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蒼い翼 ~深江郡主の婚姻~  作者: 海土 龍
10.葵暦199年 随州

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92/110

1.陣営を抜け出して


 葵暦198年が終わろうとしていた。

 夕餉の支度に陣中が慌しくなっている時を見計らって柢恵に呼び出された蒼潤は、甄燕を伴ない、陣営を抜け出した。

 柢恵は馬に跨ったまま陲河の堰の様子を眺めており、蒼潤がやって来ると、堰に溜まった水を指差した。

 蒼潤も騎乗したまま柢恵の指先に視線を向ける。


「もっと水量が欲しい。元より水量の多い涕河は良いが、陲河の方はもっと溜まって貰わないと水圧で城壁を壊すことができない」

「えっ、水で城壁を壊すつもりだったのか?」

「せめて城門は壊したい。そのためにも、もっと水量が欲しいんだ」

「そんなこと俺に言われても」

「いや、天連だからこそ言っている。――殿に付けられている護衛はちゃんと撒いて来たか?」

「うん。……たぶん」

「たぶん? まあ、いいや。天連、雨を降らせて欲しい」


 なるほど、ここでそうきたかと蒼潤は思った。

 甄燕も同じように思ったようで、蒼潤の隣で息を呑んだ気配がした。


「できれば、今夜から数日ずっと降り続くような雨だと助かる」

「無理言うなよ。この辺りは今は乾季だ」


 蒼潤は柢恵に請われて何度か雨を降らせているうちに気が付いたのだが、蒼潤は自身の力で雨雲を作り出すことはできないのだ。

 ただ、周囲にある雨雲を呼ぶことができる。

 雨雲が遠くの地にあれば呼ぶまでに時が掛かり、近くにたくさん浮かんでいれば、すぐに大量の雨を降らせることができた。


「そこをどうにか。浪郡では先日から雪が降り始めたらしい。浪郡から雪雲を呼べないか? 雪雲だって僅かな温度の差で雨を降らせるだろ?」


 浪郡は珂原郡よりも北で、蒲郡の東に位置している。


「遠いよ。それに浪郡と珂原郡の間に山脈がある。そこで雪が降るんだ」

「――つべこべ言わず、やってみたらどうですか? できないと思っていても、やってみたら意外とできるかもしれませんよ」


 蒼潤と柢恵の会話に甄燕が口を挟んでくる。

 甄燕は焦っていた。軍営に蒼潤の姿がないと気付いた峨鍈が大騒ぎを始める前に帰らなければならないからだ。

 蒼潤は夕餉を峨驕や深江軍の兵士たちと取り、峨鍈も自身の直属の部下たちと夕餉を取り、それを終えると必ず蒼潤を呼んで一緒に休むので、蒼潤が陣営にいないことが峨鍈に知られるのも時間の問題だった。


 甄燕に促されて蒼潤は天狼に跨ったまま両腕を夜空に向かって高く掲げた。

 いろいろと試した結果、万歳をするように両腕を上げて瞼を閉ざす格好が一番しっくりとくることが分かっている。

 集中し始めた蒼潤の邪魔にならないようにと、柢恵と甄燕が口を閉ざしたが、ふたりの馬たちが落ち着きなく足を踏み鳴らし、ぶるるっと鼻を鳴らしたので、2人は手綱を曳いて蒼潤から距離を取った。


 すると、蒼潤はこの地上で自分こそがたったひとりであるかのような感覚に陥る。

 悲しいほどの孤独が波のように押し寄せて来て、蒼潤を大きく呑み込んだ。

 溺れた者が縋るように掲げた両手で掴めるものを探っていると、その手を掴んで引き上げようとしてくる存在に気付く。

 そして、その直後、蒼潤は目を開けることなく天空を見た。


 無数の星が瞬く夜空が広く続いている。

 この辺りには雲がひとつもないと分かっているので、最初から蒼潤はもっと遠く、もっと遠くと望んで北の方に意識を向けた。

 冷たくて重い。どんよりとしたものを見つけて、それを両腕で搔き集める。

 ふと『数日間ずっと降り続くような雨』という柢恵の言葉を思い出して、もっともっと、と蒼潤は必死になった。


「――天連様っ!」 


 体を揺さぶられて蒼潤は我に返った。

 ざあざあと雨音が耳を打ち、すでに蒼潤は全身ずぶ濡れになっている。


「大丈夫ですか?」

「え?」


 蒼潤は両腕を下げて意味が分からないと甄燕を見やった。

 すると、柢恵が蒼潤の天狼に自分の馬を並べて来て言った。


「お前、しばらく意識がなかったんだよ。今までなら雨が降り始めたらすぐにこちらに振り返るのに、まったく動かないし、いくら呼んでも返事がないし」

「天狼でなければ落馬しているところです。天連様、これを被ってください」


 甄燕が袍を脱いで蒼潤の頭に被せようとしてくる。だが、この寒さの中で甄燕に薄着をさせるわけにはいかないので、蒼潤は断って、袍の上に羽織っていた毛皮を頭から被った。

 毛皮は雨に濡れてずっしりと重くなっており、頭を抑えつけられているように感じる。

 すでに蒼潤の髪は青く染まっていて、柢恵はそれを見てさぞかし驚いただろうに何も言わなかった。――と言うよりも何やら反応が薄いと思って柢恵の顔を見やれば、その顔色がみるみるうちに青白くなっていっていく。


(マズイ! 陽慧は夏でも雨に濡れたら体調を崩すヤツだった!)


 柢恵も毛皮を羽織っていたが、それも蒼潤の毛皮同様ぐっしょりと濡れていて、もはや防寒具の役割は果たしておらず、ただ重たいだけの物になっていた。

 

「早く帰ろう!」

「ええ、一刻も早く帰りましょう。この大雨です。殿が天連様を探しているに違いありません」

「いやいや、そんなことよりも陽慧だ。見ろよ、顔色がマズイことになっている!」


 ギョッとして甄燕が柢恵に振り向いた。

 柢恵はガタガタと体を震わせて凍えている。馬の手綱を握る手がまったく血の気が感じられない色になっていたので、甄燕が、急ぎましょう、と言って蒼潤と柢恵を促して馬を走らせた。


 蒼潤たちが軍営に戻ると、雨の降り注ぐ夜だというのに、軍営は昼間かと思うほど明るく篝火が焚かれ、松明を手にした兵士たちが右往左往していた。

 兵士たちは帰ってきた蒼潤の姿を見ると、大騒ぎしてその周囲を取り囲む。


「郡王様!」

「郡王様だ!」

「郡王様がいらしたぞ!」

「ご無事で何よりです。殿が案じていらっしゃいます」


 あー、と蒼潤は唸り声を漏らす。

 甄燕が懸念していたように峨鍈が蒼潤を探して大騒ぎしているらしかった。

 蒼潤は兵士のひとりを捕まえて柢恵を彼の天幕に送り、衣を着替えさせ、天幕の中を温かくするようにと命じる。

 柢恵を見送ってから蒼潤は多くの兵士たちに囲まれて、まるで連行された罪人であるかのような心地になりながら甄燕と共に峨鍈の天幕に向かった。


 天幕の中に入ると、幕の奥で峨鍈が腕を組んで立ち、蒼潤のことを待っていた。

 その表情を見て甄燕が蒼潤の側をすうっと離れて天幕を出て行こうとしたので、蒼潤はすぐさま甄燕の腕を掴んで引き留めた。

 峨鍈の両脇に夏銚と夏範が立っている。2人とも怒っているのが明らかに分かるほど険しい表情をしていた。


「どこに行っていたのだ!」


 峨鍈は蒼潤の顔を見るなり怒鳴り声を上げて、大股で蒼潤に歩み寄る。

 きつく腕を掴まれて、甄燕の背に隠れようとした蒼潤は峨鍈に引きずられ、足を縺れさせて床の上に倒れ込む。

 その拍子に頭から被っていた毛皮が落ちて、鮮やかに青い髪が露わになった。

 夏銚と夏葦が驚いて息を呑んだ気配がした。峨鍈が舌打ちをして再び蒼潤の腕を掴むと、その体を引き上げて立たせる。


「お前が攫われてしまったのかと思ったのだぞ」

「ごめん」

「ここは戦場だ。遊びに来ているわけではない」

「そんなこと分かっている。遊びに行っていたわけじゃ……っ」


 思わず言い返してしまってから、マズイと思って峨鍈の顔を仰ぎ見る。案の定、言い返したことで彼の怒りに油を注いでしまった。

 

「ならば、どこで何をしていたと言うのだ! 日が暮れてから陣営を抜け出す理由があると言うのなら言ってみろ!」


 びりびりと天幕の中に峨鍈の怒声が響き渡り、蒼潤は身を竦めた。

 ぐっと襟首を掴まれ、そのまま殴られるのかと思って、ぎゅっと瞼を閉ざす。

 峨鍈が蒼潤に対してこんなにも怒りをぶつけてきたのは、2人が婚姻を結んだばかりの頃、蒼潤が戦場に連れて行って欲しいと頼んだ時以来だろうか。

 しかし、峨鍈はかろうじて理性を保ち、振り上げた拳を小刻みに震わせながら下ろした。それを見て、つかさず夏銚が口を挟む。


「まずは天連を着替えさせろ。衣が濡れたままでは体調を崩す」


 夏銚に言われて峨鍈が蒼潤の襟元から手を放したので、甄燕が乾いた衣を衣装箱から出して蒼潤に駆け寄った。

 夏銚は夏範を先に天幕から出させると、自分も出て行こうとして、その前に蒼潤に振り返って言う。


「天連。未だ鍾信しょうしんの所在が分からん。鍾信は捕らえていた郡主たちを裴城と共に解放している。新たな人質としてお前を捕らえたとしてもおかしくはないのだぞ。伯旋にとって、郡主たちよりもお前の方がよほど効果的だからな」


 それを考えたら、昼間でさえ蒼潤は安全とは言い難い。陣営の中にいても忍び込んで来た敵や敵の内通者に攫われる可能性もあった。

 ならば、夜に陣営を抜け出すなど論外である。


「……ごめんなさい」

「お前がいないと聞いて、儂は心臓が止まる想いがした。伯旋は更に強くお前のことを案じたはずだ」

「……」


 蒼潤が言葉なく頷き、そのまま顔を上げられなくなったのを見て、夏銚は天幕を出て行った。

 甄燕に手を借りながら蒼潤は濡れた袍とはだぎを脱ぎ、新しい褝を纏う。

 蒼潤の着替えが済んだのを見て、峨鍈が甄燕に向かって片手を振った。


「安琦。下がって、お前も着替えろ」

「はい。下がらせて頂きます」


 甄燕が峨鍈に向かって拱手して天幕を出て行ったので、蒼潤は峨鍈と2人きりになった。

 重苦しい空気が天幕を満たしている。冷えた体に乾いた衣は暖かく感じたが、それでも蒼潤は凍えて体を震わせる。

 髪も未だに濡れていて、次第にガチガチと歯が鳴り始めた。

 その様子を細めた瞳で見やって、峨鍈は蒼潤の腕を掴むと無言のまま蒼潤を臥牀に連れて行く。布団を捲ると、その中に蒼潤の体を押し込んだ。


「もう休め」

「伯旋」

「なんだ?」


 蒼潤だけを臥牀に寝かせて、峨鍈はその脇に立ったまま布団の中に入って来る気配がないので、蒼潤は布団から腕を伸ばして彼の手を握った。


「お前が好きだ」


 峨鍈が息を呑んだ気配がしたので、蒼潤は視線を上げて彼の顔を見た。

 何とも言い難い複雑な表情を浮かべて、峨鍈は苦しげな声を絞り出す。


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