36 原動力
馬車に乗り込んで、シェリルとハリエットは向かい合った。
天気が崩れて雨が降り出し、空は暗く馬車の中はさらに重たい雰囲気だ。しかしカーテンを開けることはできない。
外に広がっているであろう光景を見たら、血の気が引いてしまうことは明確で冷静さを欠いてしまいそうだったからだ。
普通の石畳を走っているはずなのに、いつもよりも酷く揺れる気がする馬車は、いったいどんなものを轢きながら進んでいるのだろう。
そう想像するとはそれはあまりに、恐怖を掻き立てる想像で、その揺れをごまかすようにハリエットに声を掛けた。
向かい合ってよく見てみれば彼女の顔色は悪く、シェリルと同じように彼女だって奮い立っているだけであって、こんな状況が平気なわけがない。話をしてこの時間をやり過ごすのは悪くない案だろう。
「ハリエット王女殿下、セラフィーナは無事でしょうか? 突然のことでしたが、私は屋敷の中にいたので被害らしい被害は受けていないのですが、皆がそうとは限りませんから」
彼女との共通の話題であるセラフィーナのことを出せば、ハリエットはなんとか笑みを浮かべてシェリルを安心させるために努めた。
「そうですわね。でも、幸いわたくしたちもことが起きた時は王城の中にいたわ、騎士も魔法使いも総出で対応をしてくれたから、わたくしもセラフィーナも無事ですわ。とても幸運だったと思う」
「よかったです……ただ戦ってくれる人がいるから私たちはこうして安全に移動もできるし、屋敷の中にいれば恐ろしい目に合うことはない。でもそれも誰かの大切な人だったり家族で、慣れない戦闘に疲弊していると思います」
「その通りですわ。だからこそわたくしは一刻も早く、策を打ちたい。でもウィルトン伯爵……シェリル、わたくしはこのままでいいと思ってはいませんわ」
彼女は膝の上に置いた拳をぎゅっと握って、瞳をまっすぐにシェリルの方へと向ける。
「誰か一人が犠牲になってそのことを気にも留めずに平和だけを享受して、やっぱりそれってわたくしはおかしいと思いますの」
「それは……」
ハリエットのその言葉に対する反論はできる。
たとえば、犠牲に対して得られる恩恵の大きさで言えば、それは相当なものである。
平和によってこの国の人間が魔獣に対抗できないほどに、戦闘能力を落としていたとしても、より多くの人が幸せに暮らすには今までの形がきっとベストだった。
でも、大きく歪んでいるのは変えようのない事実だ。
「人の為にそんな苦悩をたった一人が背負って、誰にも本当の意味では理解されることはない、それはとても苦しいことではありませんの?」
「そうですね」
さらにハリエットが言った言葉には説得力がある。誰もそんな苦悩を背負うべきじゃないし、彼女自身がそういう状況にあって体感したからこその思いは強固になったのだろう。
「だからこそこんなときだけど、こんなときだからこそ、わたくしは新しい形の精霊との契約を考えたいと思っていますの。そしてそのためには、シェリルのそばにいる精霊が必要不可欠ですわ」
「精霊との契約といっても個体によって差があるのですね」
「ええ、人に対して友好的な精霊様もいればそうでない精霊様もいる、それは最近声を聴くようにして知ったことですわ」
話をしているうちにハリエットの表情は緩んできて、今も声に耳を傾けて手のひらをシェリルの方へと向けるように耳に当てて目をつむる。
その手はまっさらで綺麗な掌だが、彼女の手がとても苦労した手だということをシェリルは知っている。
「シェリルのそばにいる精霊様はきっとはるか昔に契約を結んだ方々だと思いますわ。だからその方々と話を纏めて、お父さまたちが帰宅した時すぐに契約を結べばきっと一番、損害が少なくて済むはず」
「はい。私にできることがあるかはわからないけれど……国のためですからなんでも言ってくださいね」
「もちろんですわ。一緒に頑張りましょう」
ハリエットの手前、国のためと言ったが、それだけではない。
……クライド、できるだけ早く帰るからね。
できるならば問題を解決して彼よりも早く帰って出迎えたい。そして何事もない日々の続きをシェリルは望んでいる。
今は少し気恥ずかしくてドギマギしているけれど、今の関係性を通って過ぎて、いろいろと進展して行くはずなのだ。
そんなふうに彼と過ごす未来はとても楽しみで、失いたくなどない。
その気持ちはなにより強い原動力になるのだった。




