34 魔獣
クライドを見送った後、緊急事態の時にきちんと決められているルールを守って、戸締りをして外には出ず、二階のプライベートなスペースに上がって事態が治まるのをまつ。
使用人たちの仕事も中断して、催し物を企画していた場合も延期するのが好ましいとされている。
しかし、すぐに事情を把握できるわけではないし、けたたましい鐘の音が時折鳴り響くので、どうしてもリラックスして今が過ぎ去るのを待つというわけにもいかない。
こんな時に仕事ができるわけもなく、状況を少しでも知るためにカーテンの隙間から、アシュリーと窓の外を眺めていた。
屋敷の中はいつもと違った緊張感でどうしても落ち着かない。
窓の外を見てみれば少しはいつもと変わらない光景が広がっていて、急いで帰路に就くであろう馬車もまだ通っているし、人も少しなら歩いていた。
それを見ると少しだけほっとしたような心地になって、やっぱりそれほどの事態ではないのだろうとシェリルは思う。
しかしその気持ちは簡単に崩れ去ることになる。
「いやぁ!! 誰か!!」
窓ガラスを突き抜けてそんな悲鳴が響く。
カーテンの隙間からは目の前の道しか見えていなかったけれど、遠くから響いたその声の方向に目を向けると、馬車が襲われていて、馬は無残にも倒れ血だまりが広がっている。
「シェリル様、ご覧にならない方がよろしいかと」
「……あれは、魔獣だったわよね、アシュリー」
「は、はいっ、でもきっと大丈夫です、クライド様はお強い方だとお聞きしていますし、きっと、大丈夫なはずです」
アシュリーは怯えた様子でカーテンを強く締めた。ぐっと握って、窓の外はもう見ることができない。
しかし視認できる位置にはすでにそれがいた。
赤い目を血走らせて、らんらんと光る眼で人を探し魔力を喰らう恐ろしい獣。それが魔獣だ。
元は普通の動物だったものが、小石が魔石になるように、転変して魔力を帯びた存在。
そして彼らは魔力を喰らう。だからこそ魔力を持って魔法を使う人間の貴族というは喉から手が出るほど欲しい、潤沢な魔力を持った素晴らしい餌なのだ。
だから彼らは人を襲う。
特に高位の貴族などは大好物だ。そして人を襲って喰らうほど強くなって、手に負えなくなる。
しかしシェリルは、これから彼らに襲われるか、どうしたらいいのかではなく、どうしてここに彼らがいるのかということがなによりも気になることだった。
他国から密輸されてきた魔獣が逃げ出したのかそれとも、あの個体だけは例外で精霊の守護像の影響を受けないのか……もしくは。
……もしくは、その契約が破棄されたか。
それはシェリルが思いつく可能性の中で一番最悪のもので、窓の外からは人の怒号となにかの唸り声など様々な音が聞こえる。
それは先程までクライドといた温かな時間をあっさりと忘れさせてしまうほど不安を掻き立てるもので、シェリルでさえ、どこか暗くて静かな場所に逃げ隠れて小さくなりたいような、彼に会いたいようなそんな気持ちにさせられた。
「っ、大丈夫よ、アシュリー。それよりも守りを固めた方がいいわね。マイルズを呼んで、できる限り使用人も皆に二階にあげて私のそばに」
「は、はいっ」
「私には精霊の加護があるもの。絶対に安全よ。それは皆も知っている通り、必要以上に恐れることはないわ」
シェリルはそんな気持ちを振り払って、笑みを浮かべた。
クライドのそばにいたらきっと安心できて、彼にいてほしいと願うだろう。けれど、彼だって無敵ではない。いくら強い体を持っていても、心配もするし不安にもなる、それはシェリルが一番知っている。
そして皆も同じだ。支えてくれる彼らなくして、この屋敷での生活はありえない。
彼らを守って、クライドの返ってくる場所を守り、そしてシェリルはできることをやらなければ、それがシェリルにとって安心させてくれる大切な彼に対する同じ愛情の示し方だ。
そうして無限にも感じる時間が過ぎていく、誰もが外の音に怯えていて、誰かが応戦していることだったり、襲われていることなど様々なことがわかる音が聞こえてそのたびに心臓が苦しくなる。
そんな疲弊してしまうような時間はつづき、夜になると暗いはずの外から光りが漏れて、人々の争う声が聞こえてよく眠ることはできなかった。
そして翌日になっても、クライドは帰ってくることはなく、シェリルは確信を持った。
……もう、精霊の守護像は機能していないのね。この国の長年の平和は壊れたんだわ。
だから街中に魔獣が現れてクライドは戻ってくることもかなわずに、戦い続けているのだろう。
長年平和が続いていたこの国でこれからどうなるのか、まったく想像もつかない。
きっと多くの人がそうだろう、そしてなにより、一晩帰ってこなかったクライドの安否が気になって、シェリルは初めて彼のシェリルを失うのではないかと思う不安な気持ちを正しく理解したのだった。




