30 兄
クライドは兄であるヴィクターからの手紙を見つめて、怖い顔をしていた。
彼は非常にできのいい兄であり、代々騎士団の団長という地位を継承しているエルウッド公爵家の跡取りで、クライドとは違って父にも気に入られており若くして役職を与えられていた。
そんな彼は、多少なりとも功績をあげているクライドに騎士団の現状と要望を聞くためにこうして手紙をよこす。
父に嫌われて功績をあげようとも無視され続けているクライドにとって、そんな兄の配慮などどうでもいいことであったし、彼の生きざまについても正直好ましく思っていない。
けれども彼の寄越す情報に目を通さないほどのプライドの持ち主ではなく、頭が固いなりに、変えられる部分から今の騎士団を変えたいとは思っているのだ。
『君も、そうして守るものができたのだからもう少し我慢というものを覚えて、私に協力をしてほしい。
いつまでも子供のように親に反抗しているだけでは、何も成すことはできないだろう。違うか? ウィルトン伯爵も君の出世を望んでいると私は考えている』
しかしなんにしても、結婚したからと言ってシェリルのことを引き合いに出して、こんなことを言う兄に腹が立たないわけもない。
不正を見過ごして機嫌を取って、父やそのほかの団員が引退するまでの間耐えてそれから改革するなど、非常に回りくどい。
そんなことができるのであれば、端からクライドは、ウォルフォード伯爵の護衛などという功績をあげづらい任務を言い渡されて強制的に騎士団本部から離れるように仕向けられることなどなかっただろう。
それをヴィクターは知っているくせに、大人になったのだから、結婚したのだからとなにかとクライドが変わった前提で自分と同じ道を進ませようとしてくる。
そのスタンスがどうしても鼻につく。
……それに、俺も……きっとシェリルも出世なんかどうでもいい、ただ目の前のことに対処しているだけで与えられた役目も、大きな使命もないんだ。
ただ、嫌な思いをせずに、やりたいことをやってそばにいて幸福ならばきっと彼女だってそれがいいと言ってくれる。
それに今は、割と活動的な彼女を守ることがクライドの一番の優先事項だ。
しかし、それにもまた妙な弊害が出てきているのも事実だった。
私室のドアをノックする音が響き、マイルズが確認する。
想定通りの相手だったので通すと、彼女は深夜にふさわしい声で「夜分に失礼いたします」と言って入室し、机から顔をあげたクライドの前に立った。
「手間をかけたな。アシュリー、そちらで話をしよう、マイルズ、眠気を覚ませるように淹れてくれ」
「承知いたしました、クライド様」
手紙を置いてクライドは、机から立ち上がり、シェリルの侍女であるアシュリーと向かい合ってソファーについた。
マイルズが淹れた紅茶は苦みが立っており、要望通りのでき栄えだった。
「それで、彼女からは話は聞くことができたか?」
「はい。それとなくお聞きしてまいりました」
なんとなく声を潜めるようにしてアシュリーに問いかけると、彼女も真剣な顔で声を潜めた。
なんだか雰囲気的に危険な密会でも開いているような緊張感があったが、傍から見ればたいしたことはないことだ。
それはどうやらシェリルが男女の恋愛というものに対してあまりにも知識がないということの話し合いだった。
「シェリル様は、同性の家族とともに過ごす時間もなく、必要な教養などは与えられましたし先代方の教えとなるたくさんの資料に囲まれていましたが、やはり夫婦、ひいては男女の関係についてとても漠然とした理解をされているようです」
「やっぱり具体的なことについては何も知らないんだよな?」
「はい。そのようなことを知る機会がございませんでしたから」
肯定して、少し困ったように笑うアシュリーに、クライドも頭を悩ませる。
しかしそんな気はしていたのだ。シェリルは、知ることができた知識ならばとても理解度が深く応用が利く、様々なことに考えを巡らせてうまくやることが多い。
ただ健康のことや、恋愛など、身近な人と暮らして教わったり実感しなければ知ることがないような知識については欠落していると言っても過言ではない。
そのことに薄々勘づいていながらも、彼女を心配しすぎて感情があふれていたクライドは今まで成人した女性にするには過ぎたスキンシップを取ってしまっていた。
それを普通だと認識して、クライドの言った言葉に感化されて、自分からも求めてくれるようになったのは、クライドに対する気持ちが深化したとしたと判断できて嬉しい。
しかし同時に何も知らない彼女に対する邪な気持ちがまったくないわけではない。
「……俺が、不用意にああしてしまっていたから……今更どう説明したらいいんだ?」
特に最近の彼女は転倒すれば骨が折れそうというわけでもなく、健康的な体つきになって……女性らしく見える。
今まではなにがなんでも心配で、心配しているということを理解してほしくてスキンシップを取っていたが、こうなると話が変わってくる。
クライドからすると今の女性としてきちんとしている彼女に、何の知識もないとわかっているのに、無駄に触れ合ってしまうのは彼女を侮辱する行為にも近いと思う。
だからこそ、控えるようにしているのだが、今朝のことを思い出すと心が痛くてどうしようもない。
クライドの気持ちに対してほだされてくれたのかそれとも、応えてくれたのかはわからないが、自分からも求めてくれるその様子はとても愛らしく幸せに思うぐらいだ。
それなのに、ふれあいを拒否するというのは心苦しいし、しかしあの純真な瞳で愛を語られるとどうにも良心も痛む。
そんな板挟みの感情だった。




