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【連載版】たいした苦悩じゃないのよね?  作者: ぽんぽこ狸


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29/54

29 距離



 エントランスに到着すると彼はもう朝のランニングから帰ってきた後だったらしく、タオルで汗をぬぐい、側近のマイルズと言葉を交わしている。

  

 しかしシェリルがやってきたことを察知して発見し、彼は身軽にかけてきて、その様子はそれなりに身長差があるので結構な大迫力である。


「シェリル、おはよう。朝食はきちんと取ったか?」

「おはよう、クライド。きちんと取ったわ」

「それは良かったが、なにも俺に合わせてなくてもいいんだからな」


 そう言って彼は、シェリルの存在を確かめるかのように手を伸ばして頬に触れる。


 エントランスの大きな窓からは朝陽が差し込んでおり、たしかに朝から農業や仕事をしなければならない平民とは違って貴族が活動的になるには早い時間だ。

 

 しかし、朝日を浴びることは健康にもいいとクライドから教わり、こうしてランニングから帰ってくるクライドをできるだけ出迎えるようにしているのだ。


「苦ではないですし、早寝早起きは健康の秘訣とも本に書いてあったもの、何事も実践が大事だわ」

「そうかもしれないが、休日なのだから昼までぐっすりと寝たっていいだろう。君にはやるべき役目も今はないんだから自由にすればいい」


 当たり前のようにクライドはそう言ったが、それを言うならば彼だって休日ぐらい休んでぐっすり昼まで眠っていたっていいはずだ。


 それでもこうして毎日欠かさず運動をして剣の手入れをして、万全にしているのは、彼もなにより日々の継続が大事だと思っているからだろう。


 それはシェリルも同じであり、お互いにのんびりと日々を過ごすのが苦手な質なのかもしれないと思う。


 となればそれは共通点であり、似た者同士ということで、相性がいいということにもなるかもしれない。


 だとしたら嬉しいので「気が向いたらそうするわ」と適当に返しておく。


「そうしてくれ。俺は君が部屋でのんびりとしている様子が一番安心するのだから」

 

 言われて、彼が返ってくるのだけを待って、ずっとまったりと屋敷の中で過ごす自分の姿を想像してみた。


 それはまさしく以前クライドがシェリルを抱き上げた時に言っていた猫のような暮らしで、貴族に飼われている猫は、ネズミを捕ることもなく餌を与えられて屋敷の中で悠々自適にまったりと過ごす。


 そんな猫のようになってしまえば彼も安心で、シェリルは幸福なのだろうかと考える。


 ……でもそうなったら、なんだか少し寂しい気持ちになってしまうわね。


 彼が行くであろう場所にも、彼がやるであろう多くのことにも同行できずにシェリルはただ安全な場所で口を開けて食事を待っているだけだなんて寂しいだろう。


 できるだけ彼のことをわかって、できるだけそばにいて、彼が言ってくれたようにシェリルは彼の一番でいたい。


 そのためには飼い猫のように受け身であることは喜ばれることではない。


 最近はとても深くそう思うのだ。


「ずっと安心していてほしいとは思っているのよ。でも、そうはできないのよね」

「わかっている。しばりつけて、強引に束縛するつもりなんかない、ただの俺の願望の話だ」


 彼もその望みを絶対に叶えたいわけではないらしいけれど、それはシェリルが彼のことを想っての話だとは受け取っていない様子だった。


 きっと当たり前の権利のようなものを阻害されたくないとシェリルが思っていると彼は勘違いしているような気がした。


 ……勘違いというか、単純に言っていないだけというのもあるけれど、私もあなたのことを……きっと以前よりずっと想っている。


「そうかもしれないけれど不安に思っていてほしいわけじゃないから、こうして、触れられる時にたくさん触れておいて、これでも大分、変わってきたのよ」


 そう言ってシェリルは一歩進んでクライドに手を伸ばす。


 しかしクライドは、スッと後ろに引いて「まて」と厳しい顔をして言った。


「?」

「運動をした直後なんだ」

「そうね」

「それに、最近君はよく、そうして俺に触れようとするが、それはどうなんだ」

「どうというと?」

「…………」

「むしろ、あなたの方が私によく触れているからそれが一番安心を示す方法だと思ったのだけれど」


 シェリルはキョトンとして彼に聞き返した。

 

 シェリルとクライドの距離は主と従者であった時から相当に近い。手を貸してもらうために、体を寄せ合うこともあったし、意識を失えば抱き上げて運ぶことだってざらだった。


 以前にもそうして運ばれたし、抱きしめるのも頬にキスをするのも日常茶飯事である。


 それに、シェリル自身もそうすることは、とても安心することだ。


 大切だと言ってくれる彼にそれを与えることはとても大切なことであると思うし、つまりはクライドとシェリルどちらにも利があって素晴らしい行為であることに間違いなどないだろう。


 さらにいうと、いつかは唇へのキスだってしたいと思っている。それはきちんと話し合ったうえでの同意が必要だと思うが、それぐらいシェリルはクライドにもう大方すべてのことを了解しているのだ。


 今更、汗をかいていようとも、それをやめる意味が分からなかった。


「…………たしかに、その通りと言えばその通りだし、俺から触れているのも事実だが、それはなんというか純粋なものであってだな」

「今は違うというの?」

「違うというか……今も昔ももちろん、君について俺は同じぐらい情を向けているのは事実だが、少し前と今の君では多少なりとも変化というものがあるし」

「……」

「つまり、わかるだろう? シェリル、君の配慮は嬉しいが嬉しいという感情だけで受け取ることが難しい」


 …………?


 彼はまるで謎解きのような不可解なことを言い始め、シェリルはそのまま立ち止まって、口元に手を当てて考える。

 

 せっかく彼のいう愛情というものがシェリルの中で理解が進み、なんとか彼と同じ立場に立つことができて、これからだと思っていたのに、また別のことを主張されてシェリルは困る以外の反応ができそうもない。


 ……親愛以上の感情でいなければ苦しいほど大切で、そばにいて触れると安心して、他にはないほど大切にお互いに思うこと、そんな感じのものが愛情でお互いに一人だけ……なのよね。


 それは、自覚をもってわかっているし、私だって……クライドをきっと手放したくない。手放したら酷く、とても酷く寂しくて足元がぐらついてしまうもの。


 だから、同じだけの気持ちを持って触れ合うことが夫婦のコミュニケーションではないのかしら。


 心の中で改めて考えるとその考えは理路整然としていて間違ってはなさそうだ。


「ともかく、これで」


 そう言ってクライドはシェリルの手を取って、少し握る。


「こんな場所で朝からする話でもないじゃないか。行こう、シャワーを浴びて服を着替えたら今日はどうしようか」

「……以前、教えてもらった小説の感想をトバイアスさんに書こうと思っていたけれど」

「それはいいな。あいつも喜ぶだろ。ついでにまた新しいおすすめも聞くことができるし」

「そうね。ついでにお茶会のお誘いもしようと思っていて」


 そうしてシェリルとクライドは手を取って階段を上る。


 腑に落ちない気持ちはあったが、わからないことを駄々をこねて聞きだしても仕方がない。


 落ち着いたころに、タイミングを見てまた聞いてみたらいいだろうと考えを切り替えたのだった。




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