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蒼い翼 ~深江郡主の婚姻~  作者: 海土 龍
11.葵暦200年 猩瑯の戦い

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10.灰斗を攻める


「ですので、一刻も早く帰ってくればいいのです。灰斗の兵站基地を占拠する必要はございません。兵糧さえ焼いてくださればいいのです。そうすれば、早く天連のもとに帰れますよ」

「まさかそれを狙って、天連に城の守りを任すのではないだろうな?」

「そのまさかです」


 ケラケラと憎たらしく笑う柢恵に峨鍈は顔を顰める。それを見やり、潘立が主君に対する態度ではないと叱り、柢恵の頭を拳で小突いた。

 峨鍈は傍らで黙り込んでいる蒼潤に視線を向ける。

 目が合うと、蒼潤が顔を顰めたので、峨鍈はすっと手を伸ばして、手の甲で蒼潤の頰にそっと触れた。

 

「言いたいことがありそうだな」

「いや。……ただ」

「ただ?」

「お前はまた俺を置いて行くのだなと思っただけだ」


 峨鍈は瞬いて蒼潤の顔を見やり、そして、すまん、と短く謝罪を口にした。


「置いて行くという認識はなかった。少しばかり出掛けて、すぐに戻って来るつもりだ」

「それを置いて行くというのだ。連れ回してくれても構わないのに」

「それでは儂が困るのだ。お前が傍にいると、お前のことが気になって判断を誤るかもしれん」

「俺が邪魔だってことか?」


 違う、と言って峨鍈は蒼潤の細い肩を掴む。思わず力が入ってしまい、蒼潤が痛いと言って顔を歪めた。

 すまん、と再び謝って峨鍈は蒼潤の肩を優しく擦る。それから僅かに考えてから口を開いた。


「天連。儂は灰斗に向かう。だが、そうすれば、このいくさは戦場がふたつとなる。分かるか?」

「灰斗と猩瑯だな」

「そうだ。そして、そのふたつはどちらが負けてもならんのだ。灰斗への攻撃がしくじれば、勝機を失い、たとえ灰斗への攻撃が成功しても、その時に猩瑯が落ちていれば、儂は戻る場所を失う。――故に、儂が灰斗、お前が猩瑯だ」


 どちらも重要で、場所は違えども共に戦うのだと言えば、蒼潤は少しだけ不満を表情から消した。

 実は、と柢恵が恐る恐るといった様子で峨鍈と蒼潤のやり取りに口を挟む。


「天連に城の守りを任せたいのには、もうひとつ思惑があるのです」

「思惑?」

「天連が城壁に立てば、おそらく敵の士気は下がるかと。なんと言っても天連は郡王です。郡王に弓を引ける者などいません。天連がそこにいるだけで、敵は攻撃しにくくなるのではないかと思っているのです。だから、少数の守兵で城を守れる者がいるとしたら、天連だけです」

「俺、やる」


 柢恵の言葉に蒼潤は即座に応えた。頬を上気させ、瞳を輝かせている。

 蒼潤は極めて単純なので、柢恵に簡単に担がれて機嫌が良くなったのだ。そのことに一抹の不安を感じつつも、峨鍈は蒼潤の頭を撫でる。


「では、お前に猩瑯を任せる。定徳ていとくの提言にしっかりと耳を傾け、必ず城を守り抜け」


 定徳とは潘立のあざなだ。

 必ず守り抜けと言いつつも、万が一の時には、ひとりで逃げても良いと心の中では告げていた。

 後で潘立と不邑に万が一の時の指示を出しておこうと心に決める。


 軍議を終えて、各自、灰斗への奇襲に備えつつ日没を待った。

 煌々と照る松明を手にした者があちらこちらに立ち始めると、時が来たことを知って、峨鍈は鍾信と彼と共に峨鍈に下ってきた騎兵たちのもとに行く。


 峨鍈が馬に跨った時、蒼潤が峨鍈の元へやって来た。

 蒼潤は魚麟甲を身に着け、その上に戦袍を羽織っていたが、髪は未婚の少女のように結って、峨鍈が贈った簪を挿していた。

 耳にはチラチラと揺れる藍玉の耳飾りを着けており、これも峨鍈が贈った物だった。


「伯旋」

「案ずるな。すぐに戻る。――この戦、勝てるぞ」

「うん」


 蒼潤が峨鍈を見上げて硬い表情で頷いたので、峨鍈は身を屈めて蒼潤の額に口づけた。

 峨鍈のことが心配で堪らない。そんな顔をしている。その想いが嬉しくて峨鍈は続けて瞼の上や頬にも口づけを落とす。

 しつこいと言って蒼潤が身を捩ったので、顔を離して蒼潤の顔を見下せば、その表情は先ほどに比べてずっと和らいでいる。もっと蒼潤の不安を取り除いてやりたくて峨鍈は言葉を重ねた。


「儂には瓊倶よりも劣っているところがない。仲草に言われて考えてみたのだが、儂が瓊俱に負けるはずがないのだ」

「伯旋……?」

「第一に、儂は運が良い。麾下にも恵まれたし、良い妻にも恵まれた。第二に、瓊倶は優柔不断だが、儂には決断力がある。これだと決めたら、それに力を注ぎ、道を見失うことがない。第三に――」

「もういい。分かった。分かった、って。その通りだと思うよ。でもな、そういうことを自分で言うな」

「最後だ。言わせろ。第三に、儂にはお前がいるということだ」  


 蒼潤がハッとして峨鍈を見上げてくる。

 その瞳をまっすぐ受け止めて峨鍈は言った。


「必ずお前のもとに戻る」

「うん。伯旋、必ずだ。必ず戻って来い。俺はどんなことになっても逃げないからな。ここで死ぬか、お前が戻ってきて共に生き残るかのどちらかだ」


 蒼潤が両腕を広げ、手を伸ばして求めてきたので、峨鍈は再び身を屈めて蒼潤の背中に片腕を回すと、その体を引き上げて口づける。

 軽く触れるだけで離れ、蒼潤の肩を軽く押しやって峨鍈は表情を引き締める。


「芝水、十里ほど東へ行け。石塢は更に十里ほど東だ。合図でいつでも灰斗に攻め込める準備をしておけ。ただし、芝水は猩瑯にも戻れるように」


 それから、熊匀と卞豹に南から大きく回って灰斗を目指すように指示する。もっとも距離があるので、峨鍈よりも先に城を出て行く。

 可能な限り、瓊俱には城を出て行ったことを知られたくないので、物音を抑えるために兵士たちは具足をつけておらず、馬の蹄には布を巻いていた。

 峨鍈の馬の左右に柢恵と鍾信が己の馬を並べてきたので、峨鍈は蒼潤に視線を戻す。蒼潤は峨鍈の馬の鼻頭を撫でていた。


「天連、行ってくる」

「うん」


 蒼潤が峨鍈の馬から離れたのを見て、峨鍈は馬の脇腹を蹴った。



▽▲   



 先行する熊匀と卞豹が灰斗の警戒線に触れる。

 灰斗よりも5里ほど手前の場所だった。そこを護っていた5千を攪乱し、引きつけながら熊匀と卞豹はそれぞれ5百を率いて北へと移動する。

 その隙に峨鍈は灰斗へと進んだ。

 熊匀と卞豹が敵兵と鉢合わせしたことで瓊俱に報せが送られたはずだ。ならば、この先は潜みつつ進むことよりも速く進むことを優先すべきだった。

 峨鍈は馬の蹄を覆っていた布を取り、駆けやすくなった馬たちを思う存分に駆けさせた。


 間もなく瓊俱が灰斗に敷いた兵站基地が見えてくる。すでに時刻は真夜中を過ぎた。灰斗までたどり着くのに時間が掛かったため、夜明けまであと数刻しかない。 


(急がなければ)


 峨鍈の隣で柢恵が馬を駆けさせながら灰斗の方に視線を向けて言った。


「兵糧がありそうです」

「ああ」


 あるだろうな、と峨鍈も頷く。

 灰斗の陣営の中に方形の木造建築物がいくつも見えた。――兵糧倉庫である。

 罠のためだけに造らせたにしては数が多かった。


「行くぞ」


 短く言い放って峨鍈は馬の脇腹を蹴る。

 灰斗の兵站基地は松明の灯りでまるで昼間のような眩しさだった。峨鍈が攻めて来るという報せはすでに届いている様子である。

 警戒されているところを攻めるのは些か難儀したが、どうにか入口を突破し、奥まで攻め込む。

 

 柢恵は入口で留まったが、鍾信はかなり奥まで攻め入って、奥から火を放ちながら戻って来た。

 峨鍈は唔貘軍の騎馬隊の多くをそのまま鍾信に引き継がせており、唔貘が鍛えただけがあって、その戦いぶりは目を見張るものがあった。

 赤々と燃え盛る灰斗に、鍾信が率いる騎馬隊は唔貘の残影を映す。


 十分に兵糧を焼いたと判断して峨鍈は退却の合図を出した。問題はここからである。

 灰斗の兵站基地に深く入り込んだ峨鍈軍は謂わば袋の鼠であった。そこから脱することこそ難しい。

 基地の中にいて炎に巻かれた瓊俱軍は大きく混乱していたが、基地の外を守っていた敵兵たちは無傷であり、しかも、そちらの方が数が多かった。

 彼らは兵糧を燃やされた失態を取り返そうと、血眼になって峨鍈に迫って来る。

 

「敵、1万がこちらに向かって来ます」


 どこからか不邑の声が響き、やはり灰斗の近くに敵が潜んでいたかと峨鍈は舌打ちをする。

 柢恵が退路を確保しようと、入口で戦っている様子が見えた。そこに1万が駆けつけてきたら終わりである。


「石塢に報せて対応させろ」

「はっ」


 不邑が去っていく気配がして、峨鍈は鍾信と共に柢恵のもとに急いだ。

 空が藍色に深く沈んでいる。未明が近いのだ。

 ようやく瓊俱軍の兵糧基地から脱すると、限界に近い馬を駆けさせた。


「夏葦将軍が1万5千の敵軍と交戦中です」


 不邑の配下の者が峨鍈の馬に己の馬を寄せて報告する。

 熊匀と卞豹を追っていた敵兵が灰斗の異変に気付き、引き返してきているという。それを追って熊匀と卞豹もこちらに向かっている。

 夏銚も1万と交戦中だ。


「猩瑯はどうなっている?」


 峨鍈は己の馬が潰れかかっていることに気付いて、駆けさせるのをやめた。

 周囲の者たちの馬も同じような有様だった。猩瑯の方の空を見上げて、峨鍈は胸騒ぎを覚える。

 東の空が赤らみ始めていた。

 ――その時だ。

 ピカッと空に閃光が走る。そして次に、どおおおおおおおおおん、と轟音が鳴り響き、大地が震えた。


「なっ」


 なんだ、なんだ、と兵士たちがざわめき、動揺しながら辺りを見渡す。

 峨鍈は馬の脚を止め、猩瑯城の空を見上げて息を呑んだ。


「あれは何だ!?」


 猩瑯城の上空がどんよりとした紫色の雲が空を覆っている。そして、その雲が時折、激しく輝くのだ。

 輝いて、その後には必ず轟音が鳴り響いた。――雷である。

 雷雲は猩瑯城の上空だけを覆い、そして、その場所だけに雨を降り注いでいた。



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