22 散歩
その日の夜、シェリルは日課の散歩を夜にしていた。危険がないように同行しているクライドは気持ちゆっくりと少しだけ前を歩いていて、シェリルは一生懸命に足を動かしているのに一向に追い抜く気配はなかった。
小さな虫の声と夜の少し冷たい風は気分を良くして思考をはっきりさせてくれる。考え事をするのにちょうどいい時間だった。
……彼女たちの関係性は愛情に基づくものではあるのよね……。
お互いを大切だとは思っているだろう。しかし一方は多大な負荷を追っていてもう一方は自分の要望を突きつけるだけ。
それでも苦悩を背負っているハリエットの方もまっすぐにケアリーのことを見つめていて大切に思っている様子だった。
「……」
「……難しい顔をしているな」
ふとクライドが言った。
「そうね。そうだと思うわ」
「帰ってきたときにざっくりと聞いたが、それほど不可解に思っているのか?」
「……」
彼の疑問はその通りで、事のあらましを話すと割と単純な話であり、シェリルはそれを打開する方法をすでに手にしている。それをクライドも知っているだろう。
先代たちの手記には様々なことが書かれていて、そこに解決のヒントがある。
けれども、事柄だけ見ると簡単でも人同士の関係性に焦点を当てるとこれは難しい問題であり、それを説明することに少し迷ったけれど、自分の気持ちに整理をつけるのに丁度いいと思いシェリルは口を開いた。
「ハリエット王女殿下に起っていることについてだけを見ると、あまり悩むことでもないと思うけれど……。詳しく話をすると、その侍女、セラフィーナの上司にあたる人、その方とハリエット王女殿下の問題が一番心に残っているの」
「侍女か、一番身近にいる存在だな」
「ええ、その方はケアリーと言って昔からハリエット王女殿下の母親代わりのような立場だったらしいわ。でも、彼女の言葉を妄言と決めつけたり……逆らうような態度をとると……多分、折檻……よりも酷いことをしていると思う」
あの手の痣はきっとその時にできたものだ。
子供を躾けるときに、バツとして固いもので手のひらを叩くような躾をすることもあると聞く。
ケアリーが折檻が必要だろうと言っていたこともあるし、ハリエットは今でもいわれのないことでその罰を受け続けているのではないだろうか。
そう考えるとあの掌をとても痛ましいものだと思ってしまう。
本人には悪いところなど一つもないのだから、耳を傾けていたわる気持ちがあればともに解決方法を探すのではないだろうか。
「それは痛ましい話だな。人に理解を得られない特性を持っているだけでもつらいだろうに」
「そう、つらいとは思っているみたいだったわ。でも……同時にケアリーのことを大切だとも言っていた」
「大切?」
「長い付き合いで時には優しく、そして厳しく導いてくれる人で、とても大切な人なのだって。だからハリエット王女殿下は彼女を慕っているのよ」
……でもセラフィーナは違うと思うのよ。彼女もきっと私と同じ気持ち、だから必死で今の状況を変えようと模索している。
シェリルよりもさらに深くかかわって見つめ続けて、苦しく思う気持ちは誰よりも強いだろう。
「でも私からすれば、ケアリーはハリエット王女殿下のことを彼女と同じように大切には思っていないように見えてしまう。ハリエット王女殿下の苦悩は計り知れないものなのに、寄り添うつもりもない」
「……」
「けれどハリエット王女殿下は、自分が駄目だからと言っていて……あの方が変えようと思えばきっと、精霊の声は変わらなくても苦痛は減らせるはずなのに」
「……」
「私はどうしても彼女がそんな思いをするべき人に思えない。それが悩ましくてでも、当事者のハリエット王女殿下が声をあげるべきで、彼女がケアリーを大切にしている以上は、彼女にしかそれを糾弾する権利はないような気がする」
そこまで言ってシェリルは自分の気持ちをはっきりと言葉にできて少し心の靄が晴れたような気持ちだった。
しかし返答を返さなくなったクライドが気になり、少し駆けて、そして彼の方を見た。
するとなんだか苦しそうな顔をしていて、それからシェリルの手をゆっくりと取って強く握る。それから横に並んで歩く。
彼は遠くを見ていた。
「……それは、まったく……君と同じような人じゃないか」
ためらいがちに言われた言葉に、パチパチと瞬きをする。
「シェリル、君は俺から見てずっとそんな状況にいる人だった。人が良くて、善良で、自分に関わる少ない人にできるだけ真摯に向き合って、いくらつらくとも俺に当たることなど一度もなかった」
「……」
「君がそんな苦悩から解放されなくとも、今よりもずっと楽な道があるのに、向き合って大切にして。けれど傍から見れば、君と同じように彼は君を大切になどしていない」
そうして語る声は喉が詰まっているみたいに苦しそうで、強く握られた手がその時の思いを物語っているようだった。
「しかし、他人はその関係を糾弾することはできない。一番つらい人間が一生懸命に相手を大切にしているのに、横やりをいれて糾弾しても君は納得しなかっただろう」
「……それはとてもつらかった?」
問いかけると、彼はしばらくして、足を止めてそれからシェリルの方を見た。
「一番つらかったのは君だ。それだけだ、情けのないことなんか俺はいいたくない」
不愛想な顔と言葉、でもその中にとても優しい彼の本音が見えた。
いろいろな思いを押し殺して言う言葉はシェリルのことをとても思いやっていて、深い愛情なんて言葉では言い表せない。
……それでもあなたは、私のそばでずっと思い悩んで心を寄せてくれていたのね。
痛みを伴って苦しんでも、そばにいてくれた。自分の生きざまは彼を長いこと、傷つけていた。
それはこれからも変わらない事実だ。それ以上に今から彼と向き合っていくしかない。
そして、ハリエットもまた変えていくことができる。
彼女を大切にして今を変えたいと願う人がいて、その人が深く深く傷つく前に、自分を本当に大切にしてくれる人に気がつくことができるだろう。
「ただ、その立場にいたシェリルだからこそたどり着く結論もあるんじゃないのか。俺は真面目とよく言われるが、頭が硬くて柔軟性に欠ける。その状況にあっても俺は耐えること以外の結論は出なかったんだ」
落ち着いた静かな声と二人が歩く音、それから小さな虫の音が響いていて、ゆっくりと歩みを進める。
「でも君なら、ハリエット王女殿下が納得する方法で目を覚まさせる方法を思いついたりするんじゃないか? 自分で目を覚まして、あっという間に行動に移した君なら……なんて無責任な言葉だったか」
「……いいえ、そうしたいと思ったわ。きっと早い方がいいもの」
「そうか、俺にも手伝えることがあったら言って欲しい。シェリルにならいつだって手を貸したい」
「助かるわ。クライド……それから、ずっと見捨てずにそばにいてくれてありがとう」
「……お礼を言われることなんてしていないが」
つっけんどんに返す言葉は少し嬉しそうで、暗闇の中でその横顔が小さく微笑んでいるのを見て、彼がとても愛おしいと思った。




