくて。急ぎの案件はある?」
「いえ、ありませんのでブロックのままにします」
「ありがとう。至急の内容が来た場合は、今日の夜に詰めてもらうか、明日の夜リモートで対応するから」
「承知しました。他にはありますか?」
「他は大丈夫。池田さんからは何かある?」
「2点、ご確認が……」
スケジュールを確認して、いくつか調整をお願いして池田さんは席に戻った。ひなに確認をして、許可がおりたら池田さんにはひなの事を伝えておきたいと思う。緊急で何かをお願いすることが出てくるかもしれないから。
慌ただしい一日を終え、買い物をして自宅に帰ってきて時計を見れば、22時を過ぎていた。先に明日の夜ご飯の下ごしらえを終わらせることを決めて、キッチンに立つ。ひなの口に合えばいいな。
ひなに会えるまでもう少し頑張ろう。
*****
待ちに待った当日、仕事を早めに切り上げて、落ち着かない気持ちでひなを待つ。少し前に、駅に着いたと連絡があったから、そろそろ到着するはず。
下まで迎えに行こうかな、と立ち上がった時、インターフォンが鳴った。
モニターを見れば、ひなも落ち着かない様子で、私だけじゃないんだなと嬉しくなった。
迎えは不要と言われたけれど、居てもたってもいられずにエレベーターホールまで来てしまった。もうすぐひなに会える。
「ひな」
「え……律さん」
エレベーターのドアが開いて、ひなと目が合えば私がいるとは思わなかったのか、驚いたようだったけど、ホッとしたように笑ってくれた。
「こっちね」
荷物を見て、本当に泊まってくれるんだなってジーンとして、やっぱり迎えに行けばよかったなと後悔した。荷物を預かるにも、もう玄関は見えている距離だからやり取りする間に着いてしまう。
「お迎えありがとうございます」
「ううん。駅まで行けなくてごめんね」
「近かったし、全然大丈夫でしたよ」
「どうぞ」
すぐに部屋の前について、玄関を開ければ少し固まって、キョロキョロしながら後をついてくる。すごく可愛い。抱きしめたいけど、自分の理性に自信が無いから今はやめよう。さすがに、家についてすぐベッドはね……がっつきすぎで引かれそう。
楽しそうに家の中を探索するひなが可愛いし、部屋ごとに、ここは入ってもいいのかなって戸惑うところも、促すと嬉しそうに笑うところも、全部が愛しい。私の部屋にひながいるって幸せだ。
用意しておいた夕食を並べて、ひなの様子を伺う。一緒に食事をした時に好んで食べていたもの中心にしたから、どれも大丈夫そうだな、と一安心。
料理は好きだし、好きな子に美味しいって食べて貰えたら嬉しい。明日の朝ごはんも喜んでくれるかな、なんて気の早いことも考える。ひなが家にいるこの状況に、思った以上に浮かれているのかもしれない。表情には出ていないと思いたいけれど。
洗い物くらいは、と申し出てくれたから、2人で並んでキッチンに立つ。食洗機に入れるものをサッと流してもらって、私が入れていく。入らないものはもう洗い終わっているし、そんなに時間はかからないけど、こういうのもいいな。
「律さんって苦手なことあるんですか?」
私がそんなことを思っていれば、ひながこっちを向いて尋ねてくる。上目遣い可愛すぎない? 意図的じゃない身長差によるものだと分かっているけれど、可愛いものは可愛い。
「苦手なこと……? 一人暮らしも長いし、一通りの事は出来るかな。ひなもそうじゃない?」
「確かに、そうですね」
頼んだこともあったけれど、色々問題もあって自分でやるほうがいいなと早々に落ち着いた。
「あ、でも虫は無理」
「あぁ、虫……」
「嫌すぎて、中層より上は絶対条件だった」
虫は本当に無理。ひなが困っていたら頑張るけど。凍らせるスプレーとか、色々常備しているけれど、飛ばれたら対応できる気がしないのが情けないところ……
「ひな、なんで笑うの?」
「いや、可愛いなって」
「ひなの方が可愛いよ」
「……律さんって、可愛いって沢山言ってくれますよね。みんなにそうなんですか?」
「……え? そんなに言ってる? 自覚はなかったけど、ひなだけだよ」
「……っ」
どうやら、心の声がダダ漏れだったみたい。でも、本当に可愛いから仕方ない。時間を見れば、結構遅い時間になっていて、そろそろお風呂に入って寝る準備をしてもいいかも。下心が漏れないように、さりげなく……
「ひな、お風呂入る?」
「あ、律さんが先で……」
「私は後からで。それとも、一緒に入る?」
洗い物が終わったばかりの少し冷たい手で頬を撫でたからか、びっくりしたように目を見開いたけれど、止められずにそのまま親指で唇をなでてしまった。
「……っ、1人で大丈夫です! お借りします!」
「ふふ。タオルは出してあるから。シャンプーとか、なんでも好きに使って」
「はい」
逃げるように浴室に移動したひなを見送って、その場にしゃがみこむ。あのまま抱き寄せてキスをして、寝室へ連れ込んでしまいたかった。
キスだって、それ以上もしたことがあるのにあんなに初々しい反応は反則だと思う。手放せた私、偉い。
煩悩を鎮めようとソファに座ってテレビを付けたけれど、全く頭に入ってこない。
ひなはお風呂上がりには何を飲むのだろう。お水かお茶、それともスポーツドリンクとかジュース? 沢山用意しすぎても困惑させるだろうし、今日は2つでいいか。
「律さん、お風呂ありがとうございました」
ボーッとしていたらそれなりに時間が経っていたようで、ひなの声がした。振り返れば、ルームウェアに着替えて、メイクを落としたひなの姿が目に入る。メイクを落としたがらない子もいるからどうかな、と思っていたけれど、ひなは素顔を見せてくれるらしい。もっと近くで堪能したいけれど、それは後で。
残念ながら、髪は乾いてしまっていた。今度乾かしたいと言ってみたらどういう反応をするかな……
「ひな、凄く可愛い。おいで」
距離をとって近づいてこないから、警戒させちゃったかな、と思いできる限り優しい声を意識して隣に呼んでみる。
「水かお茶、好きな方飲んでね」
「いただきます」
隣に座ってくれて、事前に用意しておいた水を飲んだのを確認して、私も残ったお茶のコップを手に取る。
「ひな、もう歯磨きした?」
「あ、はい。しました」
「ん。お風呂入ってくるから、先に寝室行ってて」
ひなが飲み終わるまで待って、このくらいはいいかな、と頭を撫でてみて、嫌がれていないことを確認して安心した。
「はい。あ、律さん」
コップを2つ持ってキッチンへ向かえば、呼び止められたから立ち止まる。振り返れば、ひなも立ち上がっていて、洗っておくと言ってくれた。申し訳ないけれど、断るのもな、とお願いすれば力強く請け負ってくれた。
キッチンにコップを置いてから、洗面所に入れば、ひなが使ったんだよな、と考えてしまい落ち着かなくて、こんなのは私らしくないと思うけれど、嫌な感情じゃない。
手早くシャワーを済ませて、諸々のケアを済ませ、寝室に向かおうと脱衣所を出れば、まだひながリビングに居て目が合った。あれ、私先に寝室に、って伝えてなかったっけ……? 一緒に寝るのは嫌になった、とか……?
「あれ? ひなどうしたの?」
「コップの戻し場所が分からなくて」
不安を見せないように軽く聞けば、戻し場所が分からなくて待っていてくれただけで心底安心した。
「ああ。ごめんね。開けてよかったのに。ここの上に置いてくれる?」
「はい」
「ありがとう。よし、行こ」
もう待てなくて、ひなの手をとって寝室に誘導すれば、大人しくついてきてくれる。
「ひな、おいで」
ひなが寝室に入ってすぐで止まってしまったから、離したくなかったけれど、先にベッドの上に腰掛ける。笑いかけて、隣をぽんぽんして待つ。ここで焦って強引にしたくはない。年上だし、余裕を見せなければ。実際、余裕なんてないしギリギリだけど。
明日は何時に起きようか、なんて話しながらスマホのアラームをセットして、ゆったりした時間を過ごす。ひながリラックス出来るように、普段は寝る前にどう過ごすのかを聞いたり、電気の明るさはどうかとか他愛もない会話をする。
頭を撫でれば、寄りかかってきてくれた。少しは緊張も解れてきたかな?
「ひな、こっち向いて? キスしたい」
「ん……りつさ……」
甘い声が聞こえてきて、上目遣いで見られたらもうダメだった。
「ひな、好きだよ」
「……っ、私もです」
落ち着かないと、と思うのに可愛すぎて無理かもしれない。
「はぁ、可愛い……もっと可愛いひなをいっぱい見せて?」
「りつさん……」
「ひな、ごめん。できる限り優しくするから」
突然謝る私を不思議そうに見上げるひなの頬を撫でて、さっきよりも深く唇を重ねて、素肌に触れた。
「律さん、ごめんなさい……もう無理です……」
もう1回、との私からの要求に応えてくれていたけれど、かなり無理をさせたな、と申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
ひなは恥ずかしがったけれど、後処理をさせてもらって、裸のままでギュッと抱きしめる。ちょっとビクッとしたから、もうしない、と伝えた。がっついてごめんなさい……
少し経って、下着も履かせたいなと思ったのに、断られて残念。
「身体、辛くない?」
「大丈夫です。でも、すぐにでも寝られそうです」
「寝ちゃっていいよ。おやすみ」
軽く口付けて、起き上がって眼鏡を外す。ひながぼやけちゃうし、ギリギリまで外したくないけど、そのまま寝るのは難しいし仕方ない。
「眼鏡……」
「え? ああ。見たこと無かったか」
「なんか、嬉しいです」
「ん?」
「普段とは違う律さんを見られる特別感があって」
なんて可愛いことを言うのだろう。この程度で喜んでくれるなんて、何でもしてあげたくなってしまう。
「ひな……あんまり可愛いこと言うと、寝かせてあげられなくなるよ」
「……っ、寝ます! おやすみなさい!」
「ふふ、本当に可愛い」
これからもこんな風にひなと過ごせる夜があるなんて、幸せだ。




